『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 1』(藤子・F・不二雄)
いや~、来てしまった! 来てしまいましたよ!! なにがって、『大全集』第一回配本分が!!
今回届いたのは、『ドラえもん』『オバケのQ太郎』『パーマン』の各一巻。この忙しいときに…。本当は昨日届いたのですが、今日までに上げないといけない仕事があって、泣く泣く我慢したんです。ドラ半分で。全部読みたかったけど! おかげで今日は眠いのなんの…。
いまドラを読み終えたところなんですが、いいわ~、これ。未収録が載っているのもいいんですが(コロコロなみの分厚さで、私が未読だったのは2、3話しかなかったけど^^;;)、それ以上に、連載予告や扉絵なんかも載っている。『小学三年生』1970年1月号の登場人物紹介では、しずちゃんが「しず子」になってたり、翌2月号ではドラえもんが「イヌとネコのできそこないロボット」となってたりして、まだ設定が固まってないのが窺えて実に面白い。
ちょっと意外だったのが、名作「白ゆりのような女の子」が、1970年6月号という、連載開始後半年で登場していたこと。ちなみに私は子どもの頃にこれで「疎開」という言葉を知った気がする。1970年の小学生の親だったら、リアルで疎開世代ですよね。作者よりちょっと若いくらいか(1933年生まれ)。
子どもの頃に読んだときは(その後大人になってからも何度も読んだけど)、単純に「思い出って美化されるよね」とかそんなふうに受け止めていたのだけど、今回あらためて読み直してみると、子どもが親元を離れ、毎日毎日農作業に駆り出され、教師からは鉄拳制裁、そりゃ死にたくもなるだろうし、そんなとこに女の子が出てくれば、まさに「白ゆりのような女の子」に見えるよなあ、なんて思ったりした。深いねえ。
もう一点、この作品で思ったのは(そして今までそういう視点がなかったのだが)、当時の教師というものが、国家の意思を子どもに注入するという存在であったこと。「鬼畜米英」なんてのも、この作品で知ったんじゃなかったかな。自分の頭で批判的に考えることのできる教師を養成するってのがいかに重要かということを考えてしまう。
ま、初期のドラは、どっちかというとそういう作者の思いが投影されたような作品よりは、後期の優等生ドラとは違ったハチャメチャドタバタ作品が主流で。今回、笑っていいものかと思いつつ、笑わずにはいられなかったセリフをちょっと紹介しよう。これは『小学三年生』1970年2月号で、連載第二回目。「愛妻ジャイ子!?」という作品で、その冒頭、のび太が机に向かって勉強している後ろでドラとセワシが会話をしている。以下はおそらくセワシの発言。4コマ使われている。
ついでにもう一つ。「けんかマシン」(『小学四年生』1970年3月号)の前半から。のび太が色んな人からいじめられ、犬にまで噛みつかれバカにされる。それを正当化していく場面。犬に噛まれて「やったなっ。」と怒るものの、うなられて逃げるところから。
とまあ、読む側の人生経験が深まるほどに、『ドラえもん』から読み取れることは深くなっていくのである。これもひとえに藤子・F・不二雄が描く世界のリアリティが優れているということだろう。深く深く空想された世界のごく一端を、作品として我々は見ているのだ。
といわけで嬉しくてついつい色々書いてしまったが、明日も仕事なのだ。どうしよう。(^^;;
…たすけてぇ、ドラえもん!!
今回届いたのは、『ドラえもん』『オバケのQ太郎』『パーマン』の各一巻。この忙しいときに…。本当は昨日届いたのですが、今日までに上げないといけない仕事があって、泣く泣く我慢したんです。ドラ半分で。全部読みたかったけど! おかげで今日は眠いのなんの…。
いまドラを読み終えたところなんですが、いいわ~、これ。未収録が載っているのもいいんですが(コロコロなみの分厚さで、私が未読だったのは2、3話しかなかったけど^^;;)、それ以上に、連載予告や扉絵なんかも載っている。『小学三年生』1970年1月号の登場人物紹介では、しずちゃんが「しず子」になってたり、翌2月号ではドラえもんが「イヌとネコのできそこないロボット」となってたりして、まだ設定が固まってないのが窺えて実に面白い。
ちょっと意外だったのが、名作「白ゆりのような女の子」が、1970年6月号という、連載開始後半年で登場していたこと。ちなみに私は子どもの頃にこれで「疎開」という言葉を知った気がする。1970年の小学生の親だったら、リアルで疎開世代ですよね。作者よりちょっと若いくらいか(1933年生まれ)。
子どもの頃に読んだときは(その後大人になってからも何度も読んだけど)、単純に「思い出って美化されるよね」とかそんなふうに受け止めていたのだけど、今回あらためて読み直してみると、子どもが親元を離れ、毎日毎日農作業に駆り出され、教師からは鉄拳制裁、そりゃ死にたくもなるだろうし、そんなとこに女の子が出てくれば、まさに「白ゆりのような女の子」に見えるよなあ、なんて思ったりした。深いねえ。
もう一点、この作品で思ったのは(そして今までそういう視点がなかったのだが)、当時の教師というものが、国家の意思を子どもに注入するという存在であったこと。「鬼畜米英」なんてのも、この作品で知ったんじゃなかったかな。自分の頭で批判的に考えることのできる教師を養成するってのがいかに重要かということを考えてしまう。
ま、初期のドラは、どっちかというとそういう作者の思いが投影されたような作品よりは、後期の優等生ドラとは違ったハチャメチャドタバタ作品が主流で。今回、笑っていいものかと思いつつ、笑わずにはいられなかったセリフをちょっと紹介しよう。これは『小学三年生』1970年2月号で、連載第二回目。「愛妻ジャイ子!?」という作品で、その冒頭、のび太が机に向かって勉強している後ろでドラとセワシが会話をしている。以下はおそらくセワシの発言。4コマ使われている。
ぼくらのすんでいる22世紀になると、…うーむ。(^^;;
ものすごくかがくがはったつして、
いろいろべんりなものが発明されたけど、
ばかにつけるくすりだけが、まだできていない。
ついでにもう一つ。「けんかマシン」(『小学四年生』1970年3月号)の前半から。のび太が色んな人からいじめられ、犬にまで噛みつかれバカにされる。それを正当化していく場面。犬に噛まれて「やったなっ。」と怒るものの、うなられて逃げるところから。
のび太:ぼく、ぼう力はきらいだ。…この展開に、スピリチュアルだの感謝だの、自分を変えて世界が変わった気になろうという思想を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。いやそれだけじゃない。「自己責任」の押し付けだってそうだ。正規の雇用がないのも派遣を解雇されるのも、全部自分のせいにされるような風潮を肯定する思想そのものだ。怒っていいのだ。怒っていいのだ、我々は。
の:こわいからけんかしないんじゃないぞ。
の:ぼくは平和主義者なんだ。
の:広い大きな心を持ってるんだ。
の:ぼくはえらいなあ。
ドラ:おかえり。学校はどうだった?
の: よかったよ、ぼくは今、最高にいい気分だよ。
ド: へえっ、なにかいいことがあったの。
の: あったとも。じつはこういう…………。
ド: なんだって!!
ド: それで、きみやられっぱなし?
の: そうなんだ。
の: ついにしまいまでがまんできたよ。
ド: それでいい気分?
の: そう。
ド: ほんとに?
の: うん………。
の: ………………………………………。
の: くやしいよォ
ド: そうだろうな。それがあたりまえだ。
とまあ、読む側の人生経験が深まるほどに、『ドラえもん』から読み取れることは深くなっていくのである。これもひとえに藤子・F・不二雄が描く世界のリアリティが優れているということだろう。深く深く空想された世界のごく一端を、作品として我々は見ているのだ。
といわけで嬉しくてついつい色々書いてしまったが、明日も仕事なのだ。どうしよう。(^^;;
…たすけてぇ、ドラえもん!!
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