『「血液型と性格」の社会史 血液型人類学の起源と展開』(松田薫、改訂第二版)(その1)(追記あり | ほたるいかの書きつけ

『「血液型と性格」の社会史 血液型人類学の起源と展開』(松田薫、改訂第二版)(その1)(追記あり

 評価に困る本である。
 分厚くて大変とかじゃなくて、色々と判断が錯綜して、なんとも評価しづらいのである。
 とりあえず、amazonにリンク をはっておく。改訂版も既に絶版のようであるが、古本では入手可能である。絶版に至った経緯も(初版については)書いてあるので、それも後で触れたい。

 さて。
 そもそも今回読んだ理由は、ABO FAN氏との「議論」の過程でABO FAN氏に読むことを薦められてしまったからである。当然、その議論の文脈で出てきた論点を中心に読んだわけで、普通にこの本に興味を持って読んだわけではない。なので、ここでもその論点を中心に紹介することになる。

 が、まあそれではあんまりなので、とりあえず本書の内容をごくごく簡単に説明しておく。
 これは、血液型と性格に関する心理学などの書物ではなく、「社会史」とタイトルについているように、「血液型と性格」がどのように着想され、概念が発展し、研究され、社会に受容されていったか、あるいはまたアカデミズムにおいてどのように否定されていったかを丹念に追ったルポルタージュ(あるいはノンフィクション)である。特に、戦前の動向が詳細に描かれており、血液型性格判断の歴史を知る上では貴重な文献と言えるだろう。労作である。
 また、戦前の医学者はドイツに留学することが多かったが、彼らが何を学んできたかも描かれ、当時の海外の動向との関連もわかるようになっている。

 というあたりに興味を持ち、深く知りたいと思う人は、以下に述べることを念頭に置いた上で是非読むべきだ。
 まず一つ。著者による推測が随所に出てくるが、よくよく考えると根拠が不明なものがある。たとえば、前回のエントリで紹介した原来復の論文について、「A型とB型の兄弟のばあい、A型が良く、B型が不良という、まさにデュンゲルン博士がいっていた例にあたり驚き」と述べているのだが、デュンゲルンがどこでそう述べたのか明らかではない。松田氏のことであるから、デュンゲルンの論文を調べたのかもしれないが、この本からは明らかではない(無論私が見落としている可能性もあるし、当時の欧米でのB型が劣等という風潮のことを指しているのかもしれないが)。
 次に、些細なことではあるのだが、あとで述べるようにそうとも言い切れない問題として、文体がある。どうにも読みにくいのだ。通常漢字にする単語が平仮名だったり(「当時」「思う」など)、文の構造が複雑で意味を取りにくかったり。これは、改訂第二版で追記されたらしい「補章」で特にひどくなる。
 そして、その「補章」の問題であるが、これはこのエントリの主題ともなるので、これからゆっくり述べることにしよう。
 いずれにしても、事実関係については相当資料を調べられたようで、そこのところは大変有用である。ただ、解釈が入るところは一筋縄ではいきそうにないのである。

 ここではやや変則的だが、なるべくフェアに紹介をしたいと思うので、まずは「補章」の中の、大村政男氏について触れたところから見ていこう。その後、補章の他の話題、なぜ補章が書かれたのか、と進んでいきたい。

【松田氏から見た大村評】
ここでは主にp.352からの数ページの内容について見てみる。この前段に、溝口元氏(と『科学朝日』)に対する批判が述べられている。これは後で触れる。
 まず、大村氏をこのように評する(漢数字は算用数字に改めた)。
 1953年生まれの溝口の友人という、1925年生まれの大村の本(引用者注:『血液型と性格』のこと)の中身は、デタラメどころではない。絶句する。
 原因は溝口どうよう、大村も資料をさがさず、原典は誤読し、故人への誹謗中傷どころか資料や年代までも捏造してしまっている。
えらい言われようだ。以下、一つひとつ見ていこう。

 最初に、原来復の論文が1916年に出版されたことについて、大村の言葉を引用している。どんな内容かというと、「すべて偉大な錯覚の歴史である」、「暗い年である」、原と小林の思いつきによって「血液型と性格」のベースが築かれたが、20世紀初頭に血液型が発見されてから1916年までに西欧ではなにも起きていないこと、それによって原と小林は最初のパイオニアになったこと、である。このような大村の言葉に対して、松田は「と、溝口どうよう血液型の歴史を消してしまう」と非難している。そして、原がデュンゲルンから血液型をならったことは原の論文にも書いてある、1916年は好景気なのに暗い年と解釈してしまう、と述べている。
 この非難は正当だろうか。
 私は大村の『血液型と性格』の新訂版しか持っていない。そのため、松田が上の文章を書くにあたって参照した文章とは異なっている可能性があることを考慮しつつ、大村の本を見てみたい。

 まず「すべて偉大な錯覚の歴史である」は、血液型の歴史についてではない。「血液型と性格」の歴史について、大村流に述べたものである(大村『血液型と性格』p.174以降)。だから、原がデュンゲルンから血液型をならったことは関係ないだろう。そのことをもって「錯覚」と言っているのでないことは明白である。また、「暗い年である」というのも一種のレトリックで、大村はその前に、同年に夏目漱石が『明暗』の連載をはじめたこと、コレラが発生し流行したこと、そして漱石が死去し『明暗』が中絶したことを述べている。それを受けての「暗い年」である。だから、これは単なる表現の技法上の話であって、当時の社会の雰囲気について客観的に評したものでないことは明白である。
 ついでに言えば、原の論文における「血液型と性格」の指摘は、前エントリで見たように、まさに思いつきの域を出ないものである。無論、それは論文の主旨がそこにはないからであり、そのことをもって原を批判するのは不適切だろう。むしろ、原を「血液型と性格」のパイオニアとして持ち上げてしまったために、原の本来の主旨とは異なる部分のみがクローズアップされたと言えるのではないか。原としても、それは不本意なのではないかと思う。

 さて、次である。なるべくフェアにいきたいので、松田氏が指摘する点は、なるべく全て見ていこう。
 旧日本軍における研究の紹介において、大村は、「平野と矢島の研究は、1925年7月、第7回日本医学会軍陣医学会で口頭発表されている」(p.76、前掲書)と書いている。これに対し松田は「平野たちの発表は、1926年4月2日灯台理学部で開かれた第7回日本医学会軍陣医学部会においてである。この年代の捏造は溝口もしている。どうも、大村と溝口は古川の研究開始より、平野たちの年代を早くしたい気持ちがあるようだ。」と批判する(「補章」だけでなく、本文の記述もその日付になっている)。
 これについてはなんともわからないが、日本医学会のウェブページ を見ると、東京で医学会総会が開かれたのは大正15年(1926年)となっており、また大村と松田で一致している「第7回」を基準に取れば、これは大村の間違いの可能性が高い。ただ、「新訂」版でも修正されていないのだが、その事情はわからない。なにか理由があるのかもしれないし、単に修正し忘れただけなのかもしれない。
 いずれにしても、これを「捏造」とは言わないのではないかと思うのだが。

 次であるが、すぐ上で引用した松田の文章は、そのまま段落を変えずに次のように続いている。ちょっと長くなるが、全部引用した方が伝わると思うので、blockquoteで引用しよう。
古川学説はウソだといいながら、大村は古川の行為を見ぬけず、資料を捏造してしまう。古川は第二論文で、自説の開始について、
「この研究は私が本年の初め頃から学校の放課後少しづ々実験して居りました」(『教育思潮研究』一巻一輯1927年10月)
 と、1927年からとかいた。が、著名になった1932年の単行本の『血液型と気質』では、「大正15年の秋から」(75頁)というぐあいに、1926年発表の平野論文を意識して、研究年代を早めたのだ。大村はこれに気づかず、単行本の文章を信じて、古川が1926年につくった気質検査表(39頁)という、存在しなかったものを捏造してしまっている。無いものをつくりあげる、大村の妄想グセは、古川の使った血清が北里伝染病研究所のものなのに、
「古畑種基(金沢医大教授)が作成した血清である」(91頁)
 と、青山胤通の東大と対立した北里柴三郎の伝研の歴史をしらず、かってに捏造し、読者を混乱させる。さらに、
「不思議なことには、古川は、自分の前に三つの研究があったことを知らない。(略)軍隊内にあった大きな研究のことをその論文中に引用していないのは謎である」(78~9頁)
 と、古川が先行論文無視で失脚したのに、なにもしらべず、「不思議」とか「謎」にしてしまう。全頁、こんな調子だ。
 なかなか激しい。一つひとつ見ていこう。
 最初の「自説の開始」については、たしかに『教育思潮研究』掲載の古川論文では「本年の初め頃から」と書いてあるし、また『血液型と気質』では「大正15年の秋から」と書いてある。つまり、古川の記述自体が矛盾している。また争点は古川がいつ実験を始めたかであり、論文の掲載日などと異なり、確認のしようがない。よほど状況証拠を調べあげない限りはなんとも言えない。そのような場合、よりメジャーな単行本の記述を信頼するのは当然ではないのだろうか。元が矛盾しているのであるから、それに従って述べたものを「捏造」と言われてはたまらないだろう。
 また、その意図についてであるが、これも根拠が不明である。仮に「研究年代を早めた」のが事実であるとしても、それが平野らを意識したものかどうかはわからない。それに第一、早めたところで「大正15年の秋」では平野らよりも遅いことには変わりがなく、早める意味がわからない。なにをもって「実験」の最初とするのかで、古川の中でも混乱があったというあたりではないのだろうか。
 さらに言えば、「気質検査表」であるが、まずp.39には載っていない。大村本ではp.84である。新訂版で位置が大幅に変わったのであろうか?また、これはそもそも古川の『血液型と気質』のp.74-75に載っているものである。「インストラクション」を除けば、『教育思潮研究』掲載の古川論文にも掲載されているものである。*1 大体、松田氏自身が、p.110で同様の表を掲載しているではないか。問題は、『血液型と気質』のほうでは、p.75に「大正15年の秋から」と書いてあることの是非であって、この表の存在自体は疑うべき点はない。それを「捏造」というのは「捏造」という言葉の定義があまりに松田氏独自のものと言わざるを得ないだろう。
 次に血清の作成者であるが、これは松田氏が正しく(少なくとも古川を信じる限り)、北里伝染病研究所からの入手であると『教育思潮研究』掲載論文には書いてある。なぜ大村が古畑作成のものと思ったのかはわからない。ちなみに大村本では、松田による引用の直前に「古川が発明した試薬ではなく、」と入っている。なお、同じ段落で溝口元の『科学朝日』1987年7月号が引用されているのだが、この部分についての言及はなく、大村がどこかでそう思い込んだのかもしれない。
 ついでに言えば、北里伝染病研究所の歴史(東大との様々な争いがあったことが本文で書かれている)とこの件についての関係がよくわからない。「歴史をしらず」ということに、どういう意味を込めたのであろうか。
 最後に、「失脚」の原因であるが、先行研究無視がその要因なのであろうか?私はそのような主張は松田氏でしか見たことがない。本文のほうでもそのことは少し書いてはあるのだが、原や平野らの論文を引用しないことにカチンと来る人がいたとしても、それが原因で「失脚」などということはちょっと考えられない。これはむしろ、松田氏が「先行研究の引用」ということに極度の重きを置いていることの反映ではないか、と思う。なぜそう思えるかは、後に述べたいと思う(「補章」からそれが伺えるのである)。それから、前エントリのコメント欄でB研さんが指摘されたように、古川にとっては原の論文はあくまでも血液型についての論文であって、「血液型と性格(気質)」についての論文とは思っていなかったのではないか、と見る方が素直なようにも思える。軍の研究についてはどうなのかはよくわからないが…。

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ええと、このペースでやっていては終わらんな。(^^;;
 繰り返しますが、この松田氏の本は労作であり、戦前の「血液型と性格」に関する歴史を詳しく調べたい人は読むべきだと思います。
 ただし、私の意図が、あくまでもABO FAN氏との「議論」の文脈の上にあるため、かなり批判的な紹介になってしまっていますが、価値のある貴重な文献であるというのが私の評価のベースですので、誤解なきようお願いします。

 この先についてはまだ全然書いてないので、どう展開するかわかりませんが、(^^;;
少しづつ連載していきたいと思います。って明日が返却期限なんだよな。どうしよう。第二回はしばらく先になるかも(イキオイで明日やっちゃうかもしれませんが)。

(以下追記)
*1 このエントリをアップしたあとにちょっと気になってあらためて見てみたが、大村本に掲載されている検査表は『血液型と気質』から取ったもの、松田本に掲載されているのは1927年の古川の論文(2本とも表が掲載されている)である。微妙な差異がある。松田本掲載の表はA組(Active)P組(Passive)それぞれ9項目、それに対して大村本掲載の表は10項目づつで、最後の1項目が追加されている。また、9項目目も、松田本掲載の表で「主張」となっているところ(「自分ノ主張ヲ枉ゲナイ方」など)が、大村本掲載の表では「考ヘ」になっている。8項目目も、「他人ノ意見ニ」が「他人ニ」に変化している。いずれにしても、これは1927年の古川論文から1932年の『血液型と気質』の間に起きた変化であり、古川内部での矛盾である。大村に責任はない。