ニセ科学への批判にあたっての留意点 | ほたるいかの書きつけ

ニセ科学への批判にあたっての留意点

あけましておめでとうございます。
旧年中は多くの方々に大変お世話になりました。また拙ブログにお越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

新年なんて、所詮人間が勝手に決めたもの、なにがめでたいものか…などと考えていた青い時期もありましたが、(^^;;
大学に入るころにはそのあたりとも折り合いがつき、いまでは無宗教にもかかわらず平気で神社に初詣に行く人間と相なっております。

というわけで新年にあたっての決意、というわけではありませんが(タイトルも本エントリの内容に比べてかなり大仰なのですが)、暮にある方とやりとりして、あらためて思ったことを一つ。

 「(考え中)」(eastcorridorさん) のコメント欄で少しやりとりしたのですが、そこでeastcorridorさんがニセ科学批判への違和感を表明 してらっしゃいます。eastcorridorさんは、「水伝(水からの伝言)」が科学とは到底思えないのに、なぜわざわざニセ科学と言って批判をするのか、と思ってらっしゃいました。水伝についての実態(どのように科学的実験を装っているか、など)について知っていただくことで、ある程度はご理解いただけたかな…と思っています。

 さて、いわゆる「ニセ科学批判批判」の中には、そのエントリのコメント欄でも出てきた論宅氏 のように、悪しき相対主義の立場から無駄・無意味な批判を繰り広げる人もいるのですが、一方で、ニセ科学批判のひろがりを反映して、水伝への批判記事で初めて水伝に触れるという人も大勢いると思います。その際に、記事の論調によっては、見た人が「うわなにこれ」と思ってしまうことがあってもおかしくない場合がありそうです。(水伝に限らず)なぜ批判されているのかを知る前に、攻撃的な論調に引いてしまい、そこで実態を知るという行為がストップしてしまうと、「妖怪どっちもどっち」になってしまいかねない。

 そうならないためには、なぜ批判されるのかの要点がわかるように批判記事が書かれていると良いのですが、もちろんあらゆる記事には記事が書かれた文脈というものがありますし、すべてを説明していると長くなりますし、万人が読めるのがネットの記事とは言え記事というものは読者をある程度は想定して書かれてもいます。ですから、完璧なエントリを書くのは無理にしても、単に実態を詳しく知らないがためにニセ科学批判への批判を表明している人を、単純に「ああ、批判批判の人ね」と色眼鏡で見ないようにしたいと思います。

 こういうことは過去にも様々な人が留意すべき点として指摘していたと思いますが、ついついおざなりにしてしまうのですよね。私も江本勝のブログを批判したりするときに、「うわこんなこと書いてるよ」みたいなことしか書いていない場合もあるんじゃないか、そういう指摘だけして肝心の何がおかしいかについてもしかしたら書いていないかもしれない、とかいうことがあったかもしれません。(汗) 注意したいと思います。

 このことは、しかしニセ科学批判にとっては、その拡がりを示す一つの事例にもなっていると言えるでしょう。従って、今後も似たような「違和感」を表明される方は出てくると予想されます。その際に、「そんなこともわからんのか」のような非難をぶつけ、「あちら側」へ追いやってしまうようなことがないよう、気をつけたいものです。

 ところでその論宅さんのコメントですが、これがまさに論宅さんの立ち位置を示しているように思われます。論宅さんのコメントを引用します。
 eastcorridorさん こんにちは 論宅です。少しコメントさせて下さい。
 私も水伝を読みましたが、eastcorridorさんのように科学とは思いませんでした。
 水伝が人々にどのように受け取られているのか調べるためには、大手各書店のどの分野のコーナーにおいてあるのか確認することで少しわかりそうですね。宗教や精神世界のコーナーに置いてあるのか、サイエンスや学術書のコーナーにあるのかです。ちなみに、スピリチュアル本はやはり精神世界のコーナーにあります。ある書店では、水伝は科学ではなく、写真集のコーナーにありました。大人による視点という意味では、この観察は適切かと思います。
 現在のところ、水伝を人々がどのように受容しているのかという社会学者による社会調査は見たことがないのですが、社会学的に個人レベルで調べるとなると、上記のような手もあります。FMSさんの暗黙の前提(カルト=悪とか?、実験や客観的事実は科学だけのものとか)には異論がありますが、場が違うので、ここでは差し控えておきます。失礼しました。
私のハンドルネームを間違えているのは措いておきましょう。この論宅さんの主張、「どのコーナーに水伝本が置いてあるか」は、確かに一つの指標になります。しかし、だからと言って、水伝が科学として受けとめられてはいないということを示すことにはなりません。
 それは、一つには、大半が非科学と認知したとしても、1%の人が科学だと思うだけでも実数としては相当数にのぼることがあります。1%だから批判しなくてもいいということにはなりません。もう一つは、eastcorridorさんによる論宅さんへの返信が端的に示しています。
情報ありがとうございます。私の近所の書店では、最近ではあまり水伝関連の本は置いていないみたいです。ニセ科学であるという情報が広まって、引き上げてしまったのでしょうか?
ここには「批判があることにより水伝本が撤去された(あるいは科学コーナーから精神世界コーナーへ移った)のかもしれない」という当然の疑問が提示されています。もちろん実際のところはわかりません。書店によっても違うでしょう。しかし、科学書に置いている(いた)書店は確実にあります。そのあたりは、「水に伝言 ぬかに釘 」内の、「本屋はそれをどこに並べるか? 」に紹介されています。ついでに言えば、時系列でどう変化したかを調べても面白いかと思います。

 このような「動的」な見方-批判によって水伝の扱いが変化する-は、意識の(しかも論宅さんの!)此岸に受かびあがったものだけを「絶対」のものとして取り扱うという論宅さんの姿勢からは、決して出てくるものではないでしょう。重要なのは、絶対者としての視点から社会を解釈して理解した気になるのではなく、この社会とどう関わり、いかに変革していくのか、ということにあるはずです。それは「どういう社会がいいのか」という価値観と密接に関わるものではありますが、しかしそのことが、科学を特定の価値観から独立させ、健全に発展させる保障になるのだとも思います。

 というわけで、ニセ科学批判の輪を拡げつつ、今年もバシバシ批判していきたいと思っています。と言いつつ、またしばらくは(2月後半ぐらいまでと予想)忙しくて更新も滞りがちになりそうですが…。なにはともあれ、今後ともよろしくお願い致します。