ポスドク問題と財界の人づくり戦略 | ほたるいかの書きつけ

ポスドク問題と財界の人づくり戦略

バイオ系ポスドクの現状について、『赤旗』が短い解説記事 を書いている。99年にバイオ産業の業界団体「日本バイオ産業人会議」が日本の博士はアメリカに比べて少なすぎるのでポスドクを増やせ、と要求し、それを受けて政府がバイオテクノロジー関連のポスドクを大量に増やした(ちなみに大学院重点化で院生が急増するのは95年頃からか。彼らが博士号を取るのが2000年頃、ということになる。就職難の本格化がそのあたりだろう。分野にもよるだろうが)。
 ところが、民間企業の博士・ポスドクの採用はあまり増えていない。それどころか、製薬大手は研究所を閉鎖し、研究者をどんどん減らしているそうだ。
 大企業による大学の「利用」が進んでいる。単なる産学協同ではない。自分たちは人を採らず、大学で研究をやらせ、その成果を「利用」する、というわけだ。
 この記事によれば、共産党の石井議員が政府に「大企業に、博士やポスドクの採用を増やすべきだ、社会的責任を果たせと求めるべきではないか」と迫ったところ、「機会あるごとに求めていく」と答えたそうである。実際はさらにポスドクの意識改革もある程度は必要だろうが、企業側も積極的に人を採るようしてほしいところだ。

 さて。
 ポスドク使い捨てとでも言うべき流れは、実は80年代からの財界の基本戦略にのっとったものと見るのが正しいだろう。日経連による80年代半ばの「新時代の『日本的経営』」や95年の「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」に、これからの労働者像が描かれている。ちょっと古い文書なので原論文が見当たらないが(私もちゃんと読んだわけではないけど)、ちょっと調べたら共産党杉並区議の原田あきら氏のウェブページ に簡潔にまとまっていたので、ちょっと長いが引用させていただこう。
笑ってられない財界の支配者意識

「大多数の普通の人間」は「凡才・非才であって…」

 右の見出しのような差別的発言を行っているのはなんと日本財界四団体が一堂に会してつくった報告書「21世紀に向けて教育を考える」(1985年)です。財界の提言をみればなぜ教育基本法が変えられようとしているのか一目瞭然となります。


エリート以外は教育しない?

 この報告書を出したのは日本経済調査協議会という団体。これは日本財界四団体(経済団体連合会、経済同友会、日本商工会議所、日本貿易会)によってつくられた、文字通り日本経済界の主張・提言を行う場です。
 この報告書は「国民の分類」なるものを示したことで有名となりました。まず創造性のある人間を「天才」「能才」「異才」に3分類します。いわゆるエリートです。そして「この三つ以外の普通の人間は凡才、非才であって…(中略)…大多数の普通の人間は能才的創造性の域にさえ到達できない」と述べ、エリート教育の必要性を説く根拠とするのです。
 財界の選んだ超一部のエリートに教育の予算も光も集中させる…このために大多数の人の「教育の機会」を奪うところに、この「国民の分類」の重大な問題点があります。日本財界の驚くべきエリート意識と選別思想が教育の機会均等の破壊を訴えています。


「できんもんはできんままで結構」

 1995年、財界の一つである日経連の出した「新時代の『日本的経営』」という報告書ではこれからの企業の人事戦略として、労働者を①長期蓄積能力活用型グループ ②高度専門能力活用型グループ ③雇用柔軟型グループに3分類しています。端的にいえば①がエリート、②が短期契約の専門家、③は大多数の低賃金・首切り自由の労働者です。
 こうした財界にとって都合のよい、差別的な雇用政策を実現するために教育が利用されています。
 教育課程審議会会長だった三浦朱門氏は’00年、経済ジャーナリストの斉藤貴男氏のインタビューに答えて、選別思想に基づく教育改革の狙いを見事に語り切っています。
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これが財界の本音 三浦朱門氏の仰天発言!! 
 『学力低下は予測しうる不安というか、覚悟しながらやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならないということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。…それが「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育とはいいにくい時代だから、回りくどくいっただけの話だ。…だから、教えない。「劣っている」と判断された子供は、積極的に無知に育てる。』
(斎藤貴男『機会不平等』より)
(下線は引用者による)
下線の部分を見ていただきたいのだが、ようするに一握りのエリート(これを見ている方でここに当てはまる方はまずおられないだろう)、専門家、「フツーの」労働者、と分けてしまい、これが「多様な労働者」だと言う訳だ。ちなみに大学の教授だって当然「エリート」ではない。だから、政府は執拗に大学教員に任期を付けようとしたわけだ。欲しいのは成果で、有期雇用にしておいて成果が出なければ別の専門家と取り替える、つまりスペアはいっぱいいる、と。
 そしてごくごく普通の労働者は「積極的に無知に育てる」ということで、労働基準法も組合も知らず、従順に働かせる、労働条件がどんなに劣悪になっても文句を言わない、あるいは別のところで憂さを晴らす(治安に影響ない範囲で)、そしてどんどんパート・派遣に切り替え、調整弁としていつでも首を切られるようにする。
 こうして見ると、今の世の中、まさにこの通りに進んでいるなあ、とある意味感心さえしてしまう。政府の無策でこうなったのではなく、狙ってやったわけだから。だから秋葉原の事件だって、あれで大規模な抗議なり暴動なりが起きさえしなければ、政府・財界にとっては痛くもかゆくもないのだろう。

 この「積極的に無知に育てる」という戦略は、この原田区議のページにも書いてあるが、もとの教育基本法の理念、つまり「人格の完成」に真っ向から反しているのは明白だ。
 そして、ここに、私がニセ科学を批判する理由の一つがある。