ニセ科学の非科学性を指摘することで信者は減るか? | ほたるいかの書きつけ

ニセ科学の非科学性を指摘することで信者は減るか?

 と言えばもちろん減らないだろう。残念ながら。「非科学ですよ」と言って信者が減るならそんな簡単なことはないわけで。もっとも、そうなっちゃうほうがちょっと怖い、という気もする。いずれにしても、そんな能天気な人は、実際にニセ科学を批判している人の中にはそうそういないだろう。

 ではなんのために、ニセ科学のうちの非科学に関する部分を批判するのか。

 ニセ科学を信じている人にとって、本質的に重要なのはもちろん科学かどうかではなくて、その結論だろう。血液型性格判断を信じる人は、人を単純にカテゴライズしてわかった気になりたいわけだし、マイナスイオン製品に魅かれる人の多くは、理屈はともかく健康に寄与するかもという期待を込めるわけだろう。そして水伝の場合は「良い言葉」を使わせたがったり、表面的でも何でも「愛」や「感謝」という言葉に触れて良い気分になりたいわけだ(もちろん、それはどういうニセ科学かに依存するけれども)。
 では、ニセ科学において、科学を装うことの意味は何か、と言えば、それは多くの場合、信じる人にとっての「心の支え」なんだと思う。つまり、「こんな話、信じちゃっていいのかしら」という疑問が心のどこかに湧いたときに、「大丈夫、信じていいんだよ」と言ってくれる存在としての「科学」が重要なのだろう。信じたいものを信じる、のだけれども、どこかで「本当かな?」となったときに「本当だよ」と言ってくれる存在。だから、ニセ科学にとって「科学」であることは本質ではない。深く信じてしまえば、信じたことそれ自体が支えになるだろう。「それは非科学だ」と言われても、「それでもいいもん」となってしまう。

 で、そんなことは百も承知で批判しているわけで。
 批判することで何を期待しているかといえば、
(1)ニセ科学のケーススタディをすることで、ニセ科学がどういう構造を持ち、どのように人を騙すかのパターンを知ることができる。これによって、別のニセ科学をも見破ることができるようになる。
(2)土台が間違っていることを明確に示すことで、信じそうになっている人に踏みとどまらせる。
(3)批判の声をあちこちで上げることで、ニセ科学が蔓延する土壌を切り崩す。
(4)その他
ということになるだろう(「その他」は他にも多分あるだろうから書いといた)。ちなみに(1)の観点から、導入として色々な事象に対して科学かニセ科学かの○×表みたいなものを作るのが無意味とは思わない。まずは事例を知ることが重要だと思うので。

 ニセ科学を批判するより、科学の面白さを伝えるほうが、言うほうだって楽しいに決まっているし、科学それ自体への理解がもっともっと広まって欲しいと思う。しかし、おそらくは、残念ながら科学への理解がどれだけ深まっても、それだけではニセ科学はなくならないと思う。「科学を伝えること」と「ニセ科学を批判すること」は、深く関連してはいるけれど、別個のことだ。より良い世の中のためには、どちらもやらなきゃならないのだと思う。

 まあこういうことは今までも散々議論されてきていることなので、特に新しい議論というわけでもないのだけれども、ちょっと整理、ということで。