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吉祥寺でイタリア語の友人とランチ(2024.4.22)@吉祥寺おもてなしとりよし

吉祥寺でイタリア語の友人とランチ(2024.4.22)@吉祥寺おもてなしとりよし

 

 

コロナ前まで 吉祥寺の井の頭公園入口にあるこのお店は 「金の猿」という高級日本料理店だったが 今は リーズナブルな「おもてなし とりよし」となっている 鶏肉がメインのお店で 予約で満杯

 

 

もっと早く 「金の猿」の時に行っておけばよかったな... この入り口のたたずまいがなんともいえず素敵💕

 

 

吉祥寺のイタリアン「i primi vaci」のすぐ下にあります🍴

https://tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13269836/...

 

 

井の頭公園を散策すると 鵜(Il cormorano comune)の鳴き声が突然聞こえた 見上げると木の上に巣があった🐥

 

 

私の今のイタリア語は 18年間習ってきた数多くのイタリア人の先生方の労苦の上に成り立っている

 

あれだけの努力と 費やした時間とお金と 何箱もの本やプリントや 今つながりのある人々のことを思うと レッスンは取っていなくとも けっしてやめることはできない と 友人に話した

 

私よりも10才以上のシニアの友人は あら~私はボケ防止よ と😲 ← 私もそう言ってみたい...(笑)

 

私の頂上(vetta)は 2019年12月のスピーチコンテストにあり 今はゆっくり下り坂...

 

ゆっくり降りようっと

 

 

 

サイボーグ009旧作「太平洋の亡霊」56年を経てのコミカライズ発売!&芹さんの思い出

サイボーグ009旧作「太平洋の亡霊」56年を経てのコミカライズ発売!&芹さん(芹沢有吾監督)のインタビューの思い出

Un eposodio di "Cyborg 009" è uscita come fumetti dopo 56 anni  & il mio ricordo della intervista a Seri-san (regista Yugo Serizawa)

写真:  雑誌と特別付録の脚本  サイボーグ009パーフェクト・メモワール(リイド社/1980年発行)

 

 

旧作サイボーグ009太平洋の亡霊」(オリジナルエピソード)が  秋田書店チャンピオンRED 6月号(4月19日発売)にてコミカライズされた

Un'episodio di Cyborg 009 (1968/bianco e nero): 「L'anima di defunto dell'Oceano Pacifico」(l'episodio originale) è uscita nella rivista ricentemente.

 

脚本家 辻真先先生のFacebookのページで知り 早速買った

L'ho letto su Facebook del sceneggiatore Masaki Tsuji, l'ho comprato subito.

 

 

 

19才くらいの頃 「サイボーグ009ファンクラブ」(当時会員1,000名超)の本部スタッフとして 旧作(白黒)サイボーグ009の芹沢有吾監督(通称芹さん)のインタビューをさせていただいた

Quando avevo circa 19 anni, ho fatto un'intervista a Seri-san (regista Yugo Serizawa) come uno staff centrale di Cyborg 009 fun-club (a quell tempo c'erano più di 1,000 membri!).

 

芹さんはこの旧作009の代表作である「太平洋の亡霊」(第16話)のラストで出てくる平博士の息子の名は 監督ご自身の亡くなられた息子さんの名前だとおっしゃった 

Seri-san mi ha confessato che il nome del figlio del professore Taira (colpevole) deriva da suo figlio morto.

 

脚本家の辻真先氏はこう語っている:

「同作は「映画秘宝」誌上で テレビアニメ・オールタイムベストワンの評価をいただきました。

反戦テーマに振り切って書いたシナリオが、ますますキナ臭くなった令和の今どう受け止められるのか。

読者のみなさんの未来を占うかもしれません。関心をもってご愛読くださいますように。」(脚本家 辻真先氏のFBより)

Sceneggiatore Masaki Tsuji dice:   Quest'opera viene apprezzata il TOP di tv-anime all-time best 1, ecc.

Come sarà accetata questa sceneggiatura contro la guerra in questo tempo più vicino alle guerre? 

 

      *        *        *

 

自分にとってこの旧作009(1968年4/5~9/27NET系現テレビ朝日にて放映)は「幼児体験」というべきものでもあり 私の人生行路は ここから始まった 

まだ8才で ビデオもなく たった1度しか観ていないのに 自主上映会が開催される高校生になるまで 記憶は強烈で鮮明に残っていた 

Per me Cyborg 009 (1968/bianco e nero) fu come l'esperienza nell'infanzia, da cui fu cominciata la mia strada...

Avevo 8 anni, senza video, l'ho vista solamente una volta, ma la memoria fu rimasta così forte.

 

それが今 脚本家ご存命中に この争いの絶えない今の時代に蘇る... 

私は 大切な我が子が独り立ちして歩き出すのを はらはらと見守るような気持ちだ 

009が自分のルーツであることは 大切すぎて  そうそうは人に言えずにいたくらいだったから...

 

Adesso è ritornato come fumetti in questi tempi piena di confritti e le guerre mentre il sceneggiatore è vivo...

 

Io personalmente mi sento molto inquietata come se un mio neonato  cominciasse a camminare da se stesso, perché finora non ho potuto confessare facilmente che la mia strada risale a Cyborg 009...

 

ありがとう

Grazie

 

 

ー 『サイボーグ009』生誕60周年の この年に ー 

ー nell'anno 2024, il 60o anniversario della nascita di "Cyborg 009" ー 

 

写真:  雑誌  サイボーグ009パーフェクト・メモワール(リイド社/1980年発行)

 

 

 

サイボーグ009パーフェクト・メモワール(リイド社/1980年発行) 白黒アニメ「太平洋の亡霊」紹介ページ

 

 

チャンピオンRED 2024年6月号 | 秋田書店 (akitashoten.co.jp) 

詳しくは こちら

  

サイボーグ009 旧作」 Amazon Primeで観られます 

 

『テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本』に行ってきました(2024.4.12)汐留美術館

『テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本』に行ってきました(2024.4.12)@パナソニック汐留美術館

 

 

 テルマエ展』にようやく行ってきました!  

 

汐留と新橋の近くにあるパナソニック汐留美術館は 上野に比べて割と小さくて チケットもあまり高くないし 人も少なめでゆっくり観られて お土産も買えました💕 ずうっと観ていたかったです😊

 

今回は 私も訪ねたことのある「ナポリ国立考古学博物館(Museo Archeologico Nazionale di napoli/MANN)」から《恥じらいのヴィーナス》(Statue of Venus) や《アポロとニンフへの奉納浮彫》など 30点以上が来日しています! 

 

この博物館には50万点が所蔵され 5万点が常設展示されているそうです😲 私も2015年に行った時は半日かかりました~🖼

 

 

まずは 入場前にビデオを観ました📺

 

ポンペイにもテルマエ(terme/温泉)が5カ所あるとのこと  Baiaも温泉地でしたが 紀元前1世紀に古代最古の温泉が作られたそうです😲

 

床下暖房(ヒュポカウストゥム/hypocaustum)もあり 3メートルもあるヘラクレス像が飾られ ヴィーナスも多く描かれ クラウディウス水道から水をひいてきたり 5千ヘクタールもの森林から火を起こしたのだそうです

 

    *   *   *

  1.  序章 テルマエ/古代都市ローマと公共浴場

 

ローマ市で最初のテルマエは 初代皇帝アウグストゥスの右腕 アグリッパ*によって紀元前25年に建設されました。

 

 *高校の美術室に必ずといっていい程 その彫像が置いてあるアグリッパ💕

 

今も地上に遺構がよく残っているのは カラカラ浴場(217年)と、ローマ市で最大のディオクレティアヌス浴場(302年頃)です。

(チラシの写真は カラカラ帝です  ひげのある皇帝は少なかった) 

 

大規模なテルマエの運営には 水道の管理・維持に加え 大量の燃料と奴隷を必要としました。そのため古代ローマの風呂文化は、中世には消え去ってしまいました。

 

ギリシャ語で「熱」を意味する「テルモス」が テルマエの語源とのこと

 

 

第1章  古代ローマ都市のくらし

 

古代ローマ人は、古くは質実剛健を旨とし、農業こそが富の正しい源であると考えていました。しかし、地中海に勢力を拡大して圧倒的な富を手に入れると、その生活も変容していきます。

 

帝政初期には、ごく一部の特権階級と「大衆」の格差はかつてないほどに広がりました。皇帝たちは大衆の不満を解消すべく、食糧の施与や、剣闘士試合、演劇を含む見世物など娯楽の提供という施策をおこないました。

テルマエも大衆からの人気獲得に大いに役立ちました。庶民たちのくらしは特別な日の見世物と、毎日の仕事の後のテルマエによって彩られていました。

 

古代ローマの市民たちは 水道や台所もなく 居酒屋に食べに行ったりしていました 最近発掘されていますね😊

 

 

第2章 古代ローマの浴場

 

公共浴場のルーツには、自然の温泉のほかに、古代ギリシャの運動施設の水風呂や、医神の神域の入浴施設がありました。

ですがそれを大衆の娯楽のために、驚くほどの規模へと発展させたのは古代ローマ人でした。

 

ギリシャでは若者たちは肌に油を塗り、全裸で運動したため、運動後にはストリギリス(肌かき器)で汚れを落とし、水で身体を洗う必要がありました。

ギリシャでは女性の入浴の場は自宅に限られていましたが、ローマでは女性もテルマエに通うことができました。

水や湯をふんだんに使用するテルマエは、水道をはじめとする高い建築・土木技術に支えられていました。

 

         ストリギリス(肌かき器) ← 痛そう~😢

 

軽く運動をしてから 冷却室(フリギダリウム/frigidarium ) 温浴室(テピダリウム/tepidarium) 熱浴室(カルダリウム/caldarium)の順に入ってゆき マッサージ等をします 

また 温泉のあとは 朗読会や図書館などもあり 階層を越えた市民交流の場でもあったのですね

混浴はなく 午前は女性 午後は男性と分けるところもあったそうです 

 

また 古代ギリシャのギュムナジウム(運動施設)も ルーツの一つだったそうです 

そして 医療と健康の神 ギリシャのアスクレピウス信仰が始まりました

展示では 古代ギリシャの女性たちの装いとして キトンという衣装に ヒマティオンというマントを被っていたそうです これは トーガの原型とのこと  ←これが個人蔵とは😲

 

エトルリア製の鏡もあり ピュクシス(pyxis)という小物入れの断片に 裸体女性の浮彫が描かれていました 

当時使われていた 水道のバルブや ライオン頭部の形をした吐水口も興味深かったです😲  

 

 

第3章 テルマエと美術

 

テルマエは、大衆が美術品を間近に見ることができる場でもありました。床には水に強いモザイクが敷かれ、1〜2世紀には白黒モザイク、それ以降は多彩モザイクが好まれました。

 ローマの大規模なテルマエには数多くの大理石彫刻も飾られました。皇帝や浴場の建設者の肖像のほかに、神々の像や古代ギリシャの有名作品のコピーが、壁面のニッチや円柱の間の台座の上に並びました。

浴場のルーツのひとつであるギュムナシウム(運動施設)にちなんだアスリート像や、それを守護するヘラクレスの彫像など、浴場にふさわしい主題が選択されました。

 

ヴィーナスの絵や像 ヘラクレスの像もたくさんありました

 

 

第4章 日本の入浴文化

 

本展の最後の章では、国内に残される地方色豊かな温泉文化にも触れながら、日本のお風呂の歴史を概観します。

日本において入浴の習慣が定着したのは江戸時代、家庭内の風呂が当たり前になった現在でも、東京だけで約700軒もの公衆浴場が存在しています。温泉地へ旅することや近年のサウナブームも、日本人がお風呂好きな民族であることに起因するのでしょう。

 

『テルマエ・ロマエ』の主人公・ルシウスが、浴場を通して日本とローマを往復したように、古代ローマと日本のそれぞれの入浴文化を体感ください。

 

 日本の銭湯の模型展示

 

最後の章は日本です 

日本書紀には 最初の温泉の記述が残っていること 仏教による入浴の功徳 穢(けが)れ意識に起因して温泉が発達したこと そして江戸時代に入って入浴の習慣が定着し 1591年初めての銭湯ができたことなどが 貴重で今日深い展示とともに紹介されていました

 

ヤマザキマリさんと青柳正規先生の対談は即満席で行かれませんでしたが 「ヴェスヴィオ火山噴火10月説」も紹介されたようです😲 ← 辞書の書き換えにもつながる大発見😲

 

        クリアファイルをお土産に😊

 

 

『テルマエ展 お風呂でつながる古代ローマと日本』展(2024.4.6~6.9)は こちら

 

みどころは こちら

 

 

 

「Giorgio De Chirico デ・キリコのMetafisicaの世界」のセミナー

「Giorgio De Chirico デ・キリコのMetafisicaの世界」のセミナーに参加しました(2024.3.13)@LCI

 

 

今年のイタリア関連の展覧会は ジョルジォ・デ・キリコですね🖼

吉祥寺のLCIのオンラインセミナーに参加しました💻

 

 

ジョルジォ・デ・キリコ(1888~1978)   はギリシャ生まれ 父は鉄道技師 母は男爵夫人で コスモポリタン・ファミリーでした😲

弟のアンドレアはアテネ出身 のちにAlberto Savinioと名を変えます

1905年 キリコが17才の時に 父(62)が亡くなります 

1903~06年に アテネで絵画を学び  1906~09年に ミュンヘンの美大に通います

 

マックス・クリンガーMax Kringer(1857~1920)は ドイツの象徴主義(simbolismo)* シュルレアリスムの先駆として  デ・キリコらにも多大な影響を与えました 

 * 象徴主義:   記号や寓話を用いて 神秘的でスピリチュアル 濃い色を用いた夢のような雰囲気の絵画
 

またアーノルド・ベックリンArnold Böcklin(1827~1901)も象徴主義の画家ですが 20世紀のシュルレアリスム絵画にも大きな影響を与えました

 

デ・キリコの作品にはニーチェのモットー(謎以外の何を愛せようか)が刻まれています 

1909年 19才で母と弟のいるミラノに移ります

(1909~1919年の作品が最も知られています)

 

     *     *       *

 

メタフィジカ(la metafisica/形而上絵画) フィレンツェ、パリ、フェッラーラ

 

1910年にフィレンツェへ移ります

ベックリンの時代が終わり 初期のメタフィジカ絵画*が生まれるのですが 健康に問題が生じます

 

 * メタフィジカ:  絵画の表現方法(遠近法、明暗、色彩)を使って現実を越える何かを表現できるようになり、無意識に属す夢や原子を描写する 写実的な風景であっても 場違いな要素があるため夢のような雰囲気を感じさせる

 

 

1911年にパリへ  イタリア広場(piazza d’Italia)をテーマとして形而上絵画を描き始めます

光と色の明確なコントラスト 空間の協調 人がいないかとても小さく描かれていますね😲

遠近法に則っておらず 柱廊はアーチ状 古典的な像 孤独感が漂います

(私はイタリア文化会館のレッスンで使っていたテキストで 初めてデ・キリコの絵画を観たのですが 衝撃的でした😲)

 

イタリア広場(Piazza d'Italia) 様々なバージョンがあります

 

 

ニーチェの影響  

 

ニーチェはトリノを愛していました

1911年に再びパリへ ピカソとアポリネール(最前線でこめかみに流れ弾を受けた)はデ・キリコを称賛したそうです

 

前衛的芸術のギャラリーを運営していたポール・ギョーム (画商) と 初めて絵画の売買契約を結びます😊 

 

1915 第一次世界大戦が勃発!!  弟とイタリアへ帰国します

1917年 神経疾患で入院中に カルロ・カッラと出会います 

彼は未来派(futurismo)および形而上絵画の画家で デ・キリコと接して形而上絵画を描くようになりますが のちに形而上絵画というアイデアを巡ってデ・キリコと対立することとなりました

 

ここでメタフィジカが誕生しますが 未来派と 形而上絵画は対局にあるとのこと

 

デ・キリコにとって フェッラーラは最も幾何学的でメタフィジカな都市でした 

ルネッサンスの完全な対称形ですね

 

メタフィジカの起源はアリストテレスに遡り 物理的なものを超越すること 目に見えないものの存在を意味するのですね

 

アルベルト・サヴィニオ(弟)  ジョルジォ・モランディ  カルロ・カッラ  フィリッポ・デ・ピシス等が代表的なアーティストです

 

形而上絵画の特徴は 人間の一般的な感覚では見えない現実 神秘、幻覚、夢を表現、 幻想的な空間等です

 

    *        *       *

 

Gli interi metafisici 形而上学的インテリア

 

フェッラーラの街のゲットーとその店への関心  ビスケットにはメタフィジカの側面があり そのため ゲットーの店から刺激を受けて フェッラーラ伝統の菓子やパンを使った絵画を制作しました

 

ここでクイズ:   フェッラーラの伝統的なお菓子は?  

   答えは  Coppietta ferrareseです😊 

 

絵の中の絵  ミケランジェロへのオマージュ

ここで 「ダビデの手」のある形而上的室内の絵を描きます

 

 

マヌカン i manichini

 

1917年に フェッラーラでは マヌカンシリーズが始まります 

ギリシャ彫像のかわりに 顔がなく平べったい顔面のマヌカンが登場するのですね😲でもマヌカンには生命がないのです

 

  マヌカンシリーズ (i manichini)

 

ここで カルロ・カッラの作品との違いを見てゆきました

 

室内 顔が小さく信ぴょう性が薄い等です

 

 *        *       *

 

Lo sviluppo degli anni ‘20 dalla metafisica al clasicismo

20年代におけるメタフィジカと古典主義の発展

 

1920~24年 ローマ・フィレンツェ 

ルネッサンスの作品に刺激を受けており ラファエロの愛人の絵 「la fornarina」と デ・キリコの絵はポーズもよく似ていますね😲 

こうして デ・キリコは ラファエロの作品 「アテネの学堂」等をモデルとして活用してゆきました

 

イタリア広場(1950)の作品にも ラファエロの影響が見られます

 

放蕩息子』(1922)にも メタフィジカの要素と 古典的要素が混在していますね

息子はデ・キリコ 父は古典的伝統を表すとのこと😲

 

アルゴナウタイ(Gli algonautai)にもメタフィジカの要素があり 古代ギリシャ関連の要素を含んでいます

 

1925~27年 再びパリへ  光のメタフィジカを研究します

地中海の神話』 この背景は海岸のメタフィジカですね

解剖ヌードと形而上学的インテリア等 デ・キリコにとっては

嵐の海よりも 穏やかで平らな海の方が厄介でした

 

 

1925~27年 シュールレアリスム芸術運動との論争 

 

ここでは デ・キリコの新しい作品を称賛せず 他の新しいテーマを発展させていました 

マックス・エルンスト(M.Ernst)などがそうで デ・キリコとは相いれないのですね

  

1930年に ライッサ・カルツァと結婚しますが すぐに離婚 その後 イザベラ・ファーとフィレンツェで暮らします

『神秘的な浴槽』という作品では ワックスで光っていた床に着想を得て 寄木細工の床を描きました

浴槽に沈む人々は ファシズムに適した人々を指すそうです

1973年のミラノ・トリエンナーレにも この浴槽の作品が出品されていますね 

 

 

第3部

1940~68年 ネオバロック(il neobarocco)

 

1939年イタリアへ帰国し  1944年 ローマを終の棲家とします  スペイン広場トレヴィの泉の近くに住んでいました😲 

テラコッタの作品を作り 1946年 イザベラとようやく結婚💒 

  

静物画(natura morta)」は 1800年に登場しますが デ・キリコによるとむしろ近代の絵画を表現しています

ドイツ語での「Stilleben」英語での「still life」の方が 物体の穏やかで静的な状態を指すというデ・キリコの表現と合っているのですね (死mortaではなく生Leben!)

 

1800年代中頃から絵画の衰退がはじまります

 

衣装を着た肖像画が描かれますが その衣装のディテールは非常に細かいですね😲

彼はインタビューにも劇場の衣装を着て現れたとのこと

 

 

ネオバロック時代のメタフィジカ

 

「現実は地球上に存在しないので 絵画の中にも存在しない」「人間は真実でないことが好き」とのこと😲

「ミューズ」の作品も上野で展示されています

 

 

‘68~’78年 ネオメタフィジカ 形而上絵画

 

ここで彼は 今までのメタフィジカ作品を手直ししてゆきます

色と静寂さ 「イタリア広場」でも 1924年と1974年では 孤立感から解放感へと変わっていますね

 

燃え尽きた太陽のあるイタリア広場(Piazza d’Italia con sole spento)」(1971)など 2つのテーマをまとめています 太陽と月がひもでつながっています

 

最後に 上野のデ・キリコ展に展示されているメタフィジカの作品についてみてゆきました:

 

瞑想者(il meditatore)』 『オィディプスとスフィンクス』の謎解き等😊

 

オデュッセウスの帰還(il ritorno di Ulisse)』は 室内のメタフィジカを描いた80才の作品ですが 過去の記憶から離れて新しい探求を始めるのですね

 

1978年11月20日 ローマにて90才で死去 遺骨はローマのトラステヴェレの サン・フランチェスコ・ア・リパ教会にあるそうです⛪ 

 

デ・キリコ展は こちら 

 

LCIのセミナーのお知らせは こちら

 

 

追記:

 

日伊協会の終了証授与式(3/30)で聞いた特別セミナー『20世紀初頭から今日までのイタリアの芸術        ― イタリア人アーティストの世界観の推移』(通訳付)

こちらでは 未来派(futurismo)    シュールレアリスム gruppo 1900という運動 

アルテ・ポヴェラ(Alte povera)という運動 高価な素材を使わずごみや日用品も排泄物すらも使ったそうです😲

   
 現代美術 (arte contemporaneo)のざっとした流れについてお話いただきました 

 

自分の視点から自由な解釈にまかせること またイタリアの美術館ではよく話すそうです  イタリアでの開かれた美術教育についてもご紹介いただきました 

 

 

イタリアン・デザイン・デー講演会「東洋的発想 イタリアン・デザインと日本の関係史」に参加しました

イタリアン・デザイン・デー講演会「東洋的発想 イタリアン・デザインと日本の関係史」に参加しました(2024.3.14)@イタリア文化会館 

 

 

久しぶりにイタリア文化会館に行ってきました この時はまだ千鳥ヶ淵の桜🌸は咲いていませんでした

 

講演会要旨: 

この講演会のテーマは、長きにわたり、数々の実りをもたらしたイタリアン・デザインと日本との関係です。この講演会の会場であり、ガエ・アウレンティによって生み出された建築物であるイタリア文化会館を出発点に、マルコ・サンミケーリミラノ・トリエンナーレ国際展示会での日本パビリオンの展示を紹介します。そのなかには、蓮池槇郎や細江勲夫のように、イタリアで高い評価を受けたプロフェッショナルもいます。

 

20世紀後半には、日本に足を運ぶことで想像力と感性を育んだイタリア人デザイナーたちが現れました。たとえば、マックス・フーバーや葵・フーバー・河野、河野鷹思と交流のあったブルーノ・ムナーリ、あるいは倉俣史郎や梅田正徳、高濱和秀と友情をはぐくんだカルロ・スカルパやエットレ・ソットサスなどです。また、現在活躍するデザイナーとして、武内経至や後藤司、菰田和世、デザインユニットMist-Oも挙げなければならないでしょう。

 

この講演会は、イタリアン・デザインの巨匠のなかでも、最も日本的であったアンジェロ・マンジャロッティへのオマージュで締められます。

 

     *    *    *

  

会場には  2023年10月に参加した『アルファベット・マンジャロッティ』の映画上映会でお見かけした マンジャロッティのお弟子さん方も見えていらして懐かしかったです😊

 

そう この日の会場であるイタリア文化会館こそ ガエ・アウレンティが設計した建物でありイタリアデザインのシンボルなのですよね💕

 

 イタリア文化会館にあったポスター

 

2025年第24回のミラノ・トリエンナーレのテーマは「不平等(Inequalities as unbalance)」とのこと

 

Museo del Design Italianoには 300を超えるセレクションが展示されています 

ここのGiancario De Carlo gardenという庭園では 今春 上野で展覧会が開催されるデ・キリコ作の「奇妙な浴槽 (The Mysterious Baths)」という即品が展示されています 

 

また ミラノのリナーテ空港でも トリエンナーレの作品が見られるそうです🛫 

 

2025年の大阪万博でもイタリアのパビリオンが予定されています

 

引き続き 日本人デザイナー達の作品もご紹介いただきました 

 

1960年の第12回ミラノ・トリエンナーレでは 日本パビリオンに竹と家電を融合した工業デザインが現れました

 

1988年の第17回では 未来都市がテーマとなり(The Cities of the World and the Future of the Metropolis) 当時あまり受けなかった「情報化社会」が今は注目されています

 

1996年の第19回には阪神淡路大震災が起き クライシス 大都市の匿名性の危機 公共空間の回復等がテーマとなりました(Identities and differences. Integration and plurality in today forms. Cultures between ephemeral and durable)

 

Carlo Scarpaは日本愛好家でもあり 永遠を日本文化から学んだそうです 背もたれで体を受け入れるカーブの椅子など

 

1947年のマックス・フーバーの作ったポスター等もご紹介いただきました

 

そしていよいよ アンジェロ・マンジャロッティの登場です 彼はもっとも日本的なイタリア人デザイナーであり お弟子さんや協力者には日本人が多く この会場にもいらしていました 

重力のみではめ込むテーブルや ひじ掛け椅子 時計等 興味深かったです 

 

最後に質疑応答に移りましたが この日は同時通訳で(私の尊敬する先生の!)  講演は原稿があるものの質疑応答はフリーハンドで 話者の難解で早口の解答を聞きながら訳すという 人間業とは思えない同時通訳を聴いてドキドキしながら終了時間を迎えました😲

 

素晴らしいイベントを開催してくださいましたイタリア文化会館様に 心よりお礼申し上げます

 

開催のお知らせは こちら