浦和、蕨で絵を楽しんだ後、六本木でロココな世界に浸り、この日の〆
は「秋田蘭画」…“秋田蘭画”とは、ウィキペディアに拠りますと
や藩士を担い手とした、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な
画材を使用した和洋折衷絵画である。秋田派ともいう。安永年間
浮世絵にも大きな影響を与えたとされる。代表的な画家に、藩士
となるのですが、今回サントリー美術館で開催された企画展も小田野
直武の名を冠する…「小田野直武と秋田蘭画」。(こちらのページも
学び、『解体新書』の挿絵を描いた…〝火打石〟の母方の祖父は
秋田の出で、母の言うところに拠ると、家の蔵には源内の書いたもの
があったのだが、母の祖父の道楽でそれも散逸してしまったと。この母
の言葉だけでは雲を掴むような話で、どこまでが事実か今となっては
確かめようもないのですが、そんな話を聞いていたりしたせいで、
〝火打石〟は平賀源内という人に惹かれるものを感じているんですね
よしながふみさんの『大奥』でも源内は重要な人物として描かれて
いますが、もともと“源内贔屓”っだった〝火打石〟はこの作品を
読んでますます源内に惹かれ、そして蘭学という学問にも興味を持つ
ようになりました。それで昨年は蘭学に関係する企画展をできるだけ
観に行こうとして…夏には世田谷の静嘉堂文庫美術館に「江戸の博物
学」を観に行き、秋には東京でで“二つのシーボルト展”を観ようとする
も両国へは行けず
(両国の江戸東京博物館の「よみがえれ!

シーボルトの日本博物館」と上野の国立科学博物館の「シーボルト」…
「シーボルトの日本博物館」は4/22~6/11、名古屋市博物館で開催
されますのでそれを観に行く予定
) 先日は愛知県の田原市の

こちらもは時間の都合で詣でなかった
。夫は参詣したのですが…)

そんな〝火打石〟にとって、サントリー美術館の「秋田蘭画」展は見逃
すことのできない企画展
。本当は昨秋のうちに観に行きたかった

のですが(《不忍池図》が観たかった
)、結局閉幕ギリギリの鑑賞

となってしまいました
。まぁ行けたのだから良かったということで…

☝☟1/4午後、お正月気分あふれる東京ミッドタウン
。

美術館はガレリア3階
こう言ってはなんですが、「秋田蘭画」、やはりまだあまり一般的では
ないのか
…閉幕まで1週間足らずだったこの日、会場入口に混雑

は無し
。昨年6月の「広重ビビッド」の時は行列で入場に40分くらい

待ったのに
。たしかに地味よね秋田蘭画
。とっつきにくいのも


わかる…正直〝火打石〟だって“絵を楽しんで観ている”とは言い
難い
。でもそれでも観るんだ…国が閉ざされた状態の中で、“世界

に挑んだ”人達の努力の跡を。彼らの学びの結晶を。秋田蘭画は
に、直武は突然謹慎を申し渡され、翌年5月には死去してしまった。
源内の刃傷事件との関係を指摘する説もあるが、詳細は不明である。
それから5年後に曙山も亡くなると、秋田蘭画は下火となり、しだいに
廃れたが、同画の系統・画流は司馬江漢に受けつがれ、さらに洋風化
ますが、〝火打石〟、司馬江漢も亜欧堂田善も観たいのよね
。

☝「亜欧堂田善-江戸時代の銅版画と油彩画-」…昨秋福島県の
須賀川市立博物館で開催されていて、観たかったんだけど
…

2008年には府中市美術館でも「亜欧堂田善の時代」展が開催されて
いるけど、この頃はまだ〝火打石〟もおとなしくて、絵を観るために
駿州から武州に出るということをあまりしていなかった
。その頃に

比べて今は、少々(?)弾け過ぎですかね
。

それにしても秋田蘭画が描かれた安永‐天明年間=18世紀後半(1770
頃~1790頃)は、師走に観まくった(?)伊藤若冲の活動期間とほぼ
重なります。京で若冲が活躍していた頃、江戸では直武が蘭画の制作
に励んでいた…更に言うなら王妃マリー・アントワネットが処刑された
フランス革命もほぼ同時代
。直武-若冲-マリー・アントワネット。

『ベルサイユのばら』と「秋田蘭画」が同時代
。そう意識して観ると、

また違った感慨が湧いてきます。
展覧会を観終えて夫との合流を待つ…東京ミッドタウンの夜景
。

さすがに華やか…これから駿州に帰る身、この華やぎを目に刻んで
おこう
。

☟これは走るクルマの中から撮影した写真
慌ただしくも夢のようだった年末年始の楽しい日々
。睦月ももう

晦日ですが、今年もすでにあちこちの美術展に足を延ばしており
ます
。楽しみにしている企画展も次々開幕して、こりゃモタモタして

はいられない
…気持ちばかりは若い〝火打石〟なのでした(;^_^A。

(実際はカラダが追いつかず、少し鑑賞のペースを落とそうか、などと
若干弱気にもなっているのですが…)