1月14日に書いたこの記事。

「掬い投げ」?「逆投げ」?
http://ameblo.jp/feijoahills/entry-10768175174.html

そこでこんな事を書きました。
…………………………………………………

「新編相撲大全(明治42年)」の「掬ひなげ」
退息所
「敵が左右のいづれより、一本差しに来る出バナを
受けながら、前へ曳く気味にて掬ふやうに投げる事を云ふ。
残れば巻き落し、腰捻り等に変化をきたすものにして。
総て寄投げに同じ手なる由」

もう…凄まじいでしょ?

まず、ご覧頂いて分かりますように
図解で示されているその技は、
現在で言う所の「小手投げ」な訳です。

そして文を読むと「一本差しに来る出バナを
受けながら、前へ曳く気味にて掬ふやうに投げる」
と書いてます。掬うように投げる、とは書いていますが、
差して投げる現在の「掬い投げ」ではなく
「差しに来る出鼻を受けながら」ですから
抱えて投げる訳です。つまり図が間違っている訳では
ない事が分かります。
…………………………………………………

まあ…古書初心者の当時の私と
今の私とでは、
昔の表現方法、ややこしい言い回しに対する免疫が違います。

「敵が左右のいづれより、一本差しに来る出バナを
受けながら、前へ曳く気味にて掬ふやうに投げる」

時は平成の世で、それでこんな書かれ方をしていれば、
相手が差して来る事がこの技にとって重要であり、
そこから「投げる」のですから、
これはもう「小手投げ」としか解釈しようがありません。

しかし当時の日本人の、読み手に誤解を与える事を
全くおそれていないかの様な文章に慣れて来た
今の私から見ると、
必ずしも「差された方で投げる」という事を言っている訳では
ないかも、と、今なら思えます。

絵はどう見ても「小手投げ」ですけどね。

これ↓を見ると、謎が少し解けます。
絵が全く同じ体勢を示しています。

「古今相撲大要(明治18年)」の「寄投」
退息所
「相手の脇の下へ手を差込み寄ると見せて投るをいふ。
残れバ巻落シ腰ヒネリ等の手になるなり」

解説を読む限り、この「寄投」の方が
先程の「掬ひなげ」よりも
明確に「掬い投げ」ですね。

絵が小手投げになってしまっている点は一緒ですけどね。

「古今相撲大要(明治18年)」で「寄投」と
されていた技が
「新編相撲大全(明治42年)」では「掬い投げ」の名前に
変わっていた。

「新編相撲大全」の「掬いなげ」の解説にも
「総て寄投げに同じ手なる由」
と書いてますね。

更に「相撲鑑」の「掬投」を見ますと…
これが「古今相撲大要」の「寄投」と全く同じ解説なんです。

明治44年「相撲鑑」 杉浦善三編 昇進堂

写真真ん中あたりに「掬投」が…
退息所
「相手の脇の下へ手を差し込み寄ると見せて投げる。
残れば巻落し、腰ひねり等」

「寄投」が「掬投」という名称に変わった、
そう考えていいのでしょうかね。

「角力百手(明治44年)」の「寄投」
退息所
「古今相撲大要」や「新編相撲大全」の絵の“影響”を
受けながらも技の掛け手と受け手とが逆転しています。
それにより辛うじて「掬い投げ」の絵となりました。

「角力百手」の“投げ十二手”
には「掬投」の名称は入っていないのです。
かわりに「寄投」がその役目を担っています。

上手投
下手投
引投
上矢倉
下矢倉
首投
搦投 俗稱(ぞくしょう)内がけ又握りなげ
摑(つかみ)投
寄投
出投
襷腹投(たすきのはらなげ) 俗稱(ぞくしょう)吊出し
矢柄投 又「八柄(やつか)投」

「相撲四十八手 附・裏四十八手(明治44年)」の投げ十二手
も同じです。

上手投
下手投
引投
上矢倉
下矢倉
首投
搦(から)み投 俗に内掛 河津掛の一種
搦(つか)み投 俗に網打
寄投
出し投
襷の腹投 俗に吊出
矢柄投

この↓記述は珍しいですよ。なんと「寄投」と「掬投」を
区別して解説しています。

「相撲四十八手 附・裏四十八手」の「寄投」
退息所
「四手(よつ)に組んで挑み合ふ内、力の足らざる方
浮足となり土俵際に押詰められ土俵に片足を踏み堪へて
押返さんと出て来る途端、我が差手に力を罩(こ)め素早く
體を寄せて投げ倒すのが寄投げで、押返さんと出て来る鼻を
我が差手に力を入れて掬つて投げれば“掬ひ投げ”でありますが
此手は西ノ海関の十八番でござります」

著者の木村庄之助が
「寄投」と「掬投」を共存共栄させるという、
まことに困難な事業を
敢えておのれに課している感じです。

しかし「寄投」と「掬投」の違い…

要するに「掬い投げ」の中でも
相手を土俵際まで追い詰めての「掬い投げ」に限り
「寄り投げ」という名称になるという事でしょうか(笑)。

「昭和相撲便覧(昭和10年)」は
敢えて「相撲隠雲解(寛政5年)」の四十八手をいじり、
投げ十二手の内訳を3箇所だけ変えております。

上手投
下手投
負(をひ)投げ
上矢倉
下矢倉
首投げ
搦み投げ
摑み投げ
掬い投
出し投
傳へ投
矢柄投

「角力百手」や「相撲四十八手 附・裏四十八手」
の“投げ十二手”と比較してみて下さい。
引投が負投げになり、寄投が掬い投になり、
襷の腹投が傳へ投へと変化しているのが分かります。

「昭和相撲便覧」の「掬い投」
退息所
「四つに組んで、相手が押し進む出鼻を、
下手から掬ふやうに投げ倒すのをいふ」

「寄り投げ」の解説文をそのまま引き継いだ
文章になっていますね。

「古今相撲大要」や「新編相撲大全」の絵が
解説文とは裏腹に「小手投げ」になってしまっているのは…

すぐ上にあります「昭和相撲便覧」の「掬い投」の文章を
使って私の考えを説明しますと、

「四つに組んで、相手が押し進む出鼻を、
下手から掬ふやうに投げ倒すのをいふ」

昔の「寄り投げ」の定義は
一行目にアクセントが置かれていたのでは
ないでしょうか。「相手が押し進む出鼻を」の方に。

つまり「寄り投げ」の解説文に必ず見られる、
相手が前に出ようとする力を利用する旨の記述。
「寄ると見せて投る」とか
「相手を土俵際まで押し込み、相手が残そうと踏ん張るところを投げる」
といった、その点こそが「寄り投げ」の定義として重要で、
別に「掬い投げ」か「小手投げ」かは重要ではなかった。

しかし明治時代になり
いつしか「差し手で投げる」事が「寄り投げ」にとって
重要な要素になって来た。
つまり名称は「投げ十二手のひとつ、寄り投げ」
であっても、その中身は現在の「掬い投げ」に
なっていた。

「古今相撲大要(明治18年)」や「新編相撲大全(明治42年)」
の頃にはとっくに「寄り投げ」=「掬い投げ」になっていたのだが、
図解に使った絵が、江戸期に書かれた旧い相撲書の使いまわし
というか丸写しだった。

江戸期の「寄り投げ」の定義は
「四つに組んで、相手が押し進む出鼻を」
の方が重要であって、
別に差し手で投げる必要はなかったので
絵が「小手投げ」でも別に構わなかった。

「古今相撲大要」や「新編相撲大全」は
解説文においては明治版「寄り投げ」を用意したが、
絵は江戸版「寄り投げ」をそのまま採用したので
解説が「掬い投げ」なのに絵は「小手投げ」という
おかしなことになった。