5年前の今日、東日本大震災があった。
そういう日は、何かそれについて文章を書かなくてはならないような強迫観念に駆られる人が多いのかも知れない。
「震災(原発事故)を忘れない」
「被災地に寄り添う」
等々の言葉が、マスコミに、個人のブログに、SNSに溢れている。



しかし、そんな言葉に回収されてしまうような出来事であったろうか。
5年経っても、僕はあの時にこの国で起きたこと、今も起き続けていることの全てを受け止めきれないでいる。
震災や原発事故、その後の被災地の人々のことを描いたドラマや舞台、小説、詩等もこれまでに結構作られている。しかし、僕自身は、自分が軽々しく書くべきテーマではないと思っているので、いまだ手を着けられずにいる。被災した人達に寄り添うというのは、言うほど簡単なことではない。僕の想像力ではとても捉えきれないような大きな何かが起きていたし、起き続けている。
「震災の悲しみを抱えながら、前向きに生きようとしている人達もいる」
というようなことを、マスコミは伝えたがり、被災地以外の人達もそういうニュースを見たがる。しかし、本当にそんなことがあるのだろうか。被災した人達に、5年前の3月11日14時46分17秒までの日常は二度と戻らない。故郷に二度と帰れなくなった人達もいる。「前向きに生きようとしている」そんな薄っぺらな言葉で、一体何を伝えられるというのか。



高い防波堤が築かれ、漁港が復興し、校舎が建て直され、高台に新しい家が建っても、決して戻らないものがある。
それを思い知ることが、3.11から僕達が学ぶことの本質なのではないかと僕には思われる。



もし僕に、野田秀樹氏くらいの才能と筆力が備わったら、この震災で亡くなった人達と、震災を「生きた」人達を「記録」する作品を書きたいと思う。



震災で亡くなった全ての人達の御霊に、哀悼の意を表する。