先日、つかこうへいの「熱海殺人事件 NEW GENERATION」を紀伊國屋ホールで見た。「熱海」といえば、つかさんの代表作で、これまでもいろいろな演出・俳優によって数え切れない位演じられてきた。昨年は、往年のつか作品の代表的俳優である風間杜夫さんと平田満さんが出演した舞台を見た。やはり紀伊國屋ホールである。つか作品にずっと携わってきた俳優さんは、さすがに作品の世界観がしっかりと身体に刻まれていて、細かいニュアンスも表現できるのだなとあらためて思ったものである。(平田さんは年齢設定的にやや苦しかったが。)
そして、今回の舞台である。俳優陣は好演だったし、つか作品の空気感をよく出していた。今旬のネタも織り込んで、ちゃんと「熱海」の精神も踏襲していた。



ただ、僕には気になったことがあった。つかさんの作品は、「タブー」を破る台詞が多数ある。一般には差別用語と思われるような言葉や、不謹慎と思われるような台詞が多数出てくる。「熱海」で言うと、「貧乏人」の話や「ブスに権利はない」、また今回は長崎の被爆者に対しての侮蔑とも思える台詞など、枚挙に暇がない。今回の舞台の前説(?)で、出演者がつかさんへの手紙という形でつかさんのエピソードを紹介するコーナーがある。僕が見に行った回では、皇室ネタで紀伊國屋ホールに右翼が押しかけた話や、最近では、新橋演舞場での公演で「そんなに原発が安全なら、皇居に作れ」という台詞を入れて、東電から電気を止められそうになったという話が披瀝された。
これは、「良識」が当たり前に信じられていた時代に、敢えてそれを破り、本音を投げつけることによって、普段は隠蔽されていることの本質をえぐり出すつかさんの力業だった。その破壊力こそがつか作品の魅力だったのである。
しかし、昨今はネットの普及により、誰もが本音を(匿名性に隠れて)不特定多数に向けてぶちまけられるようになった。そこには、つかさんの台詞の背後にあるような、人間に対する愛憎入り交じった思いや、深い洞察は微塵もない。だから、本当の意味での破壊力はない。けれど、薄っぺらいものではあっても、タブーを破るような言説、弱い者を徹底的に貶める言葉は世の中に溢れてしまった。そんな状況の中では、つか作品の台詞ですら、普通に聞こえてしまうのである。



つかさんは、貧乏人や低学歴、田舎者、百姓といった「弱者」に敢えてむち打つような台詞をたくさん作った。しかし、同時に、そう言われてしまう人達の辛さや世間への怨嗟の声、自分よりも恵まれた人達への憧れと嫉妬といった、屈折した強烈な思いも表現してきた。それが人間社会というものであり、人間が生きていくということであり、それをつかさんはありのまま、でも激しく描いていたのである。そこには、弱者を突き放しつつ寄り添う、つかさんの「愛情」があった。
先日の舞台の俳優は、勿論必死にそれを体現しようとしていた。そこに嘘はない。だが、それすら陳腐に見えてしまう現実がある。もっと酷い、愛情のかけらもない言葉は日々拡散されている。踏みつけられる者達の思いに寄り添い、彼等に手をさしのべる余裕が今の社会にはない。弱者を踏みつけ、完膚なきまでに叩きのめし、蹴落とす快感の方が支配的になっている。下手をすると、つかさんの台詞がそれと同列に扱われかねない。勿論、つかさんの芝居の観客は、そんな単純な思考に陥る人達ではないだろうけれど、社会の空気の変化に、つか作品はもはやついて来られていない状況になってしまっている。そう考えるのは僕だけなのだろうか。



そして、つか作品の演出や俳優の台詞回し、見得の切り方などが、どうも定型にはまってきている印象がある。歌舞伎のような「様式美」になっている感じだ。確かに、つか作品は独特であり、それに最適な演出や俳優の演じ方がある。だが、先に書いたこととも絡んでくるかも知れないが、どうも大時代的に見えてくるのだ。本来は、タブーを破りながら、それまでにはないスタイルを追求してきたのがつかさんだと思うので、もう少し新しい風を入れてもいいように思う。俳優を若手にしたり、今旬のアニメネタを仕込んだりするということではない。もっと本質的な話だ。
現代につかさんの表現を生かすにはどうすればよいのか。どうやったら今の時代と、今を生きる人間に切り込んでいけるのか。その新しい方法論が求められているように思う。つか作品の衝撃力・破壊力は、そこでこそ再生されるだろう



新感線の古田新太さんの言葉を借りれば、「ちまちました芝居が多い」昨今の(特に若手の)演劇状況の中で、つか作品は今でも異彩を放っている。その精神を継承しつつ、さらに新たな形に発展させていけると、きっとつかさんも喜ぶのではないかと思う。
本当は、つかさんの新作がみ見たいものだが、もうそれは叶わないのだから。



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昨日は、Facebookで繋がっている方が出展している展覧会に行ってきた。「日本の美術」という展覧会で、これは日本人の様々なアーティストの絵画(洋画・日本画・彫刻等)を展示するもので、審査員と来館者による投票?により、アワードが決定されるという。1995年から続いていて、今回が22回目だ。展示されるためには審査があるのだと思う。
美術館に行ってみると、本当にたくさんの作品が展示されていた。お題があるわけではないので、それぞれが自分の思いのままに表現したという感じである。絵画だけをとってみても、日本画と洋画の違いは勿論、同じ日本画の中にも様々なタッチがあり、抽象的なものから写実的なものまで幅広かった。洋画も然りである。所謂抽象画というのも結構あった。僕の知り合いの方も抽象画を出展していた。



僕は美術館にはあまり行かない。理由の一つは、あの人の多さだ。じっくり鑑賞しようとしても、後ろからどんどん人が来るので、立ち止まるわけにもいかない。人混みなので、離れて鑑賞することもできない。解説文もろくに読めない。結果、作品を鑑賞したという実感に乏しいまま、美術館を出る羽目になる。僕が行こうとするのが、話題になっている大きな展覧会ばかりだから悪いのかも知れないが、昨年の伊藤若冲展などは最悪だった(僕は行っていないが)。入場に3時間待ちということもあったそうである、常軌を逸しているとしか思えない。また、僕は演劇や映画等の「動く芸術」の方が好きなので、基本動かない絵や彫刻・オブジェにあまり食指が動かないのである。
加えて、僕にはそもそも絵心がない。だから、絵のどの辺に焦点を当てて見ればいいのかが分からない。そんなことは考えず、むしろ感じるだけでいいと分かってはいるのだが、ついつい「解読」しようとしてしまうので、余計に面白味が分からなくなる。



しかし、昨日の展覧会を見て、どうやらそれは、自分の感性が何を求めているのか、何に反応するのかよく分かっていなかったからだということが分かった。何故なら、昨日見た展示は、まさにノン・ジャンルだったからである。普通、展覧会は1人の画家(芸術家)、または同じ方法論の画家を集めたもの(印象派の展覧会とか)、同時代の何人かの芸術家で構成するもの等、大概テーマが決まっている。だから、方法論が似ている人達の絵が並ぶことになる。しかし、昨日の展覧会は、平たくいえば「てんでんばらばら」。何の縛りもないので、それぞれの個性の違いが際立つのである。上手い下手の話ではなく、よくもまあここまで違うものだと思わせるようなバラエティに富んだものだった。絵本のイラストのような絵の隣に、いきなり何の形か分からないような、抽象的なタイトルが付いたものが並んでいた。
しかし、考えてみれば当たり前のことだ。絵や彫刻やオブジェといったものには、表現方法がたくさんあり、それをどう取り入れるか、どう組み合わせるか、どうアレンジするかは、アーティストごとに違う。有名な画家になると、大抵単独の展覧会になるから分かり難くなるが、ゴーギャンの隣にケランジェロとか、ピカソの隣にボッティチェリとかが並んでいたら、その違いは明瞭である。それと同じことなのだ。(1人の画家が、生涯のうちに画風を変えていく場合も多く、そういう人の展覧会だと、同じ画家が描いたとは思えないような、全く違ったタッチの絵が並ぶことになる。)
全く違うものが並んでいるのを見ることで、自分がどんな表現により強く惹き付けられるかが分かる。それでいくと、どうやら僕は抽象画が好きらしい。何処かの風景や人物画、ファンタジー的な世界を含めて、何か具体的なものが描かれているよりも、一見すると何だか分からず、タイトルを見るとさらに分からなくなる、そんな絵が魅力的に見えるようだ。これは発見だった。



僕は、小説でも芝居でも映画でも音楽でも、比較的分かりやすいものを求める傾向にある。だから、芝居でいうと寺山修司、暗黒舞踏系、音楽でいうと武満徹などは、あまり魅力を感じない。といいつつ、かつて、夢の遊民社の野田秀樹さんの芝居が分からないという人に、僕は「全てを理解しようと思わず、絵を鑑賞するのと同じように見ればいい」とアドバイスしていた。しかし、それは遊民社の舞台には、割と入りやすい部分が用意されていたからこそ成り立った。別の言葉で言うと、絵解きができる絵だったのである。判じ物のようなものだ。
要するに、僕はどこまでも「意味」に支配されている「ロゴス」の人なのである。
それなのに、こと絵については、全く逆のものを求めていた。何故なのか不明だ。それこそ、説明がつかない。ただ、好きだとしか言いようがない。しかし、もし僕が絵を描くとしたら、抽象画は描けないだろうなとも思う。
何にせよ、芸術は奥が深い。これだけ表現したい人達がいて、表現形態のバリエーションがある。当然、ここに出展されていない作品もたくさんある。他の美術館に行けば、また違った作品がたくさん展示されている。あらためて、そのことに驚いてしまう。



自分がどんなものを心地よいと思い、どんなものに接すれば自分の中にエネルギーが湧いてくるのか、何に魅力を感じるのか、それを知るためには、広く浅くでもいいので、多くの芸術作品を知り、触れてみることが大切だと思う。これは全てに通じる話だ。今まで知らなかった感動に出会えれば、それは今まで知らなかった自分と出会ったことにもなるだろう。
もっと美術館に出かけ、映画館や劇場に足を運び、書店や図書館で本に親しみ、コンサートホールやライブハウスに通いたい。勿論、日本だけではなく、異国の地でも。そんな生活ができれば、人生豊かになるし、もっと奥行きのある作品が生み出せるだろう。
お金や時間がいくらあっても足りない。



日本の美術展は、今日の12時で終了してしまった。次はどんな人達の、どんな絵画やアート作品が展示されるのだろうか。



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昨日は、中島みゆきリスペクトライブ「歌縁」に行ってきた。オーチャードホールはもしかしたら初めて入ったかも知れない。(その下のシアターコクーンは数え切れないくらいの回数行った。)これは、中島みゆきさんを文字通りリスペクトする歌手が、みゆきさんの歌を歌うというライブで、ご本人は全く登場しない。以前にも行われていて、この時はチケットが取れずに行かれなかった。今回はリベンジということで行ったのである。
どんなものかと思っていたが、予想以上に楽しめた。出演した歌手(大竹しのぶさんを歌手と呼ぶべきかどうかは置いておいて)の方も実力派揃いで、聴き応えのあるステージだった。こういうコンサートでない限り、生では聞かない歌手の人が殆どだったので、トークも含めて新鮮だった。



みゆきさんの曲は、他の人が歌ってもやはり力がある。ご本人とは違う歌声、歌い方で聞くと、また違った感じに聞こえる。それでいて、原曲の持っている魅力は失われない。今回歌われた歌は、提供曲も含めて全て、ご本人の音源がある。それとの比較を意識して聞くのもなかなか面白かった。
興味深いのは、一部を原曲とは違った音程(キーではない)で歌っていた人が複数いたということである。こういうことは、ご本人の許諾は得なくていいのだろうか。芝居で考えても、誰かの脚本を上演するときに、稽古場で台詞が変わったりすることはある。それが語尾などであれば許容範囲だが、ワード自体を変えてしまったら、そのことで作品のニュアンスが大きく変わることもある。音楽でも同じことが言える。歌の場合、歌詞を変えなくても、音程をちょっと変えるだけで印象がだいぶ違ってくる。みゆきさんご本人はそこまでは干渉しないということなのだろう。



自分の歌が他人によって歌われ、愛されるというのは、どんな気持ちがするのだろうか。「中島みゆき」というアーティスト自身の魅力とは別に、「中島みゆきの曲」自体の魅力というものがある。それが多くの人を惹き付けるし、実力派の歌手にもリスペクトされ、歌われる。それがどんなに凄いことなのかは、創作者の端くれとしてはよく分かる。
このブログでも書いたことがあるが、3年前に、僕の脚本が演劇ユニットmilkyさんで上演された。この時、僕は脚本の提供のみで、演出も何も全てお任せにしていた。僕が全く関わらず、僕以外の人の演出で、僕が選んだのではない役者さんが演じる舞台は、非常に新鮮で、興味深いものであった。舞台の評判が良かったと聞いたとき、僕は心底ホッとしたものだが、考えてみれば、それは僕自身の脚本にある程度力があったということにもなるだろう。(それを引き出してくれたのは、milkyさんの公演に関わった全ての役者さん、スタッフさんである。)milkyさんの他にも、僕の脚本は色々な学校の演劇部が上演している。そこでも僕の脚本の力が発揮されてのかどうか、是非とも知りたいところだ。



milkyさんで上演した「True Love〜愛玩人形のうた〜」を、Favorite Banana Indiansでは2回上演している。(そのうち、直近の1回は僕自身の演出である。)しかし、それが「正解」ではない。どんな戯曲でも、演出や出演者によって様々な形に変化するのだが(一番分かりやすいのはシェイクスピアであろう)、どの形が正しくて、どの形が間違いということは本来はないと思う。勿論、戯曲の持つ力をよりよく引き出しているものと、逆によさを殺してしまっているものがあるのは事実だ。しかし、それはそれとして、様々な形、表現を可能にするものが、ある意味で優れた戯曲とも言えよう。それだけの可能性を秘めているということだからだ。
中島みゆきさんの曲も同じである。みゆきさんはかつて「おかえりなさい」というアルバムを作った。それは、他の歌手に提供した曲を、ご自分で歌った曲を集めたものだ。これについてみゆきさんは、「おかえりなさい」は、自分はこういうつもりで作ったというのを入れたという趣旨のことを話していた。しかし、例えば研ナオコさんの歌う「あばよ」ではなく、ご本人が歌う「あばよ」が本来の形だということもできないだろう。どちらが聞き手の好みかという問題はあるが、それとこれとは別問題だ。どちらの「あばよ」も、聞き手の心にちゃんと届く。それこそが重要なのである。



僕の脚本はちょっと特殊な部分が結構あり、他の人が上演するのは難しいものが多いと自分では思う。しかしそれは、言い換えると「汎用性」「普遍性」が少ないということであるように、僕には思われる。汎用性があるというのは、独自性が弱いという否定的なニュアンスがあるが、では中島みゆきさんの曲やシェイクスピアの戯曲は、何の変哲もないありふれたものだろうか。そうではない。そこには時代や国を超えて伝わる普遍性がある。だから、多くの人を惹き付け、色々な人によって演じられ、歌われる。別の言葉で言うと、「愛されている」ということだ。
僕もできればそういう作品を書きたい。Favorite Banana Indiansでしか見られない世界というのも勿論いいのだが、同時に、他の人の手によって上演されても魅力的だと思われるものを生み出すのも、やり甲斐のあることである。シェイクスピアも中島みゆきさんも、独自の世界観を強く持っていながら、多くの人を惹き付ける。ありふれていないのに、分かりやすく、かつ深い。僕が目指すのはそこだ。万人が取つきやすいエンターテインメントでありながら、普遍的で奥深いものを描く。それができたら最高だと思ってやっているのである。
芸術ではなく、芸能。前衛ではなく、娯楽。でも文学。しかし戯作。表層的で、かつ深淵。芥川賞よりも直木賞。そんなところに辿り着ければと思っている。



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