「チェ 28歳の革命」について書く前に、もう一つだけ書いておきたいことがある。



 昨日(18日)に判決が言い渡された「江東バラバラ殺人事件」についてである。
 この事件に関しては、二つのことを論じたいと思う。
 一つは量刑に関して、もう一つは「裁判員制度」に絡んでのことである。



 この事件は、被告である星島貴徳という男が、一つ置いて隣に住んでいた東城瑠理香さんという女性を拉致・監禁した上に、警察の捜査が及ぶと見るや、東城さんを殺してその死体をバラバラにし、一部はトイレに流すなどして遺棄したというものであった。
 検察は、その事件の残忍性から死刑を求刑した。
 この裁判の争点は、「被害者が一人の場合でも、被告に死刑を適用できるか」だった。
 世間の関心もそこに集まっていたし、被害者の遺族も出廷して、死刑を望む旨の証言をした。
 その上、星島被告自身、死刑を望む旨証言していた。
 しかし、言い渡された判決は「無期懲役」だった。
 その理由は、報道されているように、裁判所は「殺害された被害者が1人の場合、死刑を選択するには他の量刑要素に相当強度の悪質性が必要」と指摘した。そのうえで(1)殺害方法は執ようと言えない(2)実際にわいせつ行為はしていない(3)殺人や死体損壊・遺棄に計画性がない、等を理由に「死刑は重過ぎる」と判断したのであった。



 遺族の悲しみや怒りはよく分かる。
 被害者がどんなに恐ろしい思いと絶望感に打ちひしがれ、最後のときを迎えたか。
 そして、死体を損壊し、トイレに流したりゴミ捨て場に捨てたりしたのは、被害者の人間としての尊厳を踏みにじるものだ。
 当然、許されるべきことではないし、重い刑を科せられるべきである。
 がしかし、僕は今回の裁判所の判断は妥当だと思っている。
 裁判は本来、「罪刑法定主義」といって、法が定めた量刑を科するのが原則だ。勿論、法の解釈や実際の計の重さは、過去の判例を基にして判断される。
「自分の娘が殺されたんだから、加害者が生きているのは許せない」というのは感情論としてはよく理解・共感できるが、裁判(判決)に感情をさしはさむのは間違っていると僕は思う。
 今回、被害者の悲痛な告白を聞いたにもかかわらず、裁判所がこの方針を貫いたことは、いろいろな意見はあろうが、正しい判断だったと思う。
 実際、今回の裁判の判決は、1週間ほど遅れた。裁判所が熟慮を重ねた結果の判決であることの現れであり、重く受け止めなくてはならない。



 なお、僕の立場をはっきりさせておくと、僕は死刑廃止論者である。
 死刑が重大犯罪の抑止になっているとは思われないからである。統計的にも裏付けられる話だろう。
 その代わり、今の「無期懲役」ではなく、「終身刑」の新設を提案したい。
 死刑は、変な話、被告の苦しみは一瞬で終わる。が、終身刑はそうはいかない。一生刑務所から出られないと分かったとき、おそらくどんな人間でも徐々に壊れていく。
 それは、ある意味死刑よりも残酷だ。
 これが重大犯罪の抑止になるかどうかは分からないが、少なくとも命は助かっても希望のない日々を被告に送らせる事は、被害者の復讐心を満足させることにもなるだろうし、その過程で被告が徐々に改心して、贖罪の日々を送るならそれはそれでなおよい。
 そんなこともあって、最近の極刑主義には違和感を抱いている。




 さて、もうひとつの問題、「裁判員制度」に関してである。これは、上に書いたこととも関係する。
 今回の裁判は、裁判員制度をにらんだ、新しい形式で進められたようだ。
 被害者に法廷で直接発言させたのもそうだし、被告の行為の残虐性を示すために、切り刻まれた被害者の肉片の写真や、被告自身が描いたという犯行の様子の絵を法廷のモニターに映したりした。
 これは、「分かりやすい法廷」を目指す取り組みの模索の中で出てきた手法だが、いずれも裁判員の「情緒」に訴える手法である。
 裁判韻が法律のプロではなく、一般の人間であることを考慮すれば、検察側は法律の条文を駆使した「利攻め」と証拠固めで犯罪を立証するという「正攻法」よりも、こうした「情緒」に訴えるやり方の方が自分達にプラスになると思っているのだろう。
 米国の陪審員制度と違って、「量刑」まで短期間で決めなければならない裁判員制度の、これは大きな落とし穴であると思う。
 これまでの日本の犯罪史の中で、「冤罪」は数多くある。捜査段階での被告の証言が信用できるのか、検察が提出した証拠は適切なものか(または、本物か)といった、高度な判断は、とても素人にできるものではない。
 逆に、被告側の言い分に関する真偽の見分け方についてもまた然り、である。



 法律に関する知識がない以上、裁判員の多くは自分が持っていると信じている「常識」と「情緒」に頼るしかない。
 結果、感情的な判決が増えるのではないか、と僕は危惧する。
 日本の法廷が、「罪刑情定主義」に陥る危険性が高いのだ。
 誰しも、「泣き落とし」や怒りを誘うような事象・言葉には弱い。
 今回の判決も、もし裁判員制度の下で裁判が行われていたなら、99パーセントの確立で「死刑」が言い渡されていた可能性がある。
 今回東京地裁が下したような、冷静で理性的な判決が出せなくなるかも知れないのだ。
 それは、法治国家としては危ない。
 感情が優位になるなら、逆のこと、すなわち、「あいつは俺に酷い仕打ちをした。そいつを殺して何が悪い」という言い分が通ってしまうことになる。
 極端な意見に思えるかもしれないが、そういうことなのだ。
 法廷は復讐の場ではないのである。



 裁判所は、確かに常に正しいとは限らない。
 上級審にいけばいくほど、保守的かつ保身を第一に考える裁判官が増え、国や大企業に有利な判決が下されることも多い。
 しかし、だからといって、いきなり素人を裁く側に入れるというのは、リスクが大きすぎる。
 特に今回のように、被告の命を奪う死刑を言い渡すのか、更正に賭けて無期を言い渡すのかといった、重大な局面においてはなおさらだ。
 司法制度にはいろいろな問題点があるだろうが、裁判員制度がそれを解決する手段の一つとは到底思えない。
 僕は被害者に同情するし、感情も理解できるが、その上で、裁判員制度には反対する。
 そして、この事件の東京地裁判決を支持するのである。



 また、仮に上級審までいった場合、世論の「極刑」支持に押されて、東京高裁の裁判官が「罪刑法定主義」の道を外れないように願うのみである。



 人が人を裁くというのは、重く、困難なことである。
 今回の判決で、改めて考えさせられた