「私の8月15日(22)軍用兎」の話(325号2017年02月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第325号2017年02月号「私の8月15日(22)軍用兎」の話
 
皆様お変わりなくお過ごしの事ともいます。2月、寒いとはいえ、日差しに、かすかですが、明るさを感じるこの頃です。
トランプ大統領が就任してから、特に変化の多い日々です。しっかり眼を開き、耳をそばだて、頭を使って生きて行きたいと考えます。

 厳寒の季節になりました。
 先日、テレビドラマで、ペットとして育てていたウサギを世話しきれなくなった人が、引き取ってくれる人を漸く見付け、ウサギを預けました。後でそのウサギがどうしているかを尋ねましたら「食べた」と言われ、全員があっけにとられ、食べた人が逆にショックを受けた。という話がありました。
 これを見ていて私は小学生の頃 に飼育したウサギを思いだしました。

 それで、今月は「私の8月15日(22)軍用兎」の話です。
 
 1944(昭和19)年の春先、学校から兎を飼育するように言われて、小さな白い子兎が渡されました。それから私は、朝夕家の周辺に生えている草を刈って与えました。雨が降ると濡れた草は兎に食べさせてはいけないと聞き、雨の日には草を濡らさないように気をつけたり、晴れた日に草を蓄えたりして懸命に育てました。ところが、北海道の冬は早く訪れます。10月になり、気温が下がり、雪が降ると野の草はなくなり、兎に食べさせるものが不足するようになりました。食糧難の時代、八百屋からくず野菜をもらえる状態ではありません。乏しい食用の野菜を母からもらって何とか飼育をし、もう限界と思われる翌年の2月ころ、学校から育てた兎を持ってくるように言われました。

 学校に行きますと見慣れない人達が校庭にいました。雪の中、いくつかのテントが立てられておりました。兎を持った子ども達は一列に並び、兎を差し出したのち、別の列に並びました。そして何かを渡されました。家に持ち帰りましたら、兎の肉でした。食糧難の時代、食べましたが、割り切れない思いが残りました。

兎は、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と戦争のたびに、軍隊用のコートや帽子などのために、たくさん必要とされました。それで、軍や国は、1945(昭和20)年度に1,000万羽の飼育を目指して、すべての家庭で兎を数羽飼うよう呼びかけました。兎は比較的、手間がかからず世話をしやすいことから、小学生にも飼育するようにすすめられました。1945(昭和20)年1月の『少国民新聞』(今の毎日小学生新聞)に「飼おう、殖やそう、軍用兎」という特集記事が3回にわたって掲載され、その後「兎さんの出征」という少女の作文が掲載されたということです。

 内容は、兄の出征と、ウサギを軍に売ったことに触れたもので、かわいがって育てた31羽の兎すべてが買い取られたことを聞いて「ああうれしい。兎は兄さんと一緒に出征したのでした」とあるそうです。造り話っぽいという感じですが、当時としては、当然の話だったのかも知れません。この新聞は当時唯一の子ども向けの新聞で、私も定期購読をしていましたが、その記事の記憶はありません。

 この他、戦争中に経験したことで「あれは何だったのか」と思いだすことがいくつかあります。その一つが「ヒマの栽培」です。学校で植物の種を渡され、育てるように言われました。庭に蒔きました。すくすくと大きくなり、もらった種と同じような実をたくさんつけました。大人たちは見たことのない植物だと言いました。種には猛毒があるから食べてはいけないと言われ、実をつけた草ごと学校に持って行きました。その種から下剤であるヒマシ油が採れるということでした。本当は何のためだったのでしょうか。

 シダを集めるように言われたこともありました。私の育った所では、街を出ますと、藪だらけで、多くの雑草が生い茂っていました。町内会の大人が一緒に行って、どの草なのかを教えてくれ、刈った草を背中いっぱいに背負って帰宅しました。草刈りを数日繰り返し、乾し、夏休み明けに学校に持って行きました。何に使われたのでしょう。同じような経験をされた方はおいででしょうか。 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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