「私の8月15日(10)戦後の姿」の話(310号2015年11月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第310号2015年11月号「私の8月15日(10)戦後の姿」の話

     1945(昭和20)年8月15日で戦争が終わり、8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場にやってきました。マッカーサーは、それから私たちがいつも目にすることになるカーキ色の作業服のようなGIの制服を着て、コーンパイプをくわえて悠然と丸腰で飛行機から姿を現しました。
 9月27日に天皇陛下は総司令部(以下GHQ)が置かれていた第一生命館にマッカーサーを訪ねました。天皇陛下はモーニングを着、マッカーサーは日本着陸の時と同じ軽装で天皇陛下を迎え、その姿が新聞に載りました。天皇陛下は直立不動の姿勢、マッカーサーは腰に手をあて、片足を少し前に出した「休め」のリラックスした姿。その写真を見た日本国民は時代の変化をマザマザと感じました。

   それで今月は「私の8月15日(10)戦後の姿」の話です。

     いかめしい服装と顔で、よそ見をせず、しっかり手を振って歩く兵隊さんを見慣れていた日本人には、ジープに乗り、笑いながら子ども達にチョコレートやガムを配る自由で陽気なアメリカ兵も驚きでした。
 派手な化粧と服装でアメリカ兵と手を組んで歩く日本女性「大和撫子」に多くの人は目を背けたい思いでした。
 「贅沢は敵だ」(『暮しの手帖』社の花森安治氏は「贅沢はステキだ」と言い換えました。)「欲しがりません勝つまでは」と歯を食いしばって堪えてきた日々との落差にも徐々に馴れて行きました。
 ラジオからは軍歌ではなく並木路子の「リンゴの歌」が流れ、戦争中は無かった天気予報が放送されるようになりました。
 1947(昭和22)年7月には菊田一夫原作のNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の放送が始まりました。
 劇場ではお笑いが人気でした。古川ロッパ、エノケン達が皆を笑わせました。ロッパは日記に「英語がペラペラ喋れるといいな」と変わり身早く占領を受け入れました。三益愛子演ずるいわゆる「母もの」映画が観る人の涙を絞りました。
 笠置シズ子(1914-1985 大正3-昭和60)の登場は衝撃的でした。笠置は「松竹楽劇部生徒養成所」出身で1938(昭和13)年「帝国劇場」で旗揚げをした「松竹樂劇団」に参加し、作曲家の服部良一と組んでジャズ歌手として売り出しましたが、「敵性音楽」のジャズやブギを歌う笠置は「敵性歌手」として活躍の場を失いました。さらに、笠置が演じる派手な身振りと踊りが警視庁ににらまれ、マイク周辺の1メートル前後の範囲内で歌うことを強要され、帝国劇場への出演も禁じられたということです。
 しかし、1945(昭和20)年11月、まだ上野のガード下に浮浪児や行き所の無い飢えた多くの人々がいる頃、いち早く再開場した日本劇場に笠置は出演し、その時歌った『東京ブギウギ』が大ヒットしました。以後『大阪ブギウギ』や大阪弁の『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれました。買い物ブギで笠置は下駄履きに買い物かごの扮装で歌い踊り、あまりの激しさにいつも下駄が真二つに割れたということです。  張りのある笠置の声と舞台狭しと踊りまわる姿は私たちを楽しませ、軽快なブギは大人気になりました。「買い物ブギ」の「おっさんなんぼで、なんぼがおっさん。あーややこし。わてほんまによういわんわー」。私たちは、まねをしました。  歌いながら踊ることを禁じられ、マイクから1メートル以上動いてはならないと命じられた笠置は「これはカッパが陸に上がったよりもサンタンたる気持ちでっせ。こんなみじめなことあらしまへん」と当時を回顧しました。  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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