エホバの証人(JW)について考えるブログ

エホバの証人(JW)について考えるブログ

弁護士。元JW2世。1980年代後半13歳バプテスマ・90年代前半高校生で正規開拓者,18歳奉仕の僕・その後外国語会衆・一時的べテル奉仕・2000年代前半大学進学・自然消滅・JWと決別、その後弁護士という人生です。過去の経験を書き綴り皆さんとJWについて考えていきたいです。

Amebaでブログを始めよう!

現在、メッセージやコメントを下さったほぼすべての方に、ご返答ができない状況が続いています。
 

この件につきまして、心からおわびを申し上げたいです。

 

しばらくしましたら、皆様にメッセージやコメントへの回答を差し上げたいと考えておりますので、ご容赦いただければ幸いです。

 

どうぞ宜しくお願いします。

このブログで当方がアメンバー承認させて頂いたある方から、ほかのJW系の掲示板において、以下のような書き込みがありました。

特に気分を害するとか、ましてや怒るとかということは全くないのですが、私の考えを書くべきと感じましたので、書かせていただきます。

 

-----------------------------

【書き込みコメント内容】

みなさんこんにちは 元証人の IM「どせい」さんのブログです すでに読まれたり書き込みされているかたもおられると思います 現役弁護士さんらしく本当に協会を訴えるつもりのようです 現時点では ムチ問題、輸血拒否問題、高等教育否定の問題、忌避問題などでアンケート等で情報を集めてそれで訴えを起こし社会の多くの人にもこうした問題があることを知ってもらおうとするもののようです

 

それでみなさんのアイデアや意見も取り入れたいとのことでしたので IMさんのブログのコメントにもかけますけど書きにくいのでこの掲示板に書いてIMさんにみてもらおうかなと思いました

 

それで自分の意見としては

 

ムチ問題、については協会は子供たちに適切なこらしめ 矯正をあたえることは聖書のさとしでもあるし必要だと思うが 親に棒や物理的なムチなどでたたくようなことはすすめておらず 各信者さんが勝手にしていることだと言うと思います

 

輸血拒否問題、についても聖書は輸血をさけるようにと自分たちは理解しているが「何を信じるかは宗教の自由というと思います」信者さんには強制はしていないと言うと思います

 

高等教育否定や忌避についても大学進学などは禁止していないし信者でなくなった人を避けるように指示はしていないといい信者さんが良心的に決めていることだというと思います

 

あとこうしたことを訴えたとしても協会は親や会衆の個々の人たちが勝手にしたことだと責任転嫁するでしょうし訴訟となるとものみの塔の責任を追及するのはむずかしいのではと思いました cry

 

それでIMさんの貴重な残りの人生の時間を不必要にとられすぎないようにされたらよいのではないと感じました「いや自分のやるべきことはこれしかないとお考えなら別に反対することはまったくありません」

【引用以上】

-----------------------------

 

私としては、この方に善意でこの文章をお書きいただいたものと解釈していますが、真実と全く反する内容が書かれており、私自身の考えについて大きな誤解が生じる恐れがあるため、私の考えを書かせていただきます。

 

1.まず、そもそも論ですが、私は「本当に協会を訴える」という考えを書いたことはありませんし、通常の判断能力で読まれた場合にそのような印象を与える文章も書いてはいません。

誤解を与える文章であったのかもしれないと思い読み返してはみましたが、この点は確信をもって言います。

 

また、私は「本当に協会を訴える」ということを考えたことは今までありませんし、これまで様々な場所で発言をしてきましたがそうした考えを表明したことも推奨したこともこれまでないと考えています。こと今回のブログでは、そのような内容は全く書いていません

 

ですので、この方の書かれた文章の、「私が本当に協会を訴えるつもりである」という内容は完全に真実に反していますし、その土台が真実に反している以上、その間違いに基づくその後の文章について、特に私のほうで考えや反論を述べる必要はないものと考えます。

ただ少しだけ言及をさせていただくなら、こちらの文章の第4文、5文、6文はそのとおりであり、しかも誰しもがすぐに思うことであり、「そのような状況の中でどうしてゆくか」ということこそを、様々な検討や経験をもとに自分の考えを書いたものです。

 

2.次に、弁護士にもいろいろな仕事の分野がありますが、私自身は、自分では、訴訟も含め切った張ったの法的闘いの最前線にこれまで10年以上いたつもりですし、自分自身が人権擁護委員会等で採決を出す側にいたこともあります。

そのことで何を言いたいかというと、人の人生や生き方に関わる問題というのは、その問題を扱っている最中も非常に広い視点から様々な人の利益・考え・感情を考慮しなければいけないですし、その後に結論や解決に至った後であっても、引き続き、関係する様々な人への影響を考慮しなければいけないものである、そしてそれは極めて重要なものである、と考えています。

 

したがいまして、私は、私のブログの中で、何か拙速な方法を提案したり強く推し進めて来たつもりは毛頭なく、「エホバの証人問題」に対応するための様々な方法を模索することの必要性と、それを考える上での、単なる例としてのたたき台をいくつか提示し、その点についての読者の方のお考えを広く募っていたところです。

ですので、なぜ、「私が本当に協会を訴えるつもりである」との結論に至られたのかが私にはわかりませんし、そのような趣旨にとらえられる文章を自分が書いたとも考えません。

 

3.この方が紹介されたブログというのは、もちろん私が利用しているこのアメーバブログですが、「エホバの証人問題を考える」という一連の記事は、比較的詳細な自己紹介をしてくださり、承認された人しか読めない「準非公開の設定」(つまりアメンバー限定記事)にしてあります。

この方が念頭に置かれているで間違いないであろうこの一連の記事は、様々な理由から「ほかのところで公開しないでいただきたい」と前書きしてスタートした一連の記事です。確かに、一度、手直しして短期間の間、公開記事としたことがありましたが、数日のうちに再度準非公開にしました。それには様々な深い理由があります。

一連のその流れを見れば、合理的な判断をすれば「公開を望まないものである」ことは容易に理解できるものであると少なくとも私は考えるのですが、その内容にほかのサイトで言及され、しかも、私が書いた趣旨とは根本的に異なる内容で紹介されていることは非常に残念なことであるとしか言えません。

 

4.私自身を含めてのことですが、そして広い意味での一般論ですが、エホバの証人の人や元エホバの証人の人は、「自分の善意」から何かをする方が多いです。しかし、「エホバの証人時代に善意からしていたことが大きく間違っていたことである」と感じる人は多いのではないかと思います。そしてその原因は、真実ではないことについて、自分が誤った確信を持ってしまい、それを広く人に伝えたことが原因である、と感じる人は多いのではないかと思います。

また、これもまた私自身も含めてのことですが、「自分の視点で何かが正しい」と思ったときに、それに関係する全ての人、利害関係が異なる関係者すべての考え・感情・状況を必ずしも十分考慮せずに行動に移すことにより、思わぬ仕方でほかの人に害を与えてしまう傾向がエホバの証人時代にあった、或いはエホバの証人をやめた後も残っている、ということがありがちではないかと考えます。(これはエホバの証人関係者だけに限らず、世間の多くの人にもそうした傾向はあるかもしれませんが。)

自戒を含めてのことですが、エホバの証人経験者であればみなこうした点に留意することは必要ではないかと感じることがあります。

 

5.「IMさんの貴重な残りの人生の時間を不必要にとられすぎないようにされたらよいのではないと感じました「いや自分のやるべきことはこれしかないとお考えなら別に反対することはまったくありません」とお書きいただきましたが、これはありがたいお言葉です。

実際に私は、私が考えた通りのことをやり抜くつもりです。

それは、自分自身のためです。

そして「自分自身のため」というのは、今もエホバの証人問題に苦しんでいる人たちのために何かをしたいからです。

それをすることで自分には全く利益はありませんし、むしろマイナスしかありません。

自分がすることが人の役に立つかどうかなどわかりません。

 

しかし、エホバの証人問題について自分が知っていることを伝えることで、どこかの誰かの役に立つのであれば、私はそれをしようと思います。それについて批判されることもかまいません。失敗するかもしれません。ただ思うことは、私はこれまで約20年このことを考えてきましたし、様々な専門家にも長年にわたり相談を続けてきました。それにより偏見等の不利益を被ったこともあります。また、ブログを書く時間をとることを含め、こうした活動について考え続けることは極めて大きな負担がかかるものであり、仮にそれが価値があるものであったとしても或いは価値が全くないものであったとしても、1人の人間が何かを一生懸命にやってるのであれば、その一生懸命さには一定の敬意を示す社会であってほしいと思います。

そしてその一定の「敬意」」には、「信頼しているのでこれはしないでいただきたい」という意思表示があればなるべくそれを尊重することや、何よりその行為や活動にまつわる非常に様々な複雑な状況について少しだけでも思いをはせて、配慮を示すことが含まれるのではないかと私個人は考えるところです。
少なくとも自分はそうありたいと思っています。

 

6.何より最も大事なこととして、自分が書いてはいない内容について、あたかも私が書いたかのように公の場所で紹介され、さらにその真実に完全に反する理解に基づいて何かの批判をされるということであれば、そうした場合には、私としても自分や自分の協力者の名誉を守るために、「それは間違っている」と明確に反論せざるを得ないと感じます。

こうした理由で、今回、自分の考えを書きました。

 

 

前々回、一つの例として、「ムチ被害についてのアンケート」についての考えを書かせていただきました。

 

いつ実行に移すか、移すとして具体的にどのような方法で行くのかは別として、こうしたアンケートを取り、分析し、証拠化することについて現在慎重に検討している一つのアイデアの例を提示させていただいたのですが、非常に多くの方から、今からでもアンケートに協力したいというメッセージをいただきました。

 

それで、繰り返しになりますが、すぐに公の行動を移すわけではないですし、相当の慎重な検討と十分な準備をこれからも続けてゆくことを前提としたうえで、以下のような内容のアンケートを、現在のところたたき台として考えています。

(pdfを張ることができないので、写真になってしまいますが、ご容赦ください)

 

こうしたアンケートが真に力を持つには、いくつかの要素が必要です。

①50件から100件程度の回答を得ること

②地域、時期などについて可能な限り具体的に書いていただくこと(それにより組織関与の分析がしやすくなります。)

③されたムチの詳細、組織の指示やエホバの証人信者からの指示・推奨についての詳細

(実体験に基づくのであれば、記憶に基づくもので構わない。具体的なエピソードであればあるほど価値がある。)

④複数の人が同じことを書いていたり、或いは作り話ではないことの確認ができること。

(そのためには、受け取りの仕方と個人情報の管理の仕方、そしてアンケート集計側の個人情報の提供などが重要になる。)

⑤類型化して証拠として使用するために、同じ書式で回答してもらう。

などの点です。

 

具体的に、実際に書いていただいた記載例も載せておきます。

 

現在のところ、こうした方式・内容のアンケートをベースに考えています。

 

これをみて、「これを足したほうが良い」とか、「こうしたほうが良い」というご意見があれば、ありがたいです

エホバの証人問題についての、JW関係者や社会一般への啓蒙について、現在、非常に真剣に考えています。

 

もう1つの例として、「ムチ問題」の実態を公表することは、非常に重要で必ず行われるべきものであると感じます。

 

この極めて卑劣な行為により、どれだけの人が人間性や家族関係を破壊されたのでしょうか。

そして、現在では、かつて行われていたような「ムチ」はエホバの証人内でも行われなくなっており、

これはすなわち、この深刻な問題が闇に葬り去られ、そしてそれを推奨していた人間たちが責任を問われず、責任を感じることもなくこの世を安穏と去っていくことを意味します。

(しばらく前に、もうかなり高齢になっている日本支部委員の一人が、海老名駅の前で街路伝道をしているところにたまたま出くわし、この点を怒りとともに非常に強く感じました。)

 

こうした問題について、正確に世間に訴えかけることは、絶対に行われるべきことです。

いしいさやさんが、漫画「よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話」の中で、勇気をもってこの問題を示してくれましたが、こうした立派な先駆者に、さらに続くべきタイミングであるといつも感じています。

 

では、いしいさんがされたような「自分個人の経験を赤裸々に伝える」という方法とは別に、「これが社会問題なのだ」という別のアプローチの仕方をする場合、どのようにしてそれを行うべきかを考えたとき、

①「正確なデータ」と、

②ものみの塔協会が言い訳ができない正式な方法をとるこが重要になると思います。

 

これまで私が考えてきた一つの方法は、次のようなものです。

(これは単なる1アイデアであり、他にも良い方法があると思いますし、今は「どうすべきか」考えや方法を温め続けている段階ですが、現時点の考えだけでも「たたき台」として公表することには意味があると信じています。また、前回書いた内容と被る部分も当然に出てきますが、1つの流れとして、重複する部分も含めて書いてみます。)

 

1.「エホバの証人を考える会」のようなグループを組織する。

・少人数で構わない。最初は、試行錯誤になってもかまわない。

・そのメンバーとしては、

①何らかの分野の専門家、

②エホバの証人内部事情に詳しい人(組織内部の地位の高い人をよく知っていたりべテルの内部情報に詳しい人・または長老として自らムチについての指示に関わっていて、そのことを後悔している人等)、

③エホバの証人資料の収集にたけている人、またはすでに資料を収集している人(ムチについて書かれた協会出版物や、報道された資料を持っている人、集められる人)、

④データ分析にたけている人(集まる資料をグラフ化したりデータ化したりして、様々な角度からの結論をデータから引き出すことができる人)、

⑤データをもとに出た結論を公表するため、テキストウェブサイトやYoutubeの作成や編集、効果的な画像・動画編集ができる人

⑥多くの元エホバの証人・エホバの証人関係者に協力を呼び掛けられるネットワークを持つ人

そうした方たちに、(メインメンバーでなかったとしても)いずれかの形でご協力いただく。

 

2.そうして作った組織を通じて、日本中の「ムチ経験者」(子供としての被害者側でも、親としての加害者側でもよい)に詳細なアンケートを取り、「ムチ問題についての実態」のデータをとにかく可能な限り集める。

(インターネット経由で構わない)

 

3.アンケート内容は、可能な限り詳細なものが良い。

①現在の被害者の年齢、性別

②ムチ被害に遭った当時の年齢(何歳から何歳まで)

③ムチ被害に遭った当時の地域(都道府県レベルでもよいが、可能ならば、巡回区名・会衆名まで書いてもらえれば資料価値は飛躍的に上がる)

④加えられたムチの態様(場所・道具・具体的な行為・ムチの後にどのような傷がどの程度残ったか(精神面を含む)、等)

⑤ムチを加えられるときの理由

⑥ムチを加えた人物(親か、研究司会者かなど)

⑦ムチについてのものみの塔協会の関与・指示(つまり、研究司会者の指示・長老の指示・会衆のほかの親たちからの勧めや圧力・巡回監督の指示、等)

⑧ムチをされた際の「身体的」虐待以外の「精神的」虐待(自分でお尻を出させられる・終わったら「ありがとう」と言わされる・年齢の高い女性でもお尻を出させられる・逃げ回ると回数が増える、時間を計られて時間内に自分でお尻を出さないと回数が増える、等)

⑨ムチの跡を隠す指示があったか(父親に見せるな、体育の時間に着替えの時に見つかるな、等)

⑩ムチをされなくなった時期とその理由(男の子なら体力がついて抵抗できた、女の子なら身体の発達に伴いされなくなった、等)

 

4.上記のアンケート回答は、50~100程度の数があればよい。もちろん多いほうが良い。

できれば、地域が分散しているほうが組織的関与・指示の立証がしやすいので、全都道府県から回答が来るのが望ましい。

資料価値を高めるため、「絶対に個人情報を秘匿する」との書面を交わしたうえで、実名で回答してもらえる人が多ければ多いほど良い。

(ただし、回答したくない部分は、回答者の希望通りに、回答しなくてよい。)

 

5.得られたアンケ―ト結果を、専門家とともに、実証学的にデータ分析し、そこから得られる結論から、「エホバの証人組織の指示」及び生じた被害を立証する。

 

6.「エホバの証人を考える会」の名称、またはその代表者の名称で、詳細な資料をつけた上で、ものみの塔協会に正式な「質問状」を送る

・組織としての関与を認めるか、

・認めない場合、その理由は何か、

・認めるとして、謝罪するか、

などの具体的質問を送り、反論の機会も与える。

 

7.送った質問状(及びその根拠となる詳細な資料)と、ものみの塔協会からの回答を、正式に作った見やすいウェブサイトまたはYoutubeもしくはその両方で、世間一般に広く公表する。

エホバの証人問題に関しては、海外の関係者のほうがはるかに力があり、かつ、ムチ問題は「日本独自の問題」なので、できれば英語でも公表する。

 

非常に雑駁なアイデアしか書いていませんが、一例として上述した方法とることができるのではないかと考えていますし、今こそ、こうした活動をするべきであると強く考えています。

 

ほかにも、より深く具体的に考え、準備していることもありますので、ゆっくりと確実に進めてゆきたいと思っています。

つきましては、皆さんの意見をお伝えいただければ幸いです。

 

また、何かを実行する場合には、相当の注意深い準備をして行うので、今すぐにとか、ここ1、2か月のうちにこれを実行するというわけではありませんので、関心を持たれ、協力を希望してくださる方がおられましたら、少し長期のスパンになるとご了承ください。

 

※このアイデアについては、おそらく、より具体的なアンケート内容などについて、書式例をつくって、公開すると思います。

 

エホバの証人問題について、一般社会にインパクトのある、そして世間に真剣に向き合ってもらえる情報提供の方法は、「書籍の出版」に限られるものではないと思います。

 

私はなんとかご存命中のうちにレイモンド・フランズ氏にお会いしたかったのですが、かないませんでした。

 

もし仮に、今もまだレイモンド・フランズ氏がご存命で体力がおありであれば、日本に招待して通訳付きで講演会をしていただき、その内容をYouTubeで日本中に配信することなどができたのかなと考えたりしますし、そのようなことが実現できたら、かなりの反響があったのではないかと想像します。(現在、レイモンドフランズ氏の動画・肉声が見れるのは、東欧でのインタビューに応じたときの短い動画だけであると思います。)

 

ただ、そこまでのインパクトはなかったとしても、もしどなたか海外で「エホバの証人社会に対しての発言力」の強い方がおられるとして、その方を日本にご招待して、講演会・質疑応答等を公開の場で行って、それに通訳をつけてYouTubeで日本中に配信することはできるのではないかと考えています。

 

具体的には、まずは、現在最もインパクトがあるのは「児童性虐待隠蔽」についての訴訟が欧米で次々となされていることであり、この事実はエホバの証人組織はまったく言い訳ができない状況であろうと思います。

この事実自体でも十二分ですが、「その後、この巨額の賠償金はどこからねん出されているのか。エホバの証人信者に会計報告がなされているのか」といったテーマから始まり、欧米における「忌避問題」や「忌避問題を理由とした訴訟についての可能性」などに話が広がる大きな可能性があるのではないかと思います。

 

そして、単なる海外情報としてネット上で短い動画を見るよりも、「日本のエホバの証人社会に向けてカスタマイズされた、よく整理して実態や事実を明らかにする」、かなり力の入った作りの情報提供がなされれば、日本のエホバの証人社会に与える影響は非常に大きいのではないかと考えたりします。

 

これは半分が単なる夢のような構想で、現実的でない部分もあるかもしれませんが、具体的な例を言うと、

①「エホバの証人児童虐待問題を考える会」のようなものを有志で作る。

信頼できる外部の専門家、そして外部の「情報発信のプロ」にも何らかの形で入ってもらうこともあり得る。

②その有志のグループで、まずは、児童虐待問題についてのすべての資料(裁判例・とりあげられた海外ニュースの映像、新聞記事・海外でこの問題に取り組む団体や専門家についての情報)を集める。

③そのうえで、キャンディスコンティ事件を扱った米国弁護士や、サイレントラムの代表者など、著名な当事者に来日してもらい講演してもらう。

その講演の前半で、まずは世界全体のエホバの証人児童虐待問題について整理された形で正確で詳細な情報提供を行う。

その後、来日してもらった専門家に具体的なケースの経験・全体的現状・その他の考察を語ってもらう。

講演会には外部の専門家も来てもらい、質疑応答や意見交換をしてもらう。

これらをダイジェストで録画編集し、Youtubeで公開する。

※なお、「講演」という方法をとらずに、すべてを最初からYoutubeの番組として作成することもありうる。

④この方法がうまくいった場合、次は同様の方法で、「ムチ問題」「忌避問題」「輸血拒否問題」とシリーズ化してゆく。

 

こうしたことができないものかと、ぼんやり考えています。

 

そしてこれは単なるたたき台、思い付きのアイデアですので、これとは全く別の効果的な方法についても模索したいと思っています。

 

いずれにせよ、こうしたことに関心があり、少しづつでも、「一般社会に対して腹を決めて、正確で信頼できる本格的な方法で、エホバの証人問題の実態を提起していこう」と考える方々がおられれば、ゆっくりでも協力し合い、集まりあって、何かをできないか一緒に考えていくことはできないだろうかと思っています。

前回書いた内容までで、私がブログを書き始めたときに「本当に書きたい」と思っていたことは、すべて書き終わりました。

 

当初は、「真理の嘘を確信する」というところまで書くつもりでいました。

 

「文鳥と死体」の話は、世の中には様々な状況にある方がおられることをここ10年以上の弁護士業務を通じてよく知っていましたので、書くべきかどうか本当に悩みました。今でも書くべきだったかどうか悩んではいますが、表現を最大限抑え、具体例になるべく触れないように調整することで自分との折り合いをつけ、この話についても結局、書きたいことは書き終えることができました。

 

思えば、大学に入ってからの衝撃を受けつづけた毎日の日々の中で、「いつかこの内容を誰かに共有しないといけない」と20年思い続けてきた内容を、非常に不十分な形とはいえ、なにがしかの形で書き終えることができましたので、今後、これがどなたかの何かしらの役に立つことがあればとてもうれしいです。

 

自分が書きたいことを書き終えたのちにこのブログをどうするか、特に決めていませんでしたし、再校して文章や構成を整えた上でこのまま放置するという選択肢もありましたが、「終わってしまうと寂しい」という誠にありがたいご意見を多くいただきましたので、皆様からお声がけいただくテーマについて、今までとは違い、ずっとゆっくりのペースで続けていこうかと考えております。

ですので、これまで繰り返し述べてきたように、皆さんが書いてほしいと思うテーマをご提案いただければ、こんなに嬉しいことはありません。

 

現在のところ、K姉妹とはどうなったのかというお尋ねと、最高裁の剣道拒否事件判例についてどう考えるかというお尋ねをいただいていますので、この点について、ゆっくり書いていこうかなと思っている次第です。

 

―――――――――――――――――――

 

以上がブログについての考えですが、今自分が思うことをもう少し書いてみたいと思います。

 

私は、いつか、エホバの証人組織についての統一的で信頼できる専門的情報・整理された分析、解説を公表する人が現れること、

そして「世間がその人のことに耳を傾けるであろう立場にある人」が広く世間一般に向けてそれをしてくれることを強く望んでいます。

 

私は2001年ころから、エホバの証人についてのインターネット上の情報にアクセスするようになりました。

 

自分の知る限り、この20年の間(あるいはその前)に、少なくとも6人の元エホバの証人の方が、本または漫画本を発行し、JWとしてのご自身の経験を公表し、それに基づいて「エホバの証人の実態」を世間に知らせてこられました。

 

こうした活動は非常に大きな功績を残したと思います。

 

そして、日本の元エホバの証人社会は、今や別のステップに進むことも考えるべきであり、そうした別のステップへの移行を行う人がさらに現れるべきではないかと強く感じます。

 

・これら幾人かの方が出版された「元エホバの証人としての自伝的書籍」はエホバの証人の実態を世間に知らしめるという意味で極めて大きな意義を持ちます。

それと同時に、世間がそれをどういう視点で見るかというと、「一信者が経験したつらい個人的経験」・「世の中にはこのような大変な世界があるのか」という視点かもしれず、ある意味、「エホバの証人ってそんな宗教なんだ、いやだね」という印象を与えることで完結してしまう可能性もなくはないかもしれません(その印象を引き起こしてくれただけで十分すぎる功績なのは言うまでもありません。)

 

・また、これら出版されてきた本は、多くの元エホバの証人にとって、強い共感を覚えるものでしょうし、エホバの証人問題について世間に知ってもらえるという意味でとても心強く、嬉しく感じるものであり、こうした意味でも非常に多くのこと成し遂げてきたと思います。

それと同時に、これらの情報はエホバの証人関係者の目からは、「自分が経験したことと同じことが書かれている」ことでもあり、それゆえに共感や勇気付けを与えてくれるのですが、そこから新たな世界観や自分の過去についての清算・解決の方法を具体的に得る、そして心と考えを整理してその後の人生を切り開いていくという点について言えば、そうしたものを提供することはもともとメインの目的とするものではないかもしれません。

 

(※繰り返しますが、これらの本は非常に多くのことを成し遂げてきたと思います。何かの情報提供をする際には「その目的」が必ず存在しますし、こうした書籍は、その「目的」を十二分に達成してきたと思います。

もとより1つの情報提供が「ありとあらゆる様々な目的をなんでもかんでも達成する」ことは、物理的にないことだと思います。

したがいまして、既存の書籍に何か足りないものがあるかのような指摘をする意図では「全く」ありません。

「自分も本を書いてみろ」と言われてもできないでしょうし、仮に書いたとしてもこうした方たちの書籍ほど世の関心を引くとも思えません。)

 

そのうえで、私個人のぼんやりした夢を言えば、

・ある意味客観的な学問的視点、具体的には社会学的視点から「エホバの証人問題」を分析し、そしてそこに法律や心理学の視点も加味され、多くのエホバの証人関係者が「エホバの証人とは何なのか」「それにかかわった自分の人生はどういうものなのか」を論理的に理解し、整理し、それぞれの人生を歩んでいける内容、

さらには、エホバの証人とかかわりのない人たちが「エホバの証人問題」を深く理解し、社会全体がこの問題に対処するための術を与えてくれる内容、そうした対処が必要であるとの強い意識喚起をしてくれるもの、

いつかそうしたものが公表されることを強く願っています。

 

※つまり、「社会全体が取り組むべき問題である」ということを一般社会に理解させる理論的な情報提供がなされることを望んでいます。

現在、欧米では、「エホバの証人組織による児童性虐待の隠蔽」が、苛烈ながらも正真正銘の正当な方法で法的にもマスコミからも追及されており、「懲罰的損害賠償制度」を利用して、エホバの証人組織の存在自体が強く問われています。これに対してはエホバの証人組織も打つ手はないでしょうし、全く言い訳ができず、連鎖的にこの団体の問題が次々に社会全体に広く露呈しています。

そしてこれは、まずは欧米各国の社会全体が、エホバの証人にまつわる問題(教育の否定・社会との隔絶・忌避問題・輸血拒否などの深刻な人権問題)を意識し、「何とかしなければいけない」と気づいていること、そして、そのような問題に気づきながらも「信教の自由」があるためにその宗教信条自体は攻撃できないでいたところ、「組織的児童性虐待の隠蔽」という突破口が見いだされたので、そこを糸口に一気にこの団体の問題点が暴露され始めていることによると感じます。

つまり、「エホバの証人の引き起こす問題は社会全体が取り組むべき問題である」という認識が欧米の動きの背景にあると考えますし、日本もそうなるべきであると感じています。

 

ただ、こうした客観的で専門的な分析についての発言ができる人といえば、こと日本について言えば、おそらくは大学の教授や医師などでないとどうしてもできないと思います。

 

つまり、①第三者的な客観的視点を持つ人で、②かつ、何らかの分野の専門家で、③さらに、エホバの証人の実態に相当詳しい人でなければならないと考えます。一般世論がそういう見方をするからです。

 

※上述の繰り返しになりますが、私が考えること、感じることは「役割分担」の必要です。心に響く真実の暴露に成功し,先駆者として道を開いてくれた人たちがいてくれたことを前提として、さらにほかの役割も担う人の必要性です。医学・統計学・社会学・心理学・法律学・客観的な宗教学等の視点に基づく情報提供も、そろそろなされるべき時期ではないかと感じるということです。

 

残念ながら、現在のところ、そうした立場にある人で、実名を出してエホバの証人関係者であることを公表する人はいません。

 

この点で驚いたことに、自分が弁護士になった後に、そうした社会的立場にあるエホバの証人関係者がかなりの数いることを知りました。

 

数々の大学の教授たち、その中には医学部の教授もいましたし、

また、世界有数の巨大企業の取締役をしている人もいました。

臨床医師に至っては、驚くほど多くの方たちがいます。

 

そして、こうした方たちが、これまで長年にわたり、全く見えないところで、私たちを信じられないほど助けてくれていたことも知りました。

例えば、私を含めた多くの人が、現在、「エホバの証人の偽善を示す動かぬ証拠」と考えてネット上でアクセスできる決定的証拠のいくつかは、かつて、そうした人たちがJWICを作った村本先生などに協力して情報提供していたことなども知りました。

 

そうした方たちの中で、エホバの証人問題について、顔と名前を出して語ろうという方は、現在のところ全くいません。

それにはそれぞれの方なりの深い理由があると想像します。

社会の目が変わること、現役エホバの証人の親族に深刻な影響が及ぶこと、或いは忙しすぎてそのような活動はできないこと、今行っている活動が充実していてそうしたことに関心が薄らいでしまっていること、理由は様々でしょうが、極めて合理的で動かしがたい理由がたくさんあるのだと思います。

 

これまで「一当事者の個人の経験談」を勇気をもって公表した先駆者がいる中で、いつか誰かが、そうした分野・視点とはまた別物として、広く世間一般が「客観的視点でエホバの証人組織についての実態を語る信頼できる人」とみなす人が、この組織の実態について、何かの形(おそらく書籍またはウェブサイトの形)で公表し、多くのエホバの証人関係者を救ってほしいという気持ちは強まるばかりです。

 

私について言えば「社会での実績」という意味では全く不十分ですし、

自分の過去を公表することで自分が失うものも多く、今現在一緒に仕事をしている方たちに迷惑が及ぶかもしれません。

したがって、そうした活動に打って出ることは、現時点では力不足も甚だしいでしょうし、大きなためらいもあります。

 

ただ他方で、そのように考えて時が流れるうちに、多くのエホバの証人の人たちが人生を無駄にし続けるのを放置し続けるのも大変辛いことです。

私が今回ブログを「再開」してショックを受けたのは、もともと私はこのブログを2013年に始め、2016年に一度休止したのですが、

「2016年以降頃からエホバの証人について悩むようになり今回このブログを見て目が覚めた」「もっと早くこのブログに出会っていれば人生が違っていたかもしれない」と言ってくださる方が多数おられたことです。

自分があの時やめなければ、幾人かの人の少しの助けにでもなれたのかもしれないと思うと、大変に悔やまれました。

 

そのようなわけで、いつの日か、私は、力不足と分かっていても、なにか正式な形で「エホバの証人の実態についての公表」に関わる活動をできればと思っています。

またその際には(或いはその前でも)、その活動に協力してくれる強い味方が現れてくれればとも思いますが、そうした人が現れなくても、たった一人であっても、どんな犠牲があったとしても、いつの日か、「人として」そうしたことをしなければならないと考えています。

その努力や貢献がごく僅かなものでもしなければならいのではないかと思います。

 

やや混乱した、まとまりのない考えかもしれませんが、今思うところを正直に書いてみました。

これを見て皆さんがお感じになることを、何かの方法で教えていただければ、大変うれしいです。

 

私が「ご遺体」の研究というものにのめりこみ始めたころ、周囲の人間にはかなり心配されたりしていましたが、ちょうどその頃にほかの人の勧めがあって、私は「文鳥」を飼い始めました。

 

私は文鳥になど全く興味がありませんでしたし、当初は、あんなに小さなトリで、犬と違ってお座りやお手もできるわけでもないだろうし、「動物」を飼うというよりも、小さな安いミニカーを1台買うくらいの感覚でいたというのが正直なところでした。

 

【文鳥を飼う】

 

ところが、文鳥を飼い始めてみて、文鳥に対する感覚はすぐに一変しました。

こんなに小さく、こんなに軽い生き物なのに、「なんと可愛く、そしてなんて賢い存在なのだろう」とすぐに感じるようになりました。

 

・とにかく可愛い

 

この文鳥は私に非常に懐きました。

懐くというか、私のことが大好きで大好きで仕方ない感じでした。

 

私が手のひらを小さく丸めると、すぐにそこに飛んできて手の中で丸くなり、しばらくするとその手の中で一生懸命「巣作り」をしたりしていました。また、私の掌の上で丸くなって寝てしまったり、文鳥を飼ったことがある方であればすぐわかると思いますが、「くちばしを自分の羽の中にしまった姿で寝る」、つまり「文鳥にとってのガン寝」をすることすらもありましたし、完全にひっくり返っておなかを出して寝ていることもあり、そうした姿は本当に可愛いものでした。

 

「文鳥の水浴び」を見たことがない人が初めて見るとびっくりすると思いますが、私もこの文鳥の水浴びを初めて見たときには、あまりの可愛さにびっくりしました。

 

・とにかく賢い

 

また、文鳥の賢さにもびっくりしました。

 

私の掌の中で丸くなってグーグー寝ていたのに、玄関のインターホンが鳴ると、すぐにパッと起きて頭を上げて右左を見てきょろきょろし、私の顔を見てちゅんちゅん言って「あれ?誰か来たよ」と言わんばかりでした。

さらに驚いたのは、そのままパタパタと玄関に飛んで行き、それが良く知っている人であればちゅんちゅん言って肩に乗り、それが宅配便や郵便屋さんなど知らない人であれば、床でジーと姿を見つめた後に首を何回かかしげて、そのまま私のほうに戻ってくる、つまり、人の区別がちゃんとついていることでした。

 

水浴びするときも、本人的には何かこだわりがあるようで、「台所は嫌」・「洗面所でないとダメ」、「水に入るときは必ず私の右腕から降りてゆき、左からは絶対に下りない」「水浴びを始める直前はかならず水を2回ちょっと飲んでから始める」というようなマイルールがありました。そのようなこだわりは良い意味で本当に「めんどくさく」、本当に可愛いものでした。

水浴びしたいときは、明確に私に対し「水浴びさせろー水浴びさせろー」とアピールして、なんとも可愛い「圧」をかけてきました。急に体を膨らませて、何度も羽ばたきを繰り返して、ちゅんちゅん言って催促していました。

 

私は、当初は、文鳥なんて金属でできたミニカーくらいに思っていたわけですが、

わずか20グラムしかないこの生き物が、一生懸命に私に話しかけ、私に向かって歌を歌い、求愛のダンスをし、こちらも指で一緒にダンスをしてあげるとさらに興奮してダンスをする姿を見て、本当に文鳥への考え方が変わりました。

 

暇さえあれば一生懸命に自分をキレイにしようと羽繕いをし、時節が変われば羽が変わりその見た目も大きく変わり、求愛の時期には自分を一生懸命に素敵に見せようともしていました。文鳥なんて、黒と白とグレーの三色だけの「変なデザインのトリ」、と思っていましたが、時節や感情により、その姿が変わるのを感じてつくづく感動したりもしました。

 

この子にはしっかりした自我があり、周りを愛し、自分も幸せでいようとしていましたし、実際に幸せいっぱいだったと思います。

 

【文鳥と死体】

 

ちょうど人の死について深く考えていたこの時期の私は、最初はただこの子に癒されていましたが、やがてこの文鳥と一緒にいる小さな小さな、しかし穏やかで幸福な経験からいろんなことを考えるようになりました。

 

私はエホバの証人組織から、「人間だけが地上の唯一の理知ある被造物であり、その他の動物とは全く違う」という教えを教え込まれてきました。その教え自体に間違いはないと思います。

 

しかし、その組織からは、さらにその考えを逆の方向に利用され、「だから人間は神への崇拝に自分をささげないといけない」「だから地上の神の組織に自分をささげないといけない」という教えも埋め込まれていました。

「人間は特別」という事実から本来導き出されるはずの結論とは真逆の方向にコントロールされ、自分の人生を大切にする、そして同じように周りの人の人生も大切にするという発想とは全く別の観念を植え込まれていました。

また、「復活」の概念も教え込まれたため、人がどう生きるべきかについての考えも歪んでいましたし、マヒしていました。

 

そのように「人間は特別な生き物」という考えを持ち、それがどこか歪んだ形の発想を引きずらせていましたが、

法医学を通じて人の死の現実に接するようになり、亡くなって冷たくなり物も言わず動きもせず腐敗が進行し始めているご遺体、原形をとどめないご遺体、解剖されてみるみる形が変わってゆくご遺体の姿、そしてその現場に立ち込める死臭などを経験し、「まさに人が人でなくなってゆく過程」に直面することで、「人は本当に死んだらすべてが終わりなのだ」と、強く確信するようになっていました。

 

そしてその一方で、家に戻って文鳥に接してその姿を眺めているときに、別の思いも浮かんできました。

 

こんなに小さく、こんなに軽く、今までの自分が「全くとるに足りない存在」と思っていた文鳥も、しっかりと自我を持ち、自分の幸せを持ち、周りを幸せにする姿を見て、「とるに足りないと思っていたこの小さな生き物も、自分の人生を一生懸命生き、自分が幸せであろうと一生懸命なんだな」とつくづく感じました。

 

そして、

「ただひたすら愛されるだけのために生まれてきて、本当に飼い主に愛され大事にされ、幸せいっぱいで、そして飼い主のことも大好きなその文鳥」の生き方、

短い命かもしれないけれども一生懸命に幸せに生き抜く姿をみてある意味うらやましく思い、

 

「すべての生き物は、本来、こうやって生きるべきではないか」

「ましてや人間であれば、なおさらのことではないか」

「今ある命を大事にして、幸せになれるように生き抜くことはなんと大事なことなのだろう」

と、時間をかけてゆっくりと、しかし、深く感じるようになっていきました。

 

そしてこの文鳥は、私よりも早くこの世を去ることは明らかでしたが、その間に最大限愛情を注ぎ、

やがてこの世を去るときにひどく悲しむことになろうとも、「その悲しみが、それだけこの子を愛した証になるんだ。その悲しみが、この子が生き抜いた証になるんだ」と考えるようになりました。

 

私は、その文鳥に「IM」という名前をつけていました。

飼い始めた当初は文鳥の名前などどうでもいいと思い、アルファベットを並べて適当に2文字を選んで付けたので、意味や由来は全くありませんでした。

 

その後、IMの存在はとても大事なものとなり、

「ただ愛されるだけのために生まれてきて、実際に愛され大事にされ、幸せいっぱいになれるよう小さな存在ながら毎日頑張って生きる」IMのようになりたいと思い、ブログを始めるときにその名前を拝借しました。

 

実際今も、人は本来であればそのように生きるべき、そのように生きられるべきではないかと思いますし、

少しでもそうした姿に近づきたいと思って毎日を過ごしています。

先回は本論から少しずれたかもしれませんが、

最後に、「神の存在」について自分がどう考えるか書いておきたいと思います。

 

すでに書いた経験を通じて、私は、「神などいない」という確信を持つようになり、その確信は現在のところ変わりません。

 

【まずはエホバの証人の教える神についての考え】

 

自分がエホバの証人の教える神を信じない理由は非常にシンプルで、それでいて、決定的なものだと思っています。

 

どこかに愛情あふれる親がいて、その親の決断は論理的に常に正しいとします。

もしそうだとしたら、どのような理由があってその親が、自分の小さな子供が飢えて衰弱し、食べ物を求めるのにさらにその子に自ら苛烈な暴行を加え続け、その子が苦しみながら絶望のうちに死んでゆくような事態を引き起こすことがあるでしょうか。

 

しかし私は、現実にそうした子供の死が、世の中で、いくつもいくつも起きていることを見てきました

 

もしも全知全能の神がいて、しかもその神が愛情あふれる神、論理的にも倫理的にも絶対に正しい神なのであれば、どのような理由があるからと言ってそのようなことを許すのでしょうか。

 

もしもそのような神がいるとして、どのような理由があるからと言って、

極めて悲惨な死を経験する人たち、その周りの人たちの想像を絶する苦しみや悲しみが存在するのを許すのでしょうか。

 

どのような理由があるからと言って、

生きたまま体を切断される死、

生きたまま焼かれて絶命する死、

凄まじい暴行やおよそ最も恐ろしい凄惨な経験を長時間味わわされた上でそのまま最終的に迎える死、

或いは感情的にも精神的にも絶望し果てて自ら選ぶ死、

そしてそれらの悲劇的な死に伴う「残された人たちの果てしない悲しみ・苦しみ」を許すのでしょうか。

 

そうした「圧倒的な現実」に現に直面した者にしか、なかなかわからないと思います。

そのようなことを許す理由があるはずがありません

 

エホバの証人について言えば、彼らはこれらについて「答えがある」と教えます。

 

・エホバ神は命を持つ喜びをほかの者と分かち合いたかったので、天使たちを作り、動物を作り、人間を作ったと教えます。

・エホバ神は絶対に正しく、「神が絶対に正しいと自らの選択で選ぶものだけ」の崇拝を望んだと教えます。

・あるケルブと、それにそそのかされた天使たちとアダムとエバが、その自由意思を誤用し、自ら罪と悲しみ・苦しみを招いたと教えます。

・このようにして持ち込まれて失われた完全性と命は「誰かにより贖われないといけない」ので、イエスキリストが地上に来て、苦しみ抜いて死に、そのおかげで「イエスの血」に信仰を持つ人だけが救われることになった、と教えます。

・このようにして人類に苦しみと悲しみが入り込んだが、贖いに信仰を持つ人たちは、死んでもやがて復活し、永遠に生きられると教えます。

・これが答えだと教えます。多くの苦しみを経験した人がこの教えで慰めを得た、と教えます。

 

私にしてみれば、こんな教えは人を馬鹿にした全くの戯言で、一切耳を傾けるに値しないものであるとしか言いようがありません。

 

まず第一に、このような教えは、この宗教に所属する人の大部分が、「真の凄まじい苦しみの現実、真に凄まじい悲しみの現実」を知らないから教えることができ、信じることができる、あまりにも薄っぺらい詭弁であるとしか思えません。

世の無数の人が直面する絶望、凄まじい苦しみ・悲しみは、それと現に向かい合った人であれば、「将来復活するから」というようなあまりに浅い教えでは到底説明などつきようがないものではないかと感じます。

 

もちろん、自分自身がそうした経験を現に経てエホバの証人教理を信じるようになる人も相当数いるかもしれません。

確かにそれこそが「信仰の自由」です。

ただその人たちでさえも、果たして、これまで自分が指摘してきた「エホバの証人教理の決定的な間違い」「エホバの証人組織の決定的な偽善」を知ったうえでなお、純粋にこの教えを信じ続けているのでしょうか。

 

また、全知全能で全く正しく、愛に満ちて最初から「完全な被造物」を作れた神が、

・「真に自らの意思で崇拝するものだけを望んだ」

・「そのような選択をする機会を与えるために罪や死や悲しみや苦しみが入り込む余地も作った」

・「そのことによりこの世に無数の想像を絶する苦しみや悲しみが生じた」

・「それをなくす為に自らの一人息子が地上で凄絶な死を遂げることが必要だった」

という教えは、そもそもにおいて矛盾に満ち、論理破綻しており、マトモな人としての感覚があれば、どう考えても理解不能な論理としか言いようがありません。

 

こうした理由から、私は、エホバの証人が教える「エホバ神」などいないと信じています

 

【ほかの宗教の教える神】

 

また、どのような宗教が教えるどのような神について考えても、「神などはいない」と信じています。

 

・ほかのキリスト教が「神」について何を教えているのか詳しくは知らないのさですが、

およそ多くのキリスト教系宗教は、だいたいが「愛があり、慈悲深い神」を教えるのではないでしょうか。

また、何か特定の宗教が教える神でなくても、多くの人は「神」といえば、創造者で愛のある存在という前提のイメージを持っているのではないでしょうか。

 

そうであれば、上に書いたと同様の理由で、そうした神がこの世にいるはずがないと思います。

 

・キリスト教以外の一神教で「絶対神」を教える巨大な宗教もありますし、そうした宗教は「情け容赦のない神」の存在を教えることもあります。

「情け容赦のない神」であれば、ある意味いるのかもしれませんが、同時にそうした宗教もまた、「神が是認する者の復活を教える宗教」であり、そうした点で同じくすでに書いた通りの理由でそうした神は自分は信じていないです。

 

もう少し言えば、一神教の宗教は、古くはユダヤ教から派生している場合も多く、結局のところ、「エホバの証人が教える神」と同じ理論が当てはまるように個人的には思っています。

 

・仏教も詳しくはありませんが、不合理で情け容赦のない現実を前に「ただ神に信仰を持ち、それにすがれば救いが得られる」という仏教の教えは「現実路線に合っている教え」であると感じます。

しかし、だからこそ、現実から逃避し人を精神的に助けるために(あるいはその精神的救いによる統率力を原動力にして広範囲に存在する様々な人たちを効果的にコントロールするために)人が考え出した「発明」・「装置」・「人為的救済手段」の1つであることが明らかでしょうし、何よりもそうした類の神や仏を信じる何らの合理的理由もないので、そうした神は信じていません。

 

・ヒンズー教や神道のような多神教は、そもそも信仰する対象が「神」いえるのかどうかも判断が分かれるところですが、

こうした多神教への信仰は、「自然への信仰や、或いは、自然とどう付き合うかの古代からの知恵が集約されて神話化されたもの」、或いは、「その宗教が信仰される現地で多用される薬物(ようするにマリファナとか)の影響を受けて考え出された支離滅裂な話」としか思えないものが多く、やはりそもそも信じる対象にならないです。

 

また、こうした多神教への分析は、私などが何かを書かなくとも、文化人類学などで議論されつくしているのではないかと思います。

(自分はそこまで入り込んで勉強したわけではありませんし、現在のところそのような勉強をする時間も意思もないので、その程度の感覚で自分の一生は終わるのだと思います。)

 

【結論として言いたいこと】

 

非常にダイレクトに、有体な言い方をしてしまえば、もしも自分が一般的な日本人として育っていたら、最初から神など信じず、神のことなど考えなかった可能性が非常に高いと思います。

そして多くの人もそうではないかと、自分は思います。

 

そう考えると、エホバの証人に関わった人というのは、この宗教の個々の教えの虚偽に気づき、それを全く信じていないとしても、「神がいて、神により命や秩序が発生した」という、より大きな概念が、頭と心に無意識にまだ残存しているということはないのだろうかと、よく考えます。

無意識に、まだエホバの証人の頭の支配が続いているという可能性はないのだろうかと、よく考えます。

 

例えば、ラテンアメリカの人は皆一様に信心深いですが、ラテン文化の典型である「キューバ」の人で神を信じる人はあまりいませんし、ほかのラテンの国と比較するとその違いは著しく顕著です。それはこの国が緩い社会主義を採用していて、国民が小さい時から、宗教を教え込まれる環境とは無縁で育つからであることは明白と思います。

東南アジアの多くの国でも、神を信じない人は多いです。仏教は生活の一部になっていますが、さりとて神を信じているかというと、神についてなど考えもしない、本気で考えることなどないという人は非常に多いです。その一方で、同じ東南アジアでもフィリピンの人たちは神についてよく言及しますが、それはこの国が東南アジアで唯一カトリックの国だからであろうと思われます。

 

こうしたことを考えると、人は教育や環境により、その人生観や神についての感覚を、ゆっくり時間をかけて、無意識にうちにしかし非常に強く心の中に植えこまれてゆくので、その受けた教育・環境の影響は非常に大きい反面、最初から神についての考えを「外部」から植えこまれない限りはそうそう神を意識する人は本来いないはずというのが、実際のところなのではないかと考えます。

 

こう書くことにより、神を信じる人の気持ちを否定する意図は毛頭ありません。

神を信じることは、それにより人に危害を加えない限り、誰でも自由なことでその気持ちは尊重されるべきであると思います。

 

他方で、神を信じないという考えを持つこともまた自由です。

そして何より私が気になるのは、「エホバの証人はやめたけれども、心どこかでエホバ神がいて、いつかハルマゲドンで自分が滅ぼされるのではないかという漠然とした恐れを何年も何十年も持ち続ける人がいる」という現実です。

また、「漠然と神がいて、人間社会とは別のもっと大きな価値観みたいなものがあり、さらには死んだ先にも何かあるはずというはっきりしない心の奥底の発想」が残存しているがゆえに、「今ある自分の人生の価値、意味についての鋭い認識」を欠き、「自分の力で自分の生活をコントロールし、自分の力で自分の幸せを実現してゆき、そういった形で自分の人生を生き抜く」という感覚が鈍り、エホバの証人をやめた後にも、その残存した感覚により何かを失うことがないのだろうか、という点です。

そうしたことを考えると、世の中の真のリアルな現実に目を向け、「神はいないという確信」を言い切ることには意味があるのではないかと考えています。

 

いずれにせよ、一番最初の話に戻るならば、

エホバの証人を抜けた後も、私には、

「どこかにキリスト教の教える神のような存在があるのかもしれないし、ないのかもしれない」

というぼんやりした考えのままでいた時期がありましたが、その後の経験を経て、「神はいるはずがない」との結論を自分で出し、

そしてその結論は、今も変わりません。

 

※続きを次に書きます

 

「無数の人の死」に直面することにより再度感じた、「エホバの証人教理への考え」について、最後に「輸血拒否」について感じたことを書きたいと思います。

(※今回の話は、テーマが輸血であるので、話があちこちに飛ぶかもしれませんし、やや本論から外れるかもしれません。)

 

③「輸血拒否」について考えたこと

 

ⅰ.一般にみられる傾向

 

法医学の世界を見ることで、私の世界観というか日常の物事についての考え方は変わりました。

 

当たり前のことかもしれませんが、世の多くの人は「人がいかにあっけなく死ぬか」「実際に人の不慮の死が生じるときに、その現実がどれほど悲惨で、残された人にどれほどの深刻なダメージを与えるか」あまりにも意識していないと思います。

そして、いざそれが生じるとき、その困難に耐えることは非常に難しいものです。

 

交通事故は非常にわかりやすい例です。

多くの人はニュースで「今日、何県何市で事故があり、何々さんが死亡しました」というニュースを見たとしても、本当に単なる一情報として、ほとんど特別な注意を払わないと思います。

しかし、実際の交通事故によるご遺体は、体が完全に切断されてしまったり、挫滅により原型をとどめていなかったり、車内に閉じ込められたまま外に出れずに焼け死んだり、悲劇という言葉では到底表現しきれないような痛ましさの極みというべき状況がそこに発生します。

そうしたいずれの現実ケースも自分は実際に目にしました。

 

自分が修習中に配属された裁判所の裁判長がぽつりと言った「過失は容赦がない」という言葉を忘れたことがありません。

 

人が人を殺意を持って殺害するとき、多くの場合は、攻撃者も所詮は人間であるため、攻撃の程度・方法には一定の歯止めが無意識にかかりますし、殺害手段も所詮は人一人が扱えるもの(刃物・銃器など)になりますので、被害者の人体が著しく損壊されないことが多いです。

しかし、「過失による事故」の場合、多くは自動車や工業用機械などの、非力な人間とは比較にならない圧倒的に強い力により人体が傷つけられ、しかもその際には加害者側は事故を起こしていることに気づかない、事故が起きるとは考えていない場合ばかりですので回避措置がなされず、結果的に被害者にとてつもない力が容赦なく加わって死を引き起こし、想像を絶する凄惨な状態をもたらすことが多いです。

 

そうした事実を何度も見てきたその裁判長は、そのような意味で「過失は容赦がない」という表現を使っていました。

 

私は、本気で、自動車教習所や免許の更新時の講習で交通事故の現場の写真を見せる教育をしたほうが良いのではないかと思います。

普段、何の気もなしに行っている日常の動作が、一歩間違えばどのような結果を引き起こすのかを知り、そしてその結果は決して取り返しがつかないということを知れば、多くの人はきっと自動車の運転や機械の使用、そして歩行時の注意の仕方が格段に変わるのではないかと思います。

 

いずれにせよここで言いたいことは、多くの人は「危険が現実化した時」のことはほとんど考えず、或いは想像すらつかない状態で、日常生活をしているという点です。

 

ⅱ.「輸血拒否」についてのエホバの証人の姿勢

 

転じてエホバの証人について考えるとき、こうした「危険が現実化した時」のことはほとんど考えないという姿勢は、

とりわけ「輸血拒否」に対する彼らの一般的感覚において、

より著しく信じがたいほどにいい加減なレベルで見られるとつくづく痛感するようになりました。

 

■輸血拒否についての一般信者の感覚

 

そもそもにおいてエホバの証人たちは、その教理が「虚偽に立脚している」こと自体知らず、その点を調べることすらしないわけで、まずはそこからしてある意味、途方もなけいい加減なわけではありますが、

その中の「輸血拒否」というこの異常な教理についても、その危険性・それが意味する「現実」を全く意識せずに、あきれ果てるほどに適当に自分と自分の周りの人の命を危険にさらしていると改めて痛感するようになりました。

 

・まずほとんどのエホバの証人は、上に書いた通りそもそも「なぜ輸血を拒否しないといけないのか」その聖書的根拠は特に考えず、ただ単に「組織が言うから」「長年の確立した教理だから」というだけの理由で「輸血は拒否しないといけない」と盲目的に信じ込んでいるのではないでしょか。

 

・そして、これは本当におそろしいことですが、毎年定期的に、集会の時に、組織の指示そして長老や周りの証人の強い勧めのままに「医療に関する継続的委任状」という、ものみの塔協会が勝手に用意した書面にサインするのではないでしょうか。

その中に書かれている内容は理解せずに、特にその重要性や意味を何も考えず「サインしないといけないものだから」というだけの感覚でそこにサインするのではないでしょうか。

 

何が恐ろしいかといえば、その「ものみの当協会が勝手に用意した紙」は、親族でもなければ弁護士でもない、さらにはおそらく代替医療措置について何の理解も最低限の知識もないような人を適当に「代理人」として選び、その代理人が、自分についての医療選択についてすべて決断できる・医療記録もすべて入手できる・法的措置もとれると書かれていることです。

 

これは、一法律実務家の視点から言えば、「考えられないような無茶苦茶な書面」としか言いようがありません。

さらに言えば、そうした状況で、そうした書面に、若い人・エホバの証人になって間もない人・妊婦・持病を持つ人などが「周りからの圧を受けながら、或いは相互監視に近い状態で」皆が皆サインする状況が作り出されていることです。

 

・さらにエホバの証人がメチャクチャで恐ろしいのは、「今は代替治療があるから輸血拒否をしても大丈夫」という漠然とした考えを彼らは持っていないでしょうか。

「アルブミン製剤、グロブリン製剤、血漿増量剤などがあるから」とそれらしいことを組織から教えられ、それらが一体何で、一体どういう効果があるのかも全く理解せずに「こうした代替治療があるので、輸血を拒否するがゆえに死ぬという事態は現在ではほとんど起こりえない」と漠然と信じ込んでいる人も多いのではないでしょうか。

 

・加えて、ほとんどのエホバの証人は「何かあれば医療機関連絡委員会(HLC)の兄弟に任せれば大丈夫。」「HLCが来てくれれば何とかしてくれる」と漠然と信じ込んでいるのではないでしょうか。

 

しかし、これらの感覚は、大間違いとしか言いようがありません。

 

■輸血拒否についての現実

 

・失血死の恐ろしさ

 

大量出血がいかに恐ろしいか、そしていかにして突然起こりうるか、ほとんどのエホバの証人は全く理解していません。

 

・仮に、頸動脈が切断された場合、或いは、頸動脈と椎骨動脈が完全に遮断された場合、つまり「脳への血液供給が完全停止」した場合、人間ははまず5秒程度で完全に意識を失います。そして3分から5分も経過すれば、ほとんどの場合脳死が開始し、それだけで死んでしまいます。

 

・そのようなケースは意図的でない限りはなかなか起こりえず、ほぼ即死と表現してもよい事態ではありますが、それ以外の日常によく起こるタイプの大量出血があった場合、大人であれば1.5から2リットル程度、つまり大きめのペットボトル1本分の出血があれば失血死します。子供であれば1リットルの出血で失血死します。

 

・そして、失血死の恐ろしさは、大量出血はいろんな要因で起こり、かつ、その要因は日常のいたるところに存在するという点です。

交通事故はもちろんのこと、妊産婦の死亡理由の4割程度が出血死というデータもあります(しかも出産時だけでなく、妊娠初期・中期にも大量出血の危険は十分にあります)。十二指腸などの体内の上のほうにある消化器官に潰瘍や傷があり、長時間にわたりゆっくり出血が続いていた場合などは、本人が全く大量出血の自覚がなく「何かフラフラするから」と医者に診てもらったら、あまりの大量出血が進んでおり輸血をしなければ手の施しようがない、ごく短時間のうちに失血死してしまう、というような事態も起こります。

 

 多くのエホバの証人は、現実にそうした事態がいつでも自分や家族に起こり得ることを考えていません。

 

・「代替治療」なるものの意味

 

エホバの証人組織は「輸血にかわる代替治療がある」と殊更に強調し、信者を安心させようとします。

すでに書いたように、彼らは「血漿増量剤、アルブミン、免疫グロブリン」などがあるのでそれを受け入れれば「輸血をしないで済む」かのような印象を作り出します。

 

しかし、上述したような緊急の大量出血の事態が起きたとき、「救命のためには輸血しかなく、そのような代替治療は救命という意味では全く何の意味もない」、つまり「輸血をしなければ死ぬ」という状況はざらです

 

エホバの証人の中で、「代替治療なるもの」が持つ意味を理解している人はどれほどいるのでしょうか。

 

・免疫グロブリンは、免疫疾患や特殊な感染症に対して使われる製剤で、大量出血時の治療とは何の関係もありません。

 

・血漿増量剤やアルブミンは、出血時の血漿量、言うなれば水分部分を補うことが目的です。

確かに大量出血時にはまずは血漿量を確保することが最優先になりますが、それは血漿量を確保した後に「赤血球」が輸血されヘモグロビン値が劇的に回復することを前提にしています。

血液の最大の作用は赤血球が人体の全器官・全細胞に酸素を供給することであり、赤血球の補給がないまま血漿量(水分)だけが維持された場合、酸素供給機能を持たない薄い液体が単に体内を周るだけになり、酸欠により次々と脳機能損傷や多臓器の不全を引き起こしていきます。

また、無駄に血漿量だけが維持された場合、血圧が低下しないため出血量は逆に増え、赤血球がさらに失われていく結果にもつながります。

 

そして、エホバの証人は、その最も肝心な赤血球の輸血は禁止しています。

 

こうして考えると、エホバの証人の個々の信者がいかに無知な状況に置かれているか、恐ろしい状況であるとしか表現のしようがありません。

 

・医療機関連絡委員会の現実

 

緊急の輸血拒否事例が起きた場合、当事者のエホバの証人は真っ先に医療機関連絡委員(HLC)に連絡し、HLCの兄弟たちもすぐに病院に駆けつけるのではないでしょうか。

 

エホバの証人は、HLCに任せれば大丈夫と固く信頼しているでしょうが、実際に彼らに何ができるというのでしょうか。

医療機関連絡委員が病院に来たところで、上述したような「輸血以外に救命手段がない」ケースの場合、彼らに何ができるのでしょうか。

 

個々のエホバの証人は、彼らが何か素晴らしい専門知識に基づいて救命可能な代替治療について医師に説明し、医師がそれを選択することで自分や自分の家族の命が奇跡的に救われるかのようなイメージを抱いてはいないでしょうか。

 

しかしながら、彼らが伝える「選択可能な代替療法」など、すでに述べたとおり、真に輸血が必要とされる緊急の場面では、最終的な救命には何の役にもたたないものばかりです。輸血以外に救命手段がない一刻を争う時に「インターフェロンはOK、透析はOK、免疫グロブリンはOK」というようなことが書かれた紙を彼らから渡されたところで、何の意味があるのでしょうか。

 

結局のところ、彼らが提供する情報は「救命に決定的に必要なものは全てダメ」という結論だけであり、要するに「死んでも輸血はダメ」という結論のダメ押しをしにくるだけではないのでしょうか。

 

唯一彼らが役に立つとすれば、「輸血なしで治療ができる高度な医療機関についての情報を伝えて、転院による救命を可能にすること」があるとは思います。

 

しかし、彼らの現場での実際の体たらくを知っている人がどれだけいるのでしょうか。

 

私は知っています。

 

実際に私が立ち会ったエホバの証人信者の緊急輸血拒否のケースがありました。

これは、私の親しい親族で現役のエホバの証人信者が大量出血し、「輸血して手術しなければ確実に死ぬ」と医師に言われたケースで、別の非信者の親族から電話を受け「IM、お前はエホバの証人にも無輸血治療にも詳しいだろ!?すぐ来てくれ」と言われたケースでした。

 

その現実の事案では、私が病院に行くと、親族より先に医療機関連絡委員の兄弟たちが病院に来ていました。

 

血中ヘモグロビン値が6/㎗まで下がるとそれだけで輸血が必要になりますが、患者はまさにヘモグロビン値6/㎗台で、緊急手術をしないと失血がとまらず死亡するが、輸血なしで手術すれば大量出血してさらに早く死亡するので、その病院では手の施しようがない。高度な無輸血手術ができる医師が見つかれば助かるかもしれないが、見つかっても望みは薄い、という状況でした。

 

私が患者の代理人になったと伝えると、複数の医療機関連絡委員の兄弟たちから、「無輸血手術の受け入れ可能リスト」から10件以上の病院を紹介されました。

 

私は最初本当に驚き、「これで助かるかもしれない。一縷の望みがでた。医療機関連絡委員会も役に立つんだ」と思いました。

ところが、その全て、本当に全ての病院から「輸血拒否ならば受け入れ不可能」という返事がすぐに来て、呆れ果ててものが言えなくなったことがありました。

 

彼らが自慢げに持っているリスト、「これがあるから安心しろ」と言わんばかりに喧伝しているリストは古いリストで、いずれも医師が転勤したとか、病院の倫理委員会が方針を変えたという理由で、リストに記載されていた全て、まさに全ての病院から受け入れ拒否され、その間に救命に必要な限られた時間が無為に失われるという事態が現実に起き、その場に現に私は立ち会っていました。

 

結局、医師と私が無輸血手術可能な病院を探すのに駆けずり回り、医療機関連絡委員会の情報とは関係ないところで医師が見つかり、救急搬送されて患者は助かりましたが、医師からは、もう30 分から1時間病院を見つけるのが遅ければ、確実に死亡していたと言われました。

 

これが私が本当の緊急の輸血拒否現場で見た、医療機関連絡委員会の実態です。

 

他のケースがどうなのかは知りません。

少なくとも、私が現に立ち会ったケースでは、医療機関連絡委員会だけに任せていたら、その患者は死亡していたと思います。

私は、私がいかなかったらその患者は死亡していたと、今でも本気で思っています。

 

ⅲ.まとめ

 

本論から外れることを沢山書きましたが、言いたいことは次のことです。

 

不慮の事故にせよ、病気にせよ、犯罪にせよ、人が命の危険にさらされる事態というのは、突然にやってきますし、誰の身にも降りかかり得るものです。

そして不幸にもそれにより死という結果が生じる場合には大変な悲劇をもたらしますが、だからこそ、すべての医療関係者・社会全体・人類全体は、必死で気高い努力により、そうした事態が生じることを何とか避けようとしてきたし、今もそうしているのではないでしょうか。

 

それに対し、エホバの証人の教理についてはどう考えるべきでしょうか。

・虚偽に立脚した教理により、「復活」や「輸血拒否」を信者に教え込み、

・「医療に関する継続的委任状」などという紙を「組織側」が用意してこれに署名するよう信者に強く勧め、

・「輸血代替治療」についての極めて表面的かつコントロールされた偏ったイメージを植え付ける情報を喧伝し、

・「医療機関連絡委員会」なるものを作り、それに対する過剰かつ偏った強い信頼を抱かせるように信者を導き、

 

そして、悲劇的な人の死を生み出してきているのではないでしょうか。

 

朝、笑顔で家を出て行った若者が事故に遭い、

希望に満ちて病院に入っていった妊婦が大量出血し、

普段通り元気に一緒に食事していた人が、本人の気づかない内臓疾患による蓄積した大量出血で突然倒れ、

そうした人たちが、輸血さえすればすぐに助かるのにみすみす死んでゆくという事態を引き起こしているのではないでしょうか。

 

個人的には、「医療機関連絡委員会」の実態についても強く指摘したいです。

ケースによっては、「無輸血手術をするための医療機関連携」さえうまくいけば、輸血を拒否する人でも命を救える場合があります。

私は個人的な経験から、この事実に強い衝撃を受けました。

ところが、その「医療連携を専門的な使命として行っている」と誇らしげに喧伝するエホバの証人の医療機関連絡委員会の実態は、少なくとも私が現実に見たケースでは、上述したような状況でした。

 

いったいこれまで何人のエホバの証人信者が、「医療連携の専門家」と自ら名乗る「医療機関連絡委員会」の不適切な対応により、救われるかもしれなかった命を失ってきているのでしょうか。

いったい何人のエホバの証人が、これから先、将来も、自分たちがよくわからない状況で過度の信頼を寄せる「医療機関連絡委員会」の不適切な対応により、救われるかもしれない命を失ってゆくのでしょうか。

 

とにかく、エホバの証人及びこの団体に関わる全ての人は、

人の命の意味、そして、エホバの証人教理が人の命そのものに与える影響につき、その現実を見据えるべきであると思います。

とてもたくさんの方からアメンバー申請をいただいておりまして、

大変ありがたく感謝を申し上げるとともに、

以前お伝えした点を再掲させていただきます。

 

つい最近まで私は、自分の人生を赤裸々に伝えることこそが本当の真実を伝えるのに必要と考え、すべての記事を「全員公開」にしてきました。また、それまではアメンバー申請をいただく場合には、無条件で一律承認してまいりましたし、もとより全て「全員公開」でしたので、記事をご覧いただくうえではアメンバー申請をいただく必要もなかった状態でした。

 

先般、思うことがあり、ごく一部の記事を「アメンバー記事設定」に変更しました。

これに伴い、大変失礼とは思いながらも、その際にそれまでのアメンバーだった皆様を、一律解除させていただきました。

 

このように決めたのは、私がブログで言及する方たちへの感情にも配慮すべきであると考えるようになったことが最大の理由です。

(なるべく「アメンバー限定記事」は書かないようにし、ごく一部の限られた記事だけにしたいと思ってはおります。)

 

※つきましては、誠に申し訳ありませんが、すべての申請いただいた方を無条件で一律承認することもしないことにしました。

 

※お手間をかけて大変恐縮なのですが、アメンバー申請をいただく場合、

 

1.大体で構いませんのでご自身のJWとのこれまでのかかわりと、今のお立場・JWへのスタンス、考え方

2.同じく大体で構いませんので、ご年齢・性別・お住いの大まかな地域(お伝えできるとお考えになる範囲で構いません)

3.このブログへの感想や考え(批判的なものであっても全くかまいません。批判的なほうが逆に当方には有益な場合も多いです。)

4.その他、当方の個人的な内容をお読みいただいても大丈夫そうな事情が何かあればその事情(特になければ結構です。また、「IMと知り合いですよ」という場合は、逆にそのほうが嬉しいのでその旨お知らせいただきたいです。)

 

以上をメッセージでお書きいただいたうえで、アメンバー申請に添えていただけないでしょうか。

※もともと互いにお知り合いの方・すでにメッセージ等で上記の点についてやり取りさせていただいている方は、当然、申請のみで結構でございます。

 

お手間をおかけして申し訳ないと感じております。

 

また、これまでアメンバー申請くださった皆様から、たくさんのメッセージをいただきながら、まだ、皆様全員に返信できておらず、その点も大変に心苦しく思っております。

時間をとって返信差し上げようと考えておりますので、お待ちいただければ幸いです。

 

以上、どうぞ宜しくお願いします。

 

追記:なお、こうしたお願いをするそのほかの主な理由は、「エホバの証人を単に研究対象にしている」という一般人の方や、「元エホバの証人をほかの宗教・ほかの活動に勧誘したい」という方は、なんとなーくご遠慮願いたいとか、そういうような個人的な感覚からの理由からであります。

あと、アクセス数が数万に行くときなどに、ほかの全然まったく関係ないブログのブロガーの方から「相互アクセス向上目的だけ」で機械的にアクセスが来るのですが、それはそれでいいのですが、JW関係の記載がないので「そういう機械的なブログアクセスだろう」と思ったら実は中の人がバリバリJW関係者だったりして、やりとりすさせていただく機会を負う意識に逃してしまったりすることもあるので、そういう誤解を回避したいという理由とか、そういう理由もございます。