テレビのこれから | 遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」

テレビのこれから

 古い話になるが、3/21に放送されたNHKの生放送番組「日本の、これから」~テレビの、これから~に出演した。残念ながら、番組の構成上1人1人の発言が不十分なのは否めなかった。そんな中でも遠藤は発言チャンスに恵まれたと思うが、折角なので改めて番組の構成に沿って、テレビに対する意見を書いてみようと思う。


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◆テレビ(放送)は茶の間の主役であり続けるのか?
 A、続けない


 まず核家族化、住宅事情の変化によって茶の間の存在自体が怪しいという前提がある。ただし、茶の間がリビングルームに変化しても、そこに家庭で一番大きいディスプレイがある、というのは変わらないだろう。問題はそこに表示されるコンテンツがテレビ放送のみではあり得ないということだ。
 またテレビ自体が一家に1台という旧態然とした認識はおかしい。遠藤の自宅には8台のテレビ受像機があり、それとは別に携帯電話を含めワンセグが視聴できるデバイスが6台ある。さすがに仕事柄もあって、一般家庭の平均よりははるかに多いだろうけど、もはや一人1台以上時代に突入しているのではないか?


 放送時間が決まっているテレビ放送が、こちらの都合を合わせて欲しいなどというのは、80%以上の視聴率を取れる番組が存在できた過去の幻想に囚われて、いつまでもエリート気分のテレビマンの奢りだろう。「笑点」「ちびまるこちゃん」「サザエさん」、19時台のバラエティやニュース、大河ドラマ、と日曜の夜は茶の間で一家団欒テレビ放送を見ているなど、どれだけ昭和な家庭だか(笑)。ちなみにここに挙げられた番組、遠藤家では全てどこかのHDDに録画されていて(中には複数録画されているものもある)、家族それぞれが見たい時に見る。
 遠藤家はリビングダイニングなので、日曜の20時あたりに一家で夕食を一緒に取る時などは、ちびまるこちゃんやサザエさんをテレビで流していたりはするのだが…。食べ終わって気が向いたら、速攻Wiiに切り換わる運命かな(笑)


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◆今のテレビ番組は面白いか?
 A、面白い


 深夜枠などを中心として、コンテンツとしての多様化と細分化がなされたり、ドラマやアニメなどが昔にに比べ、1クールや2クールで完結するようになって密度が高くなっている。もちろんデジタル編集やCGなどを中心とした制作技術の向上もあるし、出演する側の層の厚さもある。コンテンツとしては確実に面白くなっていると遠藤は思う。

 コンテンツと呼ばれるモノの宿命として、遠藤は「14歳時体験コンテンツ最強説」を唱えている。多くの人にとって、14歳を中心とする多感な時期に触れたコンテンツが、人生で最も優れたコンテンツとして刷り込まれてしまうという仮説だ。これは「昔の○○は面白かった。今はつまらないね」的な発言となって現れる。「今の」テレビ番組は面白いか?と聞かれたら、よほどコンテンツをきちんとした観点で見れる人でない限り、面白いと感じるわけがない。
 では本当に昔のコンテンツが面白かったのかというと、時代の流れの中で相対的に面白かっただけであって、今の14歳に同ジャンルの今のコンテンツと比べ見てもらうと、ほぼ例外なく今のコンテンツの方が面白いと感じる。実は新しいコンテンツの面白さが理解できなくなるのは、極論すればエンタメ嗜好的に老化の始まりなのではないかとさえ思えるのだ。

 さりとて、遠藤も手放しに現状のテレビ番組が面白いとは思っていない。最近は放送事業以外に売り上げを立てなければならないのか、番組の本来の方向性とは異なる内容に逸脱して物販やイベントの告知の如くなっていたり、司会者の専横が目に余る物もある。とはいえ、現代の技術だからこそ撮影が可能な映像を、良質のコンテンツとして提供してくれるのは、やはりテレビ番組なのだ。


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◆テレビ(放送)は視聴者のニーズに応えているか?
 A、応えている


 視聴者のニーズを表す指標として「視聴率」という数字が存在する。これは正確に視聴者のニーズを満たしているか?、直接番組を視聴している人の数と一致しているか?、視聴率に表れないサイレントマジョリティは存在しないのか?という曖昧さを持っていることは疑いのない事実だ。だからと言って「視聴率を追い掛ける番組作りは、実際には視聴者を無視している」というのは論理の飛躍だ。
 視聴率という数字がどんなに曖昧であっても、許容できる誤差内で、相対的には、ニーズを表しているものと見なしても問題ないと遠藤は考える。だから、テレビ番組制作者が視聴率を意識して番組を作り、それが高い番組には大きなスポンサーが付くという仕組みで、ある程度以上は視聴者のニーズに応えられると思うのだ。


 ただ「視聴率」は冷たい数字である。NHKの受信料を払っていたとしても、テレビ放送は無料という意識が根底にあり、見てもいないのに点いている1台も、番組が始まる前からワクワクしながら見ている1台も同じに扱われるのだ。そういう意味では、コンテンツの内容としての評価と同一ではない。
 コンテンツにはそれぞれ熱狂的なファンがいる。いないようでは商業的に成り立たないわけだが(笑)。有料であれば、このようなファンは有料チャンネルにもお金を払い、パッケージとなっても同じコンテンツをメディアごとに買ってくれる。深夜枠のアニメなど、テレビ番組の多様化は、このような少数のロイアルユーザーのニーズに、的確に応えているとも言えるだろう。


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◆テレビ(放送)は信頼できるのか?
 A、信頼できないところが多い


 テレビが最も信頼できる部分、それは生放送だ。特に今起こっている事件などは、生の映像に勝る説得力は他にないだろう。逆に編集の可能性があるものは、作為が加わっていることを否定できない。という意味で、NHKが「日本の、これから」というかなりコントロールの難しい番組を、生で放送していることは有意義だと思うのだ。
 生放送でもカメラ切り替えが神だったり、聞き手の誘導が上手なら作為的な内容を作れるのは否定しない。それ以上に、編集が加わったメディアには作為があって、見る立場によっては信頼に値するとは思えないのだ。


 遠藤が実際に取材を受けた番組で「匿名掲示板に書き込む人は最低だ、という意見もありますが…」というコメントをしたところ、前半部分だけ編集して使われたことがある。その番組は最初から「匿名掲示板は社会悪だ」という趣旨の番組作成をしていたのだろう、けれど番組スタッフが、取材先に趣旨を説明するようなことはほぼない。週刊誌などでは日常茶飯事となっているこの手のテクニックだが、映像として見るとより説得力が大きい。


 「テレビ番組は作為があるから、ネットの情報を信頼する」という意見もあるのだが、これも自分が発信源になれる媒体だから贔屓目になっているだけで、遠藤はテレビ以上に信頼できない。特に「Wikipedia」というサイトを盲目的に信じている人はイタい。
 ネットの情報は引用が容易であるがゆえに、デマの増殖・伝搬も早い。Wikipediaは編集することができるので、そんなデマを信じて親切心から「この情報漏れているな」と誰かが書き込めば、あるいは悪意を持って捏造すれば、それを信頼できる情報として引用する人が現れ、「テレビよりネットの方が信頼できる」という偏った考えの方たちを釣ることができる。
 ちなみにWikipediaの「遠藤雅伸」の項目には次の記述がある。
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学校コントの中で「先生の名前は是美臼(えんどうまさのぶ)です!」というギャグを繰り広げる。このギャグは台本に書いてあったものだが、その後の講演会などで自身の持ちネタとして披露する事もある。
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 もちろん台本に書いてあるわけもなく、遠藤がアドリブでやったことだし、そのネタはそれが最初で最後。あまりにウソが過ぎるので、遠藤自ら変更したのだが、荒らし行為と見なされて情報は復元された。

 結局、テレビも新聞もネットも、情報の信憑性は見る人に委ねられるものなのだ。誤解のない世界は存在しないのかも知れない、ちょっと残念。


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◆最も印象に残っているテレビ番組は?
 A、9.11同時多発テロのニュース


 番組の中でも言及しているが、仕事中にPCのメッセンジャーで「テレビ見てます?」というメッセージが来て、手近のテレビを点けたのが最初。悪趣味なCGドッキリのような映像が信用できず、事務所にあったテレビを集めて(ビデオゲームを開発していると、番組は見ないけどいっぱいあるのだ)、全チャンネル視聴体制を作った。
 なので2機目が突っ込んだのはライブ映像で見ていてショックだった。知り合いであのビルにオフィスがある人がいたから、しかも新婚さんだったので。でも、この情報をリアルに伝えたのは、やはりテレビの説得力であり、百聞は一見に如かずの通り、映像の持つ情報量の多さに負う部分がある。

 国際的スポーツの試合などは、時差の関係から勤務時間中に行われることも多い。まさかテレビをつけて、見ながら仕事というわけには行かないが、最近はネットで途中経過を時々刻々伝えるサービスもある。サッカーの試合とかだと、ゴールシーンは稀なので、こんなサービスでも十分だったりするのだ。
 先日WBCの試合が行われている時は、日本選手が打ったシーンなど、数百人いるオフィスの中のそこここで「よしっ!」「やった!」とかの声が上がった。今は携帯にワンセグテレビが付いているので、デスクの横で受信しながら仕事をしている不届き者が随分居たみたいだ。結局決勝戦の最後は、諦めて皆で応援したけどね(笑)

 このように、即時性の高いテレビ(放送)は視聴スタイルを変えながらも、今起こっている事実を知る手段としては、現在最高のメディアだと思う。動画コンテンツなど普遍性の高い物もいいが、歴史上の出来事の瞬間を見ることは他ではできない。ただし、その経路に関しては、ネットワークのストリームでも全く問題ないのだが・・・。


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◆あなたはテレビ離れしていますか?
 A、している


 ここで遠藤が「テレビ離れ」というのは、「テレビ番組の放送時間」離れと言い直すのが適当だろう。HDDレコーダー出現とともに、ビデオデッキがどんどんリプレイスされ、現在ではメイン3台サブ3台のHDDレコーダーを使っている。結果として、テレビを全く放送時間に見ることがなくなった。見たい番組は録画しておいて、内容に合わせて時間短縮や多重視聴しながら見るから、むしろ「見る番組」は増えているだろう(笑)。
 しかし、この状態はテレビマン的には「テレビ(放送)」を見ていないことになる。最大の根拠は視聴率にカウントされない見方だからだ。現在の広告モデルによる民放のビジネスは、HDDレコーダーによって揺らぐ。皆が放送時間の縛りから逃れたら、CMを見ることはなくなってしまうだろうからね。


 テレビ(放送)を見なくなった原因として、「ニーズに応えていないから」という理由が挙げられていたが、これは時代による変遷と見ていい。テレビ放送が始まってから現在に至るまで、アナログ放送ではたかだか7つ程度しか選択肢がない。生まれた頃からテレビもゲームもある世代にしてみれば、選択の余地がないメディアと感じるだろう。逆に、リテラシーが高く経済的に恵まれていれば、ケーブルテレビやCS放送などで充実したコンテンツを満喫しているのかも知れない。


 テレビ(放送)に対する文句は「コンテンツは無料で見れるもの」、というテレビが自ら作り上げてしまった常識に立脚した意見に思う。製作費を広告で賄っているのに、広告効果が低下している現在、無料のコンテンツを求めてユーザーが移動するのは、民放が取ってきた広告モデルが両刃の剣となってしまっただけという気もする。


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◆なくてはならないメディアは?
 A、インターネット


 これは新聞、テレビ、ネットの三択だったわけだが、新聞とテレビは単方向性のメディアであり、はっきりとした作り手が存在する。この作り手の意識というのが、時代の流れの中で受け手との間のギャップを生んでいると思うのだが…。


 まず新聞。新聞を作っている人たちは自分たちが「メディアの雄」「報道の雄」という意識が高いのではないだろうか?それに対して、テレビの人たちは新聞に対して自分たちが「新しいメディア」であり、「新聞はもう古い、今のメディアの雄はテレビだ」とか思っていそうだ。
 このアンケートに対し、全体では

 1位テレビ(40%)

 2位ネット(20%)

 3位新聞(18%)

になるらしいが、年齢を区切って16~29歳で見ると

 1位ネット(54%)

 2位テレビ(33%)

 3位新聞(10%)

だと言う。若い世代では「メディアの雄」という言葉自体が死語かも知れない。この結果は、自分たちが親しんできたメディアを重要視していると想定できるので、今後、次のメディアが誕生するまで、ネット比率は増大し、テレビは減少、新聞は壊滅すると予想できる。
 リクルートが「タウンマーケット」という地域限定の無料宅配サービスをやっているが、これは1週間のテレビ情報誌に地域のチラシ1週間分を付けたものを配布するもの。情報の即時性、多面性で他のメディアに勝てなくなっている新聞だが、このサービスを受けると、後はテレビとネットで補完できてしまうから、新聞が要らなくなるに違いない。もっとも地デジの番組表があれば、テレビ情報誌自体の存在も不安定なんだけどね。


 次にテレビは単方向メディアながら、その共有性が高い。しかもコンテンツの制作能力はずば抜けている。問題は視聴時間が限定されてしまうということで、これをオンデマンドでやってくれれば良いという夏野氏の意見には賛成、でも機材やネット回線の問題があって、広告モデルと言えども「無料」ではないんだけどね。となると、HDDレコーダーを使って自分オンデマンドにシフトするのが効率良い自衛策。
 現在の放送という形では、ニュースやスポーツ中継などの生放送を除くと、コンテンツメディアとしては利用者の利便性が低くなっていると、若者は判断しているんだろうね。


 そう判断する物差しになったのがネットだろう。ネットは、双方向のメディアであること、一部の限られた人間だけがコンテンツを発信するわけではないこと、という2つの特徴を持っている。クォリティは千差万別だが、バラエティという部分では他のメディアが敵うわけがない。
 回線速度の高速化、技術の進歩やストレージの拡大により、最近は動画配信サイトやブログなどテレビの媒体力を脅かす存在が多数ある。同じ動画コンテンツなのだが「ニコニコ動画」の双方向性は、ネット時代の娯楽として新たな共有感を生んでいる。画像についたコメントが、二次創作的に別の価値を付けているのだ。
 ニコニコ動画のコメントは、ユーザー主導コンテンツのスキルアップが自然と行われている。まず見ることで空気を覚え、自分でもコメントを付けるようになり、最初は感想や合いの手だったコメントにネタを仕込むようになると、一人前のコメンターに成長する。そのうち、人の画像にコメントを付けるだけではなく、自分で画像を上げてみようと考えたら、もうコンテンツ制作側への道に入ってしまうわけだ。
 このようなユーザーが創作したコンテンツを発表する場として、ネットはテレビ放送より身近な存在にもなっている。書くまでもないけどね。


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◆インターネットテレビが普及したら、決まった時間に番組を見る機会は?
 A、大きく減る


 遠藤は既にリアルタイムでテレビ放送を見ていない。6台のHDDレコーダーでジャンル別に放送を録画して、端から消化していくか消去している。その振り分けは次の通りだ。

1、バラエティなど、自動更新で1週間以内に見ないと自動的に消去される。

2・3、ドラマ、1クール録り溜めて、全話終了後に評判を調べて良かったものだけ一気に見る。評判がそれほどでもないものは1話を見て評価し、納得すれば残りは見ずに消去する。

4、アニメなど、後に保存しておきたい番組を録り溜めてCMカットしながら見て、DVD保存。

5、NHKのスペシャルなど、単発で映像としての資料性が高いもの。

6、イレギュラーに見たくなったもののタイムシフト。

 テレビの放送でしか見ないコンテンツは、ニュース、スポーツで、ニュースは朝と昼の時報代わりと地震を感じた時、スポーツは日本代表が出場する大きな試合の観戦程度。


 現在はネット配信はPCで見ているが、いずれはテレビセットでも簡単に見れるようになるだろう。即時性はテレビ、オンデマントはPCという固定概念をテレビ放送関係者が持っているのは残念に思う。番組の時間はテレビの前に座れ!という感覚は、中年以上にしか通じない。若者は平気でテレビ放送を見逃す。興味があってもテレビの前に座り続けているのは、他にやることがない時だけで、面白い部分はネットの動画サイトで見れるから、と自分で録画しない人も多いようだ。
 「家族がお茶の間で一緒に見る」ということの価値は認めるが、録画の方がCMも飛ばせるし、途中で止めることもできるし、やっぱり便利だ。


 オンデマンド配信は既にサービスされているが、利用者が居ないと言う。理由は簡単で、有料だからか、機材と知識が必要だからのどちらか。民放の広告モデルがHDDレコーダーによって崩れている現在、広告が飛ばせない上にそこから送客できる可能性を持った、ネット広告連動による無料化に早く取り組んでほしいのだが、どうだろう?


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◆インターネットとの協業に期待しているか?
 A、期待している


 テレビの持っているコンテンツ作りの質の高さは、他を圧倒していると思う。中でもCMをコンテンツとして考えると、一般の番組よりクォリティが高いとさえ考えられる。HDDプレイヤーを使っていても、飛ばすCMだけではなく、わざわざ見るCMもある。であれば、CMもオンデマンドでいいのではないか?

 テレビ放送関係者の中には「インターネット弱者に対する配慮」を理由に、ネットは敷居が高いという意見があった。ならば言いたい、地上波デジタルへのシフトに関して、多くの人が取り残されているという事実を。

 平均視聴時間長さがシニア層に偏っていることでも分かるように、テレビ放送を時間に合わせて見るのはシニア層にシフトしている。にも関わらず、「UHFアンテナと地デジチューナー」という言葉はシニア層に理解できるわけもなく、このままアナログが停波したら、テレビが見れなくなってガッカリする人がどうなるのか?不安だ。

 それと、携帯電話が発展する過程で複雑化し、そのカウンターとして「ツーカーS」が大ヒットし、その後はシニア向け製品がラインナップされているように、簡単操作で必要最低限の機能が使えるパッケージがあれば、ネット配信でもテレビ放送でも垣根なくシニア層に浸透するだろう。今はハードウェア的にこなれたものがないのと、ネット配信でテレビを使った無料のメジャーコンテンツプロバイダーがないから排他的区別が生じるのでは?
 電気屋さんに頼むだけで、地デジもネット配信もシームレスに視聴できるハードウェアが用意され、テレビのチャンネルと同じ気軽さでオンデマンドが使える、優れたユーザーインターフェイスと誘導メニューがあれば、シニア層は以外にネット配信と地デジ放送の区別がなくなりそうな気もする。


 テレビ関係者からの意見の中には、遠藤から見ると自己中心的なものも多かった。
 まずスポーツの放映権が上がっていて、広告モデルではコンテンツとして用意するのが厳しくなっているという話。身近にいるスポーツファンの多くは、テレビ放送のスポーツコンテンツに満足しておらず、有料チャンネルで見ている。

 スポーツは放映権が上がるくらいに、キラーコンテンツなので、本当に見たい人からはちゃんとお金が取れるのではないか?これはビジネススキームの問題で、現状は何らかの過渡期だと思われる。ネットにシフトするとどうなるか?という明確なビジョンはないのだが、サッカーのW杯日本戦などは手軽に無料で見たいのもユーザーとしては実情。


 次に民放連の方の発言に「映画館がなくなったから、テレビが唯一の楽しみ」というあった。「だからテレビが絶対的存在」という幻想がそこには見えるんだけど、映画自体神代の昔からあったわけではなく、19世紀末に商業化され20世紀に大きく発展したのはご存じの通り。

 もちろん映画によって縮小したエンタメ産業があり、ビデオモニターへと媒体を変えてコンテンツは生き残ったが、映画館の規模縮小は時代の流れの必然と言える。同様にテレビ放送も媒体の1つなのだから、新しいメディアの成長とともに衰退していくのが道理で、すでに若年層ではテレビは映画と同列なくらい終わりかけているとも言える。


 逆にテレ東のプロデューサさんが言った「テレビはグダグダでいいじゃないか?」というのは、その一番のメリットが「即時性」であることを踏まえた、思い切りのいい話だ。映画には映画の良さが今でもあるように、テレビにはテレビの良さがある。即時性と共有性はネットでは追い付き難いので、時間を掛けて作り込んだコンテンツよりも、グダグダな生番組の方が見る価値が上がる可能性はある。


 ネットとの協業という意味では、ラジオを手本にできないだろうか?ラジオはテレビが駆逐したメディアの1つではあるが、今はネットを利用してすっかり別の形に生まれ変わっている。
 最初は投稿などの双方向性の部分にネットを利用し、今ではネットラジオになって配信をオンデマンド化してしまい、逆に放送に頼っていた頃より面白いコンテンツが増えた。ナマ放送と違って編集で質も上げられるし、オンデマンドだから番組の尺を気にする必要もない。しかもWebと連動することで、ビジュアル的な補完も可能だし、デジタル化で機材が手軽な値段になり、編集も簡単になったりで、個人が趣味でもできるようにすらなっている。

 動画配信サイトとしては「YouTube」や「ニコニコ動画」など手本にするものも多いが、著作権の問題などで対立する構図ばかりが目立っているし、IT企業によるテレビ局の買収などの軋轢もあるから、心情的にもテレビ関係者はネット嫌いなんだろうと思う。ラジオを見習ってほしいものだ。


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◆テレビに対する要望


 遠藤は世代的に白黒テレビから見続けていることもあって、糸井氏の「テレビってあった方がいいモノ」という意見には大賛成。まだテレビが日常から退場するイメージはないし、多分遠藤のライフタイムにテレビが消えることなないだろう。ただし、メディアとしての形態は現在のままではなく、地デジ全面切換えに従ってテレビ受像機自体がネット接続されると、やっとネットを介して配信をする土台が生まれるのだと思う。やはり一般の人は、パソコンの画面でテレビを見ることに、相当抵抗があるから。


 まとめになるが、テレビ(放送)の存在価値を遠藤は次の3つだと考えている。
・即時性
・共有性
・コンテンツ制作能力


 まず即時性だが、テレビの生放送の持つ説得力は現在他に代え難い。人は「刻の旅人」などと称されるが、その時代を生きていて起こった出来事は、後には歴史となっていく。自分も歴史の目撃者の1人になれるテレビの生放送は、HDDレコーダーに録画しながらも、直接放送時間にテレビの前に座って見る価値があるのだ。
 ただしここには、その影響力に対する責任というものもある。テレビ放送の画像がどこまで信用できるのか?という問題だ。近くは北京オリンピックの生放送の際に、花火で大きな足跡が近付いて来る映像がCGだったとか、歌を歌っていた女の子が口パクだったとかの疑惑があった。9・11同時多発テロの映像を、遠藤が最初CGではないかと疑ったように、CGが現実と変わりない映像を創り出せるようになった今、放送への信用はしっかりと担保されるものであって欲しい。


 次に共有性だが、多くの人が同じ放送をほぼ同じクォリティで見ることができるのは、とてもありがたいことだ。そこには「コミュニケーションを円滑にするための共通話題となる」という、コンテンツが持っている複次的な価値が反映されるからだ。どんなコンテンツでも同じだが、共有性が高いコンテンツは広く人々の記憶に残り、同世代の共通体験となっている。この点でテレビ放送が有利なのは、無料で手軽に視聴できるということで、メディアが変わったとしても、現在の民放の存在に当たるものが存在し続けてほしい。
 ここの阻害要素は「視聴率重視の風潮」ではないだろうか? もちろんビジネスなので仕方ないが、超高視聴率のお化け番組の存在は既に期待できないし、視聴者の好みの多様化というテレビが成熟したメディアであるがゆえのジレンマもある。各局が同じ時間帯に同じ内容のニュースを流すようなものは、全体として高い共有性が保たれているのだから、即時性を考えると満足できているのかも知れない。となると贅沢なもので、各局が切り口を変えて伝えた同じ内容のニュースを、まとめて見れたらいいな、とか思う。今それを実現しているのは、ネットの動画投稿サイトへの違法投稿だったりするのが残念なので、コンテンツのアーカイブ配信を早期に実現して欲しい。もちろんできれば無料で(笑)


 最後のコンテンツ制作能力だが、これは世界的に見ても日本のテレビ業界のレベルは高い。メディアが変わっても、このクォリティは揺らぐところがないだろうし、機械的な技術も世界を引っ張る力があると思う。後はその製作費が潤沢に用意できるビジネスモデルの構築。
 今、アニメの世界ではDVDの売り上げに陰りが見えている。これは地デジの画質が上がったために、放送をHDDに録画した画像が、DVDの画質を上回っていることに起因しているのではないか? もともとテレビで放送されているコンテンツは無料という意識が高いので、メディアが変わっても無料であり続けることを視聴者は求める。とすると、現在民放で破綻が噂されている広告モデルの新しい形が必要だ。CMは見たくないし、コンテンツは無料で見たいという、HDDレコーダーに慣れたワガママ視聴者にどのようなスキームで対抗するか。是非日本人らしい知恵と工夫で突破して欲しい。


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 随分と時間を置いてしまったのだが、GWにまとまった時間が取れたので書き始めたこの文章。とめどなく書いていたらここまで長くなってしまったのだけど、ブログなので全文そのままで公開してみます。