http://bakumatsu.org/blog/2012/05/syoin.html
(面白すぎるので転載します。。。Σ(~∀~||;))
授業で習った吉田松陰は、松下村塾を開いた聖人君子のイメージかもしれないですが、とんでもない。彼は相当クレイジーな人間だったんです。
ちなみにこの方、後に池田屋事件で新選組に襲われ自害します。
さて。吉田松陰 23歳の時、黒船が来航しました。
当時は鎖国まっただ中。武士も農民も、畏敬と好奇の目でアメリカ艦隊を遠巻きに見ています。
そんななかで松陰。
彼はこれを「先進国に外国留学するチャンス!」と捉え、
黒船に乗り込み密航させてもらおうと考えました。
「外国に対抗するには、その外国文明自身を徹底的に盗んでやろう。」
吉田松陰の凄さは徹底的に実践するところ。
この場合も可能かどうかを悩む時間も惜しいのか、特に周到な計画も立てずに、
盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船のデッキに乗り込みます。
吉田松陰が実際に乗り込んだ黒船・ポーハタン号↓↓
当然追い返されました。
追い返されたのですが、
このクレイジーな出来事はペリー提督をたいへん驚かせました。
この後、松陰は牢獄に入れられます。
周りはなんて馬鹿なことしたと思ったでしょう。
松蔭はこの時の気持ちを一句詠んでいます。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
(このようなことをすれば、こうなることはわかっていた。しかし、それでも私を行動に踏み切らせたのは、日本を想う心に他ならないのだ。)
あ、ちなみに松蔭は、生涯で何回も牢獄に入れられていて、
最終的には前科5犯です。
そういう意味では、けして聖人君子ではありませんね。
この後、吉田松蔭は仮釈放になって牢獄から出ます。
そして、謹慎中の家で近所の人相手に講義を始めますが、これが松下村塾なんです。
この松下村塾からは高杉晋作や久坂玄瑞、初代内閣総理大臣・伊藤博文などの
そうそうたる面々が育ちました。
さて、仮釈放中の松陰ですが、おとなしくしているはずもなく。
井伊直弼とその右腕・間部詮勝(まなべあきかつ)による独断政治に怒り爆発。
どうにもたまらんくなった松陰さんは、長州藩にあるお願いをするのですが、
その内容に長州藩は衝撃を受けます。
「間部を暗殺するので、暗殺に使う武器を提供して欲しい」
これにびっくりした藩は、仮釈放中の松陰をまたも牢獄にいれます。
目に余る松陰の過激っぷりに、松下村塾の弟子たちは心配。
「先生ちょっと落ち着け」と血判状まで出して諭すのですが、
そんな心暖かい弟子が生ぬるいと映ったのか、
松陰は激昂し、弟子との絶交を決意します。
これをわかりやすく図にすると…
心配する弟子とガチで大げんかする松陰先生、まじクレイジーです。
極めつけが、
ある疑いで幕府の役人に取り調べを受けた時のこと。
疑い自体は軽微なモノだったので、取り調べは何事もなく終わるはずでした。
しかし、そこは吉田松陰。
聞かれてもいない、いつぞやの老中暗殺計画を自ら暴露して、役人の度肝を抜きます。
本当にクレイジー過ぎます。
彼としては、幕府の役人にモノ言える機会はそうないので、自らの考えを包み隠さず述べようという考え。
しかし、ロクに聞いてもらえず、 そのまま捕まり、井伊直弼の大粛清の犠牲者となります。
世にいう安政の大獄ですね。
ちなみに松蔭先生は、安政の大獄の最後の刑死者です。
こうして吉田松陰はわずか29歳でその生涯を閉じますが、
彼の意志を継いだ弟子たちが力を尽くし、
松蔭の死後8年たって、日本は明治という新しい時代を迎えます。
最後に。
次の世代に向けて、吉田松陰はこんな言葉を残しています。
「諸君、狂いたまえ。」
現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた松陰らしい言葉です。
そして、これ、ある人の言葉に似ています。
Apple創立者のひとり、スティーブ・ジョブズ。
彼もまた、現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた人です。
ジョブズが次世代の若者たちに語った言葉は、
ニュアンスは違えど、彼らは同じことを語りかけているように思いませんか?
(面白すぎるので転載します。。。Σ(~∀~||;))
授業で習った吉田松陰は、松下村塾を開いた聖人君子のイメージかもしれないですが、とんでもない。彼は相当クレイジーな人間だったんです。
吉田松陰はこの人。
多少厳しそうな眼差しをしつつも、偉人らしく穏やかに見えますが、
この人の人生は無茶の連続でした。
21歳の時、松陰は親友と東北旅行を計画します。
しかし、自藩の長州藩に申請した通行手形がなかなかもらえず、
友と約束していた旅行日に間に合いそうにありません。
そこで彼はどうしたか?
しょうがないので、松陰は死罪覚悟で脱藩します。
いくら目的が東北の海防調査という意義深いものとはいえ…。
旅行の約束をした親友・宮部鼎蔵(みやべていぞう)も正直ドン引きしたと思います。
「なにもそこまで…」 ※管理人の想像 |
さて。吉田松陰 23歳の時、黒船が来航しました。
当時は鎖国まっただ中。武士も農民も、畏敬と好奇の目でアメリカ艦隊を遠巻きに見ています。
そんななかで松陰。
彼はこれを「先進国に外国留学するチャンス!」と捉え、
黒船に乗り込み密航させてもらおうと考えました。
「外国に対抗するには、その外国文明自身を徹底的に盗んでやろう。」
吉田松陰の凄さは徹底的に実践するところ。
この場合も可能かどうかを悩む時間も惜しいのか、特に周到な計画も立てずに、
盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船のデッキに乗り込みます。
吉田松陰が実際に乗り込んだ黒船・ポーハタン号↓↓
当然追い返されました。
追い返されたのですが、
このクレイジーな出来事はペリー提督をたいへん驚かせました。
(ペリーの航海記より) ※以下、2人とは吉田松陰と松陰最初の弟子・金子のこと。「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた 2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。 この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。 日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、 興味あるこの国の将来には、 何と夢に満ちた広野が、 何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」 |
この後、松陰は牢獄に入れられます。
周りはなんて馬鹿なことしたと思ったでしょう。
松蔭はこの時の気持ちを一句詠んでいます。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
(このようなことをすれば、こうなることはわかっていた。しかし、それでも私を行動に踏み切らせたのは、日本を想う心に他ならないのだ。)
あ、ちなみに松蔭は、生涯で何回も牢獄に入れられていて、
最終的には前科5犯です。
そういう意味では、けして聖人君子ではありませんね。
この後、吉田松蔭は仮釈放になって牢獄から出ます。
そして、謹慎中の家で近所の人相手に講義を始めますが、これが松下村塾なんです。
この松下村塾からは高杉晋作や久坂玄瑞、初代内閣総理大臣・伊藤博文などの
そうそうたる面々が育ちました。
長州藩を救った男 高杉晋作 |
尊王攘夷の推進者 久坂玄瑞 |
初代内閣総理大臣 伊藤博文 |
戦術の天才 山田顕義 |
さて、仮釈放中の松陰ですが、おとなしくしているはずもなく。
井伊直弼とその右腕・間部詮勝(まなべあきかつ)による独断政治に怒り爆発。
井伊直弼 | 間部詮勝 |
どうにもたまらんくなった松陰さんは、長州藩にあるお願いをするのですが、
その内容に長州藩は衝撃を受けます。
「間部を暗殺するので、暗殺に使う武器を提供して欲しい」
これにびっくりした藩は、仮釈放中の松陰をまたも牢獄にいれます。
目に余る松陰の過激っぷりに、松下村塾の弟子たちは心配。
「先生ちょっと落ち着け」と血判状まで出して諭すのですが、
そんな心暖かい弟子が生ぬるいと映ったのか、
松陰は激昂し、弟子との絶交を決意します。
これをわかりやすく図にすると…
心配する弟子とガチで大げんかする松陰先生、まじクレイジーです。
極めつけが、
ある疑いで幕府の役人に取り調べを受けた時のこと。
疑い自体は軽微なモノだったので、取り調べは何事もなく終わるはずでした。
しかし、そこは吉田松陰。
聞かれてもいない、いつぞやの老中暗殺計画を自ら暴露して、役人の度肝を抜きます。
本当にクレイジー過ぎます。
彼としては、幕府の役人にモノ言える機会はそうないので、自らの考えを包み隠さず述べようという考え。
しかし、ロクに聞いてもらえず、 そのまま捕まり、井伊直弼の大粛清の犠牲者となります。
世にいう安政の大獄ですね。
ちなみに松蔭先生は、安政の大獄の最後の刑死者です。
こうして吉田松陰はわずか29歳でその生涯を閉じますが、
彼の意志を継いだ弟子たちが力を尽くし、
松蔭の死後8年たって、日本は明治という新しい時代を迎えます。
最後に。
次の世代に向けて、吉田松陰はこんな言葉を残しています。
「諸君、狂いたまえ。」
現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた松陰らしい言葉です。
そして、これ、ある人の言葉に似ています。
Apple創立者のひとり、スティーブ・ジョブズ。
彼もまた、現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた人です。
ジョブズが次世代の若者たちに語った言葉は、
「Stay hungry, stay foolish.」
~ ハングリーであれ、愚かであれ。 ~
~ ハングリーであれ、愚かであれ。 ~
ニュアンスは違えど、彼らは同じことを語りかけているように思いませんか?