http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/243.html
転載元(いつも一緒)より

ある読者よりのメール


『管理人様

太田龍のこともそうですが、いつも温かいご配慮をいただき感謝申し上げます。

さて天皇家の秘密資金を引き出すことのできる名義人についてですが、鬼塚英昭氏の著書に関連箇所を見つけたので以下に転載いたします。皇后の口座名義について述べられています。宜しくご参照ください。長いので何回かに分けて送信いたします。

以下順不同に抜粋します。

天皇は国際決済銀行とスイス国立銀行に今日でも世界トップクラスの秘密資金を持っている。ポール・マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』にも、シーグレーヴ夫妻の『ゴールド・ウオリアーズ』にもそのことが詳しく明記されている。

横浜正金銀行(管理人注:天皇の銀行)が一九四四年九月にスイス国立銀行に開設した「第一特別勘定」と「第二特別勘定」も、天皇の資産隠しのために使われたとみる。しかし天皇は、自らの秘密口座と、皇后名義の秘密口座をスイス国立銀行に持っていた。

工藤美代子の『香淳皇后』には次のように書かれている。

『日本でも、外面的には、あくまで戦争を続け、本土決戦に臨むという態度ではあったが、その実、敗戦を予測してのそれなりの動きはあったようだ。木戸幸一 をはじめ、当時の日本の首脳部にいた人々の日記は、すでにいくつか刊行されているのだが、不思議なことに、敗戦を予測しての具体的な準備について触れた記 述は全く見あたらない。

しかし、実は何者かによって着々と、手は打たれていた。そう思わせる証拠の一端が、ロンドンの公文書館に保存されている。それはスイスの赤十字国際委員会とイギリス外務省との間で、昭和二十一年八月から昭和二十三年九月にかけて交わされた一連の外交文書である。(Fo 369/3969, Fo 369/3970)

これらの文書によると、昭和二十年の四月に、日本の皇后が赤十字国際委員会に一千万スイスフランの寄付を申し出たというのである(管理人注:これはFo369の最後のページで確認済み)。一千万スイスフランといえば、現在のレートで換金しても約七億円近い金額である。まして、当時のレートで換算したら、莫大な金額だったはずである。

まず興味深いのは、四月の時点で、すでにこの寄付の申し出がなされていたことである。これは日本の敗戦を予測して、皇室の財産を処分しておこうとする動き ではなかったかという見方ができる。それ以外に、こんな莫大な金額を寄付する理由はかんがえられないというのが、スイスやイギリス側の見解だ。』

この工藤美代子の『香淳皇后』が出版されたのが二〇〇〇年。その翌年の二〇〇一年八月十三日に、「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」で、この内容を追認する記事が出た。

『日本が一九四五年八月の終戦直前、スイスの赤十字委員会(ICRC)に対し、昭和天皇の皇后名で一千万スイスフランの巨額寄付を提示。連合国の対日政策 決定機関である極東委員会が禁止決定を出したものの、赤十字がこれを覆して戦後の四九年、秘密裡に送金が実行された経過が十三日、スイス政府やICRCの 公文書で分った。

寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行)がスイス国際銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。日本が皇后名の寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明(管理人注: 公文書館でのFo369には驚いた様子が書かれている)。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの四年間にわたる「攻防」の詳細を 明らかにしている。一千万フランは現在のレートで約七億円。当時と現在のスイスフランの購買力を単純に比較すると約三十三億円に上る。』

工藤美代子の『香淳皇后』の内容を補足する記事となっている。この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表 に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は九日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは所詮直後の八月十 七日となった。その前日の十六日、英米はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。

それでは結果はどうなったのか。天皇の資産のほとんどは国際決済銀行(BIS)の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。それでほとんど無事であった。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」をつくり、国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と皇后名の二口座が確認されているが、他にもある可能性がある。

工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセングループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウエーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを”陰の政府”が支えたのである。

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 ウインザー城右手にある今上天皇のガーター騎士団の紋章。紋章には「Honi soit qui mal y pense (思い邪なる者に災いあれ)」と騎士団の言葉が書いてある。
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ジョージ五世に歓待される昭和天皇の皇太子時代『ウインザー家という呼称は国王ジョージ五世が採用した。ウインザー家の実体はゲルフ家であり,ベネチアの黒い貴族の中でも最も古い名門の一つである。ヴィクトリア女王の血統は,直接ゲルフ家まで遡る』

黒い貴族ゲルフ家とは?

もう一度、「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」に戻ろう。この記事の最後は次ぎのようになっている。

『寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当化を主張するスイス政府、ICRCが対立した。この紛争は四六年六月、極東委員会と連合国総司令部(GHQ)に委ねられた。

極東委員会は同年十月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は四九年三月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も四九年五月「所有権の主張」を撤回した。

送金は四九年五月末。スイスが横浜正金の資産凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった。』

この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。(管理人注:現在では兆の単位ではなく京の単位であろう)

もう一度、工藤美代子の『香淳皇后』引用する。

『ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。四十三年間にわたって総裁を務めていた閑院宮戴仁親王が、昭和二十年五月二十日に亡くなっていた のである。その後を承けて総裁となったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、七月一日だった。この日の高松宮の日 記には何も記されていないが、七月四日には「速ニ戦争終末ノ仕事ニ準備セネバ間ニ合ワヌ」といった記述が見える。高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる 方向を見据えていたのが分る。』

以上が秘密口座に限定した抜粋の部分です。

以下抜粋を続けます。

国際決済銀行(BIS) については幾度も書いてきた。この銀行を設立し、運営する組織がある。この銀行を背後で支えているのが、ロスチャイルド、オッペンハイマー、ウオーバーグ のユダヤ財閥であり、また、この財閥の支配下にあるのがアメリカのロックフェラー、モルガンンらの財閥である。彼らは国家を背後から動かす力を持ってい て、実際に動かしてきた。

あの原子爆弾製造の計画は「マンハッタン計画」という。この計画を立てたのは、イギリスのユダヤ財閥の王ヴィクター・ロスチャイルドである。彼は多くのユ ダヤ研究者をルーズベルト大統領のもとに送りつけると同時に、密かに世界中のウラン鉱を買い漁ったのである。原子爆弾を駆使して、ユダヤ財閥の王ロスチャ イルドは世界制覇を狙っていたのである。

彼らは日本に目標を定めた。そして研究・開発を急いだ。それまでは、なんとしても日本との戦争を長びかさなければならない。彼らは国際決済銀行を使い、戦 争をいかに長びかせるかを研究した。その甘い汁のひとつが天皇の貯蓄した金や銀やダイヤ・・・の貴金属をドルかスイス・フランにかえて、スイスの国際決済 銀行かスイス国立銀行(この銀行の役員のほとんどが国際決済銀行の役員を兼任する)の天皇の秘密口座に入れてやることであった。従って、一九四四年から一九四五年にかけて天皇は、自分の財産の移しかえに専心するのである。その過程と原爆製造の過程が見事に一致するのである。

私は元駐日大使グルー(管理人注:その陰にはユージン・ドーマンがいた)とステイ ムソン陸軍長官が日本のヨハンセン・グループと深く結ばれて、情報の交換をし続けていたとみるのである。ヨハンセン・グループというのは、「吉田反戦」と いう言葉から作られた、日本とアメリカを結ぶ秘密組織である。このグループの首魁は牧野伸顕、そして吉田茂と樺山愛輔の三人である。三人のほかに少数の 人々の姿が見え隠れする。

上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マデイソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健一は、ある長崎の女郎が生んだ子供を養子にする。吉田茂その人であるその子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘雪子と結婚する(管理人注:その女郎の父親はおそらく吉田健一であろう。吉田茂の子どもに吉田健一がいる)。満州利権を守るため田布施の一族(管理人注:田布施とは朝鮮人部落のこと)と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。

樺山愛輔(伯爵・貴族院議員)に注目してみよう。秩父宮勢津子の『銀のボンボニエー』には樺山家と秩父宮の深い関係が書かれている。秩父宮勢津子の父は松 平恒雄である。彼は自分から認めたフリーメーソン会員である。この松平恒雄と樺山愛輔は古い友人である。樺山愛輔の父は樺山資輔(元台湾総督)。ヨハンセ ン・グループの使者は、グルー元アメリカ大使と商売の面でも結ばれていた。樺山資輔はJ.P.モルガンのラモント(ロスチャイルド財閥からモルガンへ派遣 された支配人)と親しく、J.P.モルガンの血族の一人がグルー元大使である。グルーはアメリカ大使であると同時に、隠れた政府の一員であった、というわ けである。

さて樺山愛輔は貞明皇后と深い因縁にある。貞明皇后が松平恒雄の娘勢津子を見染め、秩父宮の后とした。これには深い因縁がある。貞明皇后は自分の過去を知る長州罰を憎悪していた。それゆえ、会津の松平恒雄の娘を秩父宮后に迎えた。

もう一人油断のならない人物がいる。樺山愛輔の娘正子は白州次郎と結婚している。秩父宮勢津子と樺山愛輔の娘正子は学習院初等科時代からの親友である。白州次郎はかくて必然的にヨハンセン・グループの一員となる。白州次郎は欧米で、どうやって生活していたのか?彼はユダヤ財閥のウオーバーグから生活の糧をもらって生きてきた過去を隠しに、隠し続けた男だ。モルガンとウオーバーグの手下が、ヨハンセン・グループにいた。
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サンフランシスコ講和に向かう吉田茂と白州次郎。しかし日本語の講和は正文ではなかった=日本は独立国家ではないという意味。

『われわれは戦争に負けたのであって奴隷になったわけではない』(白洲次郎) そうですか,そうですか。

ヨハンセン・グループに近い人に関屋貞三郎がいる。この関屋貞三郎もクリスチャン。樺山愛輔もクリスチャン。彼らは貞明皇后と深く結びついている。

私がいわんとするのは、彼らが、牧野伸顕(元内大臣)、吉田茂(元外務大臣)を含めて、ヨハンセン・グループの秘密名で、太平洋戦争開戦の翌年の六月にグ ルー大使がアメリカに帰国するまで情報を流していたということである。そしてグルーが国務次官になった後も、このルートが守られていた可能性大である。太 平洋戦争が始まった後に、すでに和平交渉が宮中と重臣たちのルート(ヨハンセン・グループ)により行われていた可能性がある。従って、このグループに参加 した人々はすべて、なぜか戦犯に指定されていない。牧野伸顕、吉田茂、岡田啓介元首相、米内光政元首相たちである。


私はヨハンセン・グループが原爆投下を広島と決定し、グルーに報告したとみる。その日時も、八月六日午前八時ごろにしてほしい、と。「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。

天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン・グループハステイムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。

ヨハンセングループとは?

日米開戦と戦後日本(講談社)

ではどうして八月六日なのか。それはこの日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

東郷茂徳も天皇から”急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。東郷茂徳は八日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資 産は凍結されますが、遅くとも三~五年後には凍結を解除してくれるとステイムソンが申しています・・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を”天 佑”として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。

ではどうして広島だったのか。

有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。

八月六日朝ごろ、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。

この日、間違いなく、第二総軍の全員は、八時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。

ひとり畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。

「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。

私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、密かに畑元帥と会談し、八月六日午前八時すぎごろ の広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一次官は、この日の八時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみ える。

この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。

八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方を総監を説得した。第二総軍を動員し、八月三日から連日、義勇隊三万人、学徒隊一万五 〇〇〇人を出動させよと命じた。畑は密かに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で、八月六日の朝八時十五分を迎えた。第二 総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。

私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。


一九九七年に国立国会図書館は「政治談話録音」なるものを一般公開した。木戸はその中で 「原子爆弾も大変お役に立っているんですよ。ソ連の参戦もお役に立っているんです・・・」と語っていた。天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終え た。一九七五年十月三十一日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。


天皇「エ・・・この・・・エ・・・エ・・・投下、された、ことに対しては、エ・・・エ・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないこと,と私は思っています」

もうひとりの記者が戦争責任について質問した。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり研究していないので、よく分りませんか ら、そのような問題については答えかねます」これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。(731細菌部隊もそうだった)

東郷は太平洋戦争そのものに反対した。しかし敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。二十年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。

ここで明確にしよう。国際検事局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、も一つはYルートであった。ヨハンセン・グループ吉田反戦グループである。戦後首相となった吉田は多くの人々をこの検察局に売った。東郷は原爆の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた。それゆえに消されたのである。

第二総軍司令官畑俊六元帥はどうなったか。彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかしヨハンセン・グループと深く結びついていなかった、

天皇はもう一人の知りすぎた男、有末精三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。「有末精三はどうして戦犯にならんのか」側近に語っているのである。
 
私はここで私なりの結論を書くことにする。原爆投下は完全に避けられた。少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言 葉を述べ、「わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる」と言えばよかった。どうして言えなかったの か。天皇と上流階級はその甘い生活をやめられなかった。それでステイムソン陸軍長官らの”陰の政府”と交渉した。天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた。彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、および日本国民をそのように誘導することであった。

数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。多分米内光政のルートで、畑第二総軍司令官のもとに依頼が入った。八月三日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。八月六日、第二総軍は壊滅した。

ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽造クーデターを起こし、第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。原爆投下は天皇・皇室・上流階級にとってまさに”天佑”そのものであった。

ー私たちはこの事実から何を学ぶべきか。

結論はただ一つ。一人、一人が真実を追究すべく立ち上がるべきである。

以上、鬼塚英昭著『日本のいちばん醜い日』より順不同に抜粋しました。

ペリマリ拝


ベリマリさん,ありがとうございました。迂闊にもこの本だけは読んでいませんでした。

第18条(地球支配21か条より)

国際連合(UN)や国際通貨基金(IMF)、国際決済銀行(BIS)、国際司法裁判所のような超国家的制度を強化し、300人委員会の目的の障害となる局地的な機関に対しては段階的に廃止させたり、国連の影響下に置いてその効力をできるだけ弱める。

『敗戦の日に(心に青雲より)

2007年08月15日

 8月15日は言わずと知れた大東亜戦争敗戦の日である。厳密にいうと、敗戦の手続きが完了した時点がどうたら言うが、それはともかく。
 鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)は、そのとき起きた宮城事件を追い、あの陸軍抗戦派(継戦派)将校による一種クーデターとされる ものが、実は昭和天皇とその重臣(木戸幸一ら)による偽装騒乱事件だったことを見事に検証した本である。わずか10人たらずの陸軍将校は、事後にほとんど が自決しているが、彼ら実行部隊を率いたのが昭和天皇の弟にあたる三笠宮(当時、陸軍中佐)であったことを、鬼塚氏は突きとめている。それを検証したの が、この『日本のいちばん醜い日』である。

 この事件が、昭和天皇の策謀による三笠宮主導の偽装クーデターであり、それが見事に成功したことは、単に昭和20年8月15日の出来事にとどまらない。今日まで醜悪な死臭を放ちながら続く問題である

 昭和天皇は、戦争をユダヤ=国際金融資本勢力と呼応するかのように、大規模に始め、延々と続けた。延々続けられたのは、ユダヤ資本が協力したからだが、 その問題は後日取り上げたい。その目的も鬼塚氏は暴いているが、すべては金儲けのため、蓄財のためであった。戦争はある種のマネーゲーム、とは見事に本質 を突いている。天皇はカネ儲けのために満州に侵出し、支那事変に乗り、太平洋で米国とまで戦争をやった。アメリカに引きずり込まれた面と、昭和天皇自らが 積極的に撃ってでた面とがある。

 戦争を始めたのは昭和天皇の責任である。命令を下したのは裕仁である。陣頭指揮をとったのも彼であった。しかし、敗戦間近となって、戦争や麻薬、人身売 買で蓄財した巨額の資金を、スイスの口座に保ち、かつ天皇一族の生命を保障してもらうべく連合国=ユダヤ勢力と交渉し、成功するのだ。天皇は財産保全と生 命保障の代償として、沖縄を戦後も米軍基地にして差し出し、原爆実験を引き受け、日本国憲法も認め、陸軍将兵から戦犯も出し、ソ連には捕虜(100万人説 もある)をシベリアでただで酷使させるために差し出した。唯一マッカーサーが企図した日本のカソリック化だけが失敗した(それを描いたのが、鬼塚氏の前著 『天皇のロザリオ』)

 敗戦によって、当然天皇の責任は問われるのだから、それを回避するために8・15の宮城事件=偽装クーデターは仕組まれた。天皇は開戦にも反対だった し、早期に終戦もしたかったのに、陸軍が戦争をやりたがり、戦争を継続したがったのだという偽装をしたかったのだ。「だからほら、終戦時に陸軍が継戦を主 張してクーデターまでおこしたでしょ」と言いたかったのだ。なんたる卑劣!

 ユダヤ権力から、戦争末期に財産保全と生命の保障は得てはいたものの、世界の表舞台(マスコミで取り上げる世界)と、国民には芝居を打たねば納得してく れない。だから、すべては陸軍が悪く、陸軍が戦争を仕掛けたのであって、天皇に責任はなくむしろ被害者だったという大芝居を打たねばならなかったのであ る。昭和天皇は、絶対君主だったのであるが、それを隠蔽する工作があの8・15宮城事件だった。それをまことしやかに演出するために、森赳近衛師団長は三 笠宮の命令で惨殺されたし、阿南陸相も自決させられた。天皇の指示であった。

 昭和天皇は、後年(1975年)、日本記者クラブの会見で戦争責任を問われると、「私はそういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり 研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます」とイケ図々しく答えたものだった。これを鬼塚氏は「日本のいちばん醜い 言葉」と表現した。まったくそのとおりである。

 『日本のいちばん醜い日』に、昭和天皇が開戦1年後に内大臣木戸幸一に語った言葉が紹介されている。
 「この大戦後には、ソ連とアメリカのみが傷まずして、他の列国はみな疲労することとなるは、ほとんど疑いなきところなり。さすれば、この両国間に挟まれ たる我が国はけだし非常に苦心せざるべからざる環境に置かるるものと信ず。しかし、さりとて必ずしも悲観するを要せず。これら両国も付近に強大なる競争国 を失えば自然に気がゆるみてやがて腐敗するは必至なれば、我が国にしていわゆる臥薪嘗胆の10年を覚悟し、質実剛健なる気風を作興すれば、有終の美を挙ぐ るは困難ならずと信ず云々。」

 これは昭和天皇が、まだあと2年半は続く日米戦争の結末と、その大戦後の世界をあらかじめ知っていたことを意味する。鬼塚氏は言う「天皇は太平洋戦争の 前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が『非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる』と は、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。」と。

 鬼塚氏も今回の著書で、ついに「闇の権力者」の存在に言及している。鬼塚氏はフリーメースン、イルミナティとは呼ばずに「国際金融同盟」と呼ぶと言っているが。

 そういえば林秀彦氏もいちばん新しい著書『この国の終わり』(成甲書房)で、ついにユダヤ闇権力の策謀を全面的に記述するようになった。
 彼ら「国際金融同盟」が、フランス革命も第一次世界大戦も、意図的に引き起こしたこと、その彼らがBIS(国際決済銀行)を創って第二次世界大戦を引き起こすのだが、昭和天皇もどうやらそうしたユダヤの動きを承知していたらしいのである。例えば第一次世界大戦でたいして戦果をあげていない日本に、ユダヤは南洋の島々(サイパンやトラックなど)を委任統治領としてくれてやるのだ。それがあったればこそ、日本は南進政策をとり、(対ソ連戦争をやめて)アメリカとの戦争を選択する。南洋の委任統治領を日本がユダヤからもらったのは、次はアメリカやイギリスと戦争をやってユダヤの儲けに協力するんだよ、という指令であったのである。そして最後は日本が負けるシナリオも押しつけられたのであり、それでも天皇一家の蓄財と生命は助けてやるから、と言われて始めたのであろう。だから日本は勝てる戦争を、なぜか海軍のミスまたミス(に見せかける作戦)で意図的に敗戦に導かれていった(管理人注:ミッドウエイ海戦)。

 大東亜戦争で亡くなった方々には、気の毒で言葉も出ない。
 支那事変直前の2・26事件は、北進(対ソ連戦)を主張する陸軍皇道派をはめて壊滅させ、南進を企図する陸軍統制派を登用するための天皇の陰謀=ヤラセだったのである。

 昭和20年8月15日に終わったあの戦争が、なぜ起きたか、なぜ日本が負けたのか、その歴史の真実がまた鬼塚氏の労作によって一段と明らかになった。』(管理人注:ザビエルが日本に着いた日は8月15日、終戦も8月15日。8月15日はカトリックの聖母被昇天祭でもあるのは偶然とは思えない。なぜなら1534年8月15日はイエズス会結成の日でもあるからだ。)