碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 91 | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

碧海ユリカと読む「奇跡のコース」 91

第11章 その11

直接知が学びも経験も何も必要としない、文字通りダイレクトなものであるのに対して「知覚認識」とは学び覚えるものである。私たちはそのようにして育ってきたのだ。周囲の大人たちや社会・文化などなどをお手本にして「認識」の仕方を身につけてきた。まあ、それぞれが「エゴ」みたいなもんである。それが全て間違いだったというのなら、今度は聖霊を導き手として学び直すしかないのである。だいたい、正確に言うならばエゴはお手本にならないのだ。なぜなら、その時々の状況などによって認識の結果が違ってしまうのだから、よく考えてみればやっぱり信頼をおけるわけはなかったのだ。

聖霊から学ぶためには「学びたい」という確固たる意志があればよい。以前にも書いたことだが意志は願望とは全く異なるものであって、ある種の覚悟を必要とする。たとえば、今まで「本当のこと」「現実だ」と思っていたあれこれを「実は間違いだった」と認める勇気が要求されるわけである。皮肉なことに、絶望して失うものがもう何もなくなった人よりも「この世の幸せ」を満喫しているような人にとってのほうがこの「覚悟」は困難かもしれない。古来、大きな試練をきっかけに目覚める人が多いのはこのためである。

正しく知覚認識すれば、そこには怖れるべきものなど何もないということがわかる。他人とは自分に危害を加えるかもしれない存在、自分とは別の何か、という見方もしなくなる。そんな見方をして彼らを欺き、欺かれてはならない、と「コース」は言う。しかし、自分が恐怖から解放されたからといって出会う全ての人々があなたと同じようになるわけでもないのである。

たとえば、恐怖から解放された貴方の前に包丁を振りかざした屈強な男が現れた、などという場合はどうなるのだろう?彼は自分と一つである兄弟なのだから「やあ」とか言って握手でもすればいいのだろうか?キリストのように「一見やられっぱなし」になれ、といのだろうか?このあたりも「コース」学習者が疑問に感じたりつまずいたりする点だと思う。

多分「コース」は「応戦するな」とは言わないだろう。これは次回から扱う第12章で大体の説明がなされているのだが、何をもって応じるにしてもまず自分が「攻撃されている」という認識はなく、従って恐怖もないところから生じる行為に違いない。

閑話休題。知覚認識を過つとは一種の自己欺瞞である。そもそも「神によって造られ神と一体である私」という事実を忘れたからエゴが生じ、そこからあらゆる投影と外在化が生じ、その結果として間違った知覚経験が起こっているのだ。ところで、自己欺瞞が可能なのはその当人を措いて他にない。だとしたら真実を見るのも見ないのも専ら当人次第だということになる。神も、その一部である聖霊も欺いたり欺かれたりすることはあり得ない。ならば、覚悟さえ決めて「学ぼう」という意志を持てば、間違った方向に進む危険がなくなる。とはいっても、この「意志」ってちょっと気が緩むとすぐどこかに行ってしまうのだ。だから日々その意志を保つべく努力しなくてはならないのである。それが「コース」学習の実践なのだ。

だいたい、問題を作るのは私たちのほうに決まっているのである。神あるいは聖霊は、問題など何も作らずただ答えを与えてくれるだけである。彼らには「過つ」とか「見誤る」という機能がないのだ。だから、何か困ったことがあったら自問してみよう。

「私は問題がほしいのか、それとも答えがほしいのか?」

まあ、当然「答えがほしい」と思うはずなのだが、答えを求めたい!と決めただけでそれは得られるようになっているのだ、と「コース」は言う。なぜなら神や聖霊が与えるだろう答えは、神や聖霊と実は一体である私たち(というスピリット)の中に既にあるものだからである。

「コース」原書を読んだ人はこの本が長大な上に「具体例が殆どない」ので驚くだろう。いろいろなことが書いてあるけど、具体的に「こういうときはこうしろ」という指示が数多あるスピリチュアル本に比べて極端に少ないので「やりづらい」と思うかもしれない。が、「コース」は自ら「これは実践のための本である」と繰り返し述べている。どんな具体的な・個別的な問題であってもそれぞれに対して答えが与えられる、とも言っているが学習が進めば「個別の問題」など実はないのだということがわかってくる。一見全く関係のない種々雑多な問題でも一皮剥けばみな同じ、なのである。だから答えもそのようになる。

これも繰り返し書かれていることだが、聖霊に導きや答えを求めれば必ず与えられるのだ。それを受け取れないのは私たちが単に「気づかない」だけなのだ、と以前は語られていたのだが、今回はまた別の角度からその事情が説明されている。すなわち、私たちは自分が何を求めているのかわからなくなっているのである。その段階において既に混乱しているのだ。

聖霊に導きや答えを求めるというのはいわゆる「願望実現」とは全く次元を異にしている。あれがほしい、これを与えてください、というのではないのである。ただ「これは何ですか?これはどういうことですか?」と尋ねるだけなのだ。その部分の混乱がまず挙げられる。

もう一つは、キリスト教文化にどっぷり浸かっていない方々にはわかりにくいかもしれないが、あるいはスピリチュアルに馴染んだ方々にはわかりやすいかもしれないが、「何かを求めて与えられるためには、何かを捨てなくてはならない」という思い込みである。まあ、得てして「変化」とはそういうものであり、例えば「新しいものがほしければ古いものは捨てなくてはならない」とか「美しくなるためには醜い自分を捨てなくてはならない」ようなことはまあ当然なのだ。余談だが、ヘーゲル先生など「芽が出て花が咲く」のを「芽が否定されて花になる」と言っているくらいである。芽があるうちは花も咲かないではないか。しかし、これが恐怖になる。霊的に成長するためには何か大切なものを捨てなくてはならないのではないか?ならば、聖霊の導きを受けるのと引き換えに何かを奪われるのではないか?そう考えてしまうのである。

これまでも言われてきたように、恐怖があれば導きも奇跡も得られない。恐怖があれば目が曇ってしまうのだ。だから、聖霊が答えを与えてくれていてもそれがわからない、という事態が生じる。

しかし、その本質として神や聖霊には「奪う」などという機能はあり得ないのである。おまけに、彼らが与えるものとは実は私たちが元々持っているものであり、正確には「与える」というより「思い出させる」だけなのだ。彼らは何も奪わない。が、彼らの導きに従ったことにより私たち自身が「あれ、こんなものは要らなかったな」と気づいて自ら何かを手放すことはあると思う。実際に、何か大切なものを無くしたり奪われたりして苦しんだことが成長のきっかけになるケースは非常に多い。これは巻末の「教師用マニュアル」にも出てくる。しかし、それは別に神や聖霊の仕業ではないのだ!敬虔なキリスト教徒にはそういうことさえ「神の恩恵だ」と捉える人も多いので誤解を招きやすいのだが、どんなにひどい目にあってもますます性格が歪んでいくだけで全然目覚める方向に行かない人もいれば、大して苦しい目に遭わなくても成長することはできる。大切なものを奪われて苦しむ、というのは成長のためのせいぜい十分条件であって必要条件ではない。

だから安心して導きを、答えを求めればよいのである。求めて得られるものは元々自分の中にあるものだけだからだ。そして、自分の認識が変わることを怖れなければよいだけだからだ。

間違った認識によって他者=兄弟姉妹を見誤ってはいけない。それはあなた自身を見誤ることに他ならないからである。神あるいは聖霊は、そしてキリストは見誤るということがない。だからあなたもそのように兄弟姉妹を見て、そのように認識しなさい。それが癒しなのである。どんな人の中にも真理を見ることができるのだからそのようにしなさい。ありのままの現実だけを見るようにしなさい。それが「ほんとうの世界」であり、分離のないそこには病というものが存在しない。

神あるいは聖霊の「答え」の前にはいかなる問題も消えうせるのだ。これはちょっと慣れてくれば実感できると思う。問題が「解決」するのではなく、問題だと思っていたものがもはや「問題」ではなくなるのである。

愛こそが癒しである。自分自身を愛すれば癒される、のだがその「自分」とは「全てと一つであるような」ものなのだった。ならば、自分を愛することは全てのものを愛することに他ならない。癒しも同様である。が、これも誤読されれば「あの人の病気が治らないと私の病気も治らない」みたいなことになってしまう。癒しはマインドレベルでしか起こらない。病んでいる、と見るその認識が既に間違っているのである。

しつこいようだが、大変しつこいのが「コース」の特徴なので我慢していただきたい。自分の中に恐怖がなければ何をされても「攻撃」とは判断しないようになっている。これがまず一点。次に、全ての人を聖霊と見るならば、そして聖霊は神の一部であるならば、更に神には攻撃などありえないという事実を考えるならば、私たちは誰からも攻撃されなどされない、ということになってしまうのだ。攻撃というものがあるときそこに愛はない。愛がなければ癒しは不可能だ。とすれば、攻撃された、と判断・認識しているうちは癒しを経験できるわけもないのである。

またもやしつこく繰り返しておく。誰かの中に攻撃を見るならその人のみならず神をも見誤っていることになり、同時に自分自身をも見誤っていることになる。全ては一つ、という事実はかくも深いのだ。