20年間にわたり独自のタロットリーディングを研究、「運」より「意識」を重視し、あらゆる分野において深い洞察と直観に基づく的確なリーディング、ポジティブで元気の出るリーディングを展開して定評の碧海ユリカによる気づきのヒント集

2010年からは、スピリチュアルの古典「A Course in Miracles(「奇跡のコース」原書を読みつつ解説する試みもスタート、スピリチュアルな考え方の本質に触れるチャンスとしてご利用くださいませ。


公式サイトhttp://www.eureka-aomi.jp/ 携帯専用サイトhttp://www.eureka-aomi.jp/mobile.html

1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2015-12-22 11:11:02

「奇跡のコース」とサイキック能力2

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

奇跡のコース」と サイキック能力

前回の続き、というか補足。

サイキック能力とマインドの成長や救いとの間には因果関係はない、と前回述べた。そういう能力の有無によって学習レベルを測ることはできないし、マインドがそれだけ解放されているとも言えないのである。なぜならば、このような力・現象は往々にしてエゴが作り出すものでもあるからだ。

いわゆるサイキックまではいかなくても、たとえば幽体離脱に代表されるような現象(音楽が聞こえた、天使が見えた、光に包まれたなどなど)を体験したかたもいるだろうと思う。コースのテキストにも時々「この世ならぬ光景」の描写が出てくるのだが、学習者の中には「こうならなくてはいけないのか、こういう状態が来なければダメなのか」と思ってしまう人もいるのだ。結論から言えば「それは学びとは全然関係ありません。この情景は、解放されたマインドに映る世界、本来の世界はこんなにも美しいのだ、ということを表しているだけです」。

そういう経験をする人もいるし、しない人もいる。マインドの成長などには全く関係なく、薬物その他の刺激によって同じような経験をする人もいる。だからダメだ、と言っているのではない。たとえどんなきっかけで「不思議な経験」が訪れたとしても、問題はあなたがそれをどう捉え、どう使うのか?ということだけなのである。つまり、それによってあなたのマインドはどう変わったか?それが何かの気づきのきっかけになって今までとは物の見方が変わり、悩んだり苦しんだりすることが激減し、いつも平和なマインドでいられるようになった、というのならあなたはその経験を有効に活用できたのである。言い換えれば、あなたはその経験を聖霊に委ねて有効に活用してもらえたのである。

光に包まれたり音楽が聞こえたりする現象は「聖霊が与えてくれた」ものなのか?そうだとも言えるし、そうでないとも言える。聖霊が与えてくれた、としてもそれは「天上にいる聖霊さまがあなためがけて与えてくれた」ということではないのだ。これは何度も書いているのだが、マインドが感謝や平和で満たされている=マインドが正しい状態にある=マインドが開かれているのなら、そのときあなた(というマインド)は聖霊とひとつになっている。あなた(というマインド)は、聖霊(これもマインドである)になっている。だからこそ、あなたはそれを聖霊として、聖霊のマインドで経験し捉えることができているのだ。

ところが、そのような経験をしたあとで忽然とエゴがしゃしゃり出てきたりするのである。「これはすごいことが起こった!このワタシのマインドのレベルが上がった!私は覚醒したのだ、悟りを開いたのだ」とか、下手すりゃ「私は聖霊とコンタクトしている!私は特別だ。」みたいになってしまうケースが少なくないのだが、言うまでもなくこうなった時点でアウトなのである。あなたには「そういう自分」を守ろうという新たなエゴ的欲求が芽生えてしまう。

天使が見えたり光に包まれたり音楽が聞こえたり、という現象=経験は学習の成果とは無関係に起こりうるものだ。学習の成果でマインドが開かれたからこそ経験する場合もあるが、寝不足とか薬物とか高熱などの「身体的条件」によって偶然に?もたらされる場合もある。どちらの場合であっても、その現象=経験をどう捉えどう用いるかがポイントなのだ。それこそ、エゴで捉えるか聖霊に委ねるか?である。

何か勘違いして、こういう経験をしたいがために「コース」その他を学んだり瞑想に励んだりしてしまう人もいるのだが、まあ単純に楽しんでみたいのなら別にいいのかな?と思う。ただ、それは間違っても解放や覚醒とは別物に過ぎないのだ。

だから、「私には光も見えないし、天国にいるようなすごい経験をしたこともない。私の学び方が間違っているからだろうか」と不安にならないでいただきたい。

とはいえ、マインドが解放されてくれば知覚にも変化が生じることが多いのも確かなのだ。だが、それはたとえばクラシック音楽を聴いたときに以前とは聴こえ方がまるで違ったりする、とか「時間が止まった」「すごいスピードで動いているはずのボールが止まって見えた」みたいな形であらわれたりするのであって、わざわざ何かが見えたり聞こえたりするというわけではない。

また、大きな気づきはだいたい衝撃的なものに決まっているのだが、それとて必ずしも「不思議な光景」を伴うものではない。というより、特に伴わないことのほうが多いと思う。そういう気づきを経験したことがあるかたなら、このあたりの感覚がよくわかるはずだ。

 

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
2015-11-24 23:03:21

「奇跡のコース」とサイキック能力

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」と サイキック能力

コースの「教師用マニュアル」にも書いてあることなのだが、もう一度おさらいしておこうと思う。

「コース」を学び実践していくうちに図らずもサイキック能力のようなものが開発されてしまうというケースは確かにある。それはそれで問題ないのだが、サイキック能力の開発を目的として「コース」を学ぶとか、あるいはサイキック能力がどれだけ開発されたかを「コース」学習の達成の目安にする、などというのは完全に的はずれであり間違いなのである。

まず、救いや解放とサイキック能力とは基本的に無関係である。サイキック能力そのものは良くも悪くもないのだが、これがエゴと結びつくか聖霊に委ねられるか、要するにどう用いられるかが問題なのだ。サイキック能力があって誰かの病を癒すことが出来る人でも自分はエゴまみれでゆるしも何もない、というケースは多々あるし、ましてやサイキック能力の有無とマインドの成長との間には何の関係もない。当人の幸不幸とも関係がない。サイキック能力とエゴが結びついてしまっている人はエゴが肥大化したりウツになったり、むしろハッピーでないことも多いのだ。

そもそも、なぜサイキック能力がほしいと思うのか?その有無をマインドの成長や開発の度合いと混同してしまっているから、というのもある。また、単純に「そんなものがあったらさぞ便利だろう」というのもある。が、何のために便利なのか?と考えた場合、救いや解放やゆるしのためだと純粋に言える人がどれだけいるだろうか?たいていは我欲のためなのではないだろうか?それによってたくさんの人々を救うため、と言っている場合でさえどこかに「自分は特別でありたい」「尊敬されたい」という思いが隠れているかもしれない。サイキック能力じたいはエゴとも聖霊とも関係ないのだが、サイキック能力を強く求める気持ちはたいていエゴと結びついているものなのだ。

となれば、サイキック能力を開発したいと求めれば求めるほどエゴがのさばり、エゴがのさばれば救いや解放から遠のくということになってしまう。これでは本末転倒ではないか。

奇跡というものは、マインドの条件が揃えば(あるいは、マインドがそういう状態になれば)イヤでも自然にもたらされるものであって、サイキック能力によって引き起こされるようなものではないのだ。奇跡は、特別な人が特別な力によって為すようなものではないのだ。奇跡は、マインドが自然な状態にありさえすれば日常的に普通に起きるようなものなのである。

「コース」学習によってマインドが正され、またオープンになればその結果としていわゆる「不思議なこと」もいろいろ起きるだろう。サイキックに思えることも当然起きるだろう。しかし、それらはいずれも「このワタシ」がやっているのではないのだ。このワタシ、の能力によって起きているものではないのだ。むしろ、このワタシが消えてなくなったことによって自然にもたらされているのであり、言い換えれば「聖霊のわざ」なのである。聖霊のわざ、にも本当にいろいろあって、それはその都度必要に応じて与えられるものなので、場合によってはサイキック的になることもある。ただそれだけの話なのだ。いつもいつもそうなるとは限らない。ゆるし、癒し、救いなどをもたらすことだけが目的なのであって、「どのようにして為されるか」は私たちのマインドではわからないのである。エゴには全くわからない、むしろわかろうとしてはいけないようなことなのである。

サイキック能力は、マインドの解放に伴って現れることもある副産物みたいなものだ。そんなものがなくても完全に救われ解放されて真の幸せを味わうことは完全に可能なのだし、奇跡だって普通にもたらされるのである。

この能力がある人の中には、サイキックをうまく使えているときの自分とそれ以外のときの自分とが全く分離してしまっていて非常に苦しんでいる人もいる。あるいは、エゴのフィルターを通してしかこの能力を用いることができずにどんどんおかしくなっていく人もいる。ともかく、まずはエゴをひっこめるのが先決なのだ。ゆるしによってマインドを正浄化することのほうが先決なのだ。それなくしてサイキック能力を開発しようとするのは本当に危険なことだし、サイキック能力の有無によって「コース」学習の達成度を測るのもまた危険なことである。

 

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
2015-11-10 10:17:21

「奇跡のコース」 我慢について2

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」 我慢について2

我慢するのは「マインドを切り替えるためだけ」である、と前回述べた。要するに、エゴのほうに流されるのをぐっと堪えるということだ。それ以外の我慢は、少なくとも「コース」学習には不要だし、私たちが目指しているのは「我慢すべきことが何もない状態」なのであって、しかもそれはあなたが求めればいつでも「いまここで」即座に得られるものなのである。これを別の言い方で表すと「聖霊に委ねる」になるのだが、別にいちいち「さあ、聖霊に委ねよう」と思う必要もない。下手すると「聖霊に委ねたいのに、聖霊がちっとも現れてくれないんです」などというおかしなことになってしまう。聖霊はいつでも「いまここ」にちゃんといるのだから、構わず委ねてしまえばよいのだ。委ねてしまった後であなたは「聖霊はいたのだ」と気づくだろう。何故なら、あなたはちゃんと委ねられたからである。そして、マインドが平和で満たされたからである。これは聖霊の祝福なのだ。それが欲しければまず自分が祝福を捧げること、たとえば「マインドをとにかく感謝で満たしてみる」ことである。求める、というのが「物乞い根性」ではダメなのだ。

このあたりはワークブックでもたくさん出てくることなので、慣れてくれば簡単にできるようになる。そしてあなたは「何もかもいまここにあったんだ」と気づくようになるだろう。

さて、恐れや怒りその他の「ネガティブな感情」を我慢=抑圧しておくのは良くない、というのでそれらを「解放しましょう」という方法があるが、「コース」のワークブックにはこの手のものは一切出てこない。「コース」が言っている解放はもっとずっと深く本質的なものである。ただ「抑えているものを表に出す=表現する」なんてことではないのだ。「コース」のいう解放とは、解放という作業~動作ではなく、あくまでもひとつの全き状態なのである。ひとつの気づきなのである。思いや感情を表に出す=表現するという意味の「解放表現」を通して、この解放された状態に至ることもある。が、この方法は下手すると「もっとひどくなる」危険をはらんでいる。スッキリするどころか、次々に怒りだの恐れだのが噴出してきてしまって止まらなくなる。こんなにたくさんあったのか!と驚きつつ、それらを全部吐き出してしまいましょう、というやり方もあるわけだが、本当に「止まらなくなってしまう」ことがあるのだ。つまり、怒りやら恐れやらいろいろなネガティブな感情が何週間も何ヶ月も噴出し続けるのである。それも浄化よ、と言う人もあるだろうが、わざわざそんな大変な思いをする必要もないのではないか?

うわー!!と吐き出してああスッキリ、なら問題はないのだが、得にこれを日常の人間関係の場でやると目も当てられないことになりかねない。

ところが、ごく稀なことだが、愛が怒りや悲しみなどという表現を通して現れることもあるのだ。もちろん、見かけでは区別がつかない。それどころかやっている本人にさえも区別がつかない。愛が怒りや悲しみなど一見はネガティブな形をとって現れる、これは

やろうと思ってできることではないからだ。今から私は怒りという形で愛を表現します、なんてことは絶対に無理である。

ネガティブなものを通して愛が表現される、こんなことがどうしてありうるのかといえば、表現というものが単なる「形」に過ぎないからだ。この世のもの、つまり幻に過ぎないからだ。そして、そういうものは全て聖霊によって有効利用されうるからだ。

怒りが爆発したり泣き喚いたりして、ハッと我に返って「しまった、とんでもないことをした」と思ったにもかかわらず、それがきっかけになって相手が心を開いた、みたいな経験をした人もあるだろう。だからといって「じゃあ次もそうやってみよう。怒りや悲しみをバーンと表現するのは有効なんだわ」などと考えて同じことをやってみても、次はうまくいかないのである。何故なら、先程も書いたようにこういうことは「やろうと思ってできる」わけではないからである。

おかしな言い方だが、純粋や怒りとか純粋な悲しみなどというものは限りなく愛に近いというか愛のひとつの形なのかもしれない。そこに恐怖や罪悪感が混じっていない、相手に罪悪感を抱かせようなどという気持ちも混じっていない、純粋な怒りや悲しみというものもあるのだ。そして、私たちはそういう怒りや悲しみを抱くことを恐れ、それこそ「抑圧」

してしまうのだ。何故なら、それが愛だからであり、エゴは愛を恐れるからである。

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)
2015-10-27 10:31:45

「奇跡のコース」学習 我慢について

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」学習 我慢について

「コース」学習をしている方から「こんなに嫌なことも我慢しなくてはならないんですか」みたいなことをよく聞かれる。我慢は良くない、我慢はしないほうがよい、のではあるが、それはいわゆる「我慢」が抑圧に直結するからである。怒りやら悔しさやら不安などが沸き起こったとき、それを相手にぶつけずに心の中だけのことにしておくのを人は「我慢」という。感情を表に出さず心の中にとどめておく、あるいは心の中でそれらの気持ちを抑えつけておく、そういうのを我慢と呼んでいる。これら両方とも「コース」学習の見地からはNGなのである。

そもそも「我慢する」とは、「嫌なことを我慢する」に決まっている。我慢するからには、あなたには「嫌なこと、辛いこと」があるはずなのだ。その「嫌なこと・辛いこと」をそのままにしておくのがもうアウトなのである。

「コース」学習では、「嫌だ、辛い、苦しい、不安だ、頭に来る」などなどマインドを乱すあれこれの感情じたいを解放する必要がある。もっとわかりやすく言えば、あなたにそういう感情をもたらした「判断」から変える必要があるのだ。何であれ、まずあなた(のマインド)が「ひどい、頭に来る」などという判断を下したはずではないか。それらを別に「ひどい、嫌だ、頭に来る、不安だ」と思うようなことだと判断しないという選択もあったはずではないか。そういう判断をしない選択もあった、即ちそれらは全て自分の判断しだいなのだと気づくことが「コース」学習のひとつのポイントなのである。

とはいうものの、大抵の場合あなたの感情は反射的である。選択する余裕もなく、反射的に何かの判断を下してしまい、そこから派生する感情に襲われる。ここまではどうにもならないと認めてもよいと思う。

しかし!「コース」学習者はここからが違うのである。普通の人はそれらの感情に流され、どんどん正気を失いエゴに支配されていくのであり、その帰結として「ますます駄目になる」のだ。そうならないようにするのが「コース」学習の日々の実践なのである。

自分がいわゆる「ネガティブな感情・思い」を抱いているということくらいは誰だって自覚できるだろう。そうしたらここで「いったん止まって堪える」のだ。それ以上流されないように踏みとどまる、「こらえる」のだ。こういう意味での「我慢」ならば「コース」学習の上でも大いに必要だし役に立つだろう。だが、そのまま抑え込んで溜め込むのではなく、ここでマインドを切り替えるのである!これが何より重要なポイントだ。

正当化や理由付けは後回しでよい。とにかく、一刻も早くマインドを正しい状態に戻さなくてはならない。そのためにはとりあえず何でもいいから「マインドを感謝と平和で満たす」のがもっとも手っ取り早い。何に対して何について感謝する、なんてことはどうでもいいのである。ただ「心の底からありがとうと思ってみる」だけで十分なのだ。そうするとこわばっていたマインドの力が抜けてハアーっと息が吐ける。自然に深呼吸のような感じになり、マインドがスーっとするはずだ。そのとき、あなたのマインドにはもう苦しく辛いこと、頭に来ること、不安なことはなくなっている。つまり、我慢すべきことなどもはや一つもない状態になっているのだ。

これも「ゆるし」の一種であり、あるいはそれこそ聖霊に委ねた状態でもあるのだが、ここまでやっても「コース」初心者だとすぐに元の「ネガティブな状態」に戻ってしまうことが多いようである。それでもいいのだ。そうなったらまた同じことを繰り返せばよいだけの話なので、バカバカしいと思うかもしれないが、まあ一日中ひっきりなしにこの作業を繰り返すわけである。「コース」を日々実践する、とはそういうことでもあるのだ。こうしているうちにだんだんこの作業が習慣化してくる。一回やれば最初のうちより長い時間マインドを正しい状態に保てるようになる。あるいは、ネガティブな感情に襲われることじたいが少なくなる。

更に、こういう作業を続けている間に「聖霊に委ねるとは何とすごいことなんだろう、何とありがたいことなんだろう」という気づきも訪れるだろう。こうなればあなたはもう努力なしにこの作業ができる。あ~またやらなきゃ・・・なんて思わなくても、やらずにはいられなくなるのだ。そして、あっという間にマインドが平和になる!

嫌なこと、辛いことなどを「我慢」するのではない。何かを「嫌だ、辛い、頭に来る、不安だ」と思ってしまったそのマインドを正すのである。うっかりエゴを選んでしまってもいったん立ち止まって堪え、聖霊を選び直せば万事解決!ぜひぜひ試してみてください。

 

いいね!した人  |  リブログ(0)
2015-10-13 23:04:29

「奇跡のコース」とエゴの抵抗10 判断

テーマ:奇跡のコース学習についてあれこれ

「奇跡のコース」とエゴの抵抗10 判断について

前にも書いたのだが、「コース」をやっていて(あるいは「コース」の教えに即して生きようとしていて)「これでいいのか」「これはどういうことなのか」「これはどう捉えたらいいのか」などという判断ができなくて困ることがある。自分で判断できないから聖霊の導きを得ようとして、いくら待ってもそれらしいことは起こらない。どうしてよいかわからなくなり、そのまま何となく挫折してしまうというケースがある。

まず、「判断」とは基本的にエゴの機能だということに留意しておいてほしい。もちろん、聖霊あるいは純粋理性による「正しい判断」というのもあるのだが、これはエゴから見ればとても信じられず受け入れられないくらいにシンプルなものなのだ。エゴには想像もつかないような角度から見るものなのだ。最初からこれができるくらいなら誰も苦労はしないわけで、「聖霊~純粋理性で判断しなさい」と言われてもたいていの人はますます困るだけだろう。

どうしていいかわからない、と思える人はまだ良い。明らかに自分が間違っているのに、そのことに気づけなかったり、明らかに自分の間違いが招いた失敗なのに「聖霊の導きだ」「これには意味がある」と思ってしまったり、要するに自覚のないままエゴに支配されてしまうケースもあるのだ。こちらは自覚がないぶん、あるいは自覚したくないぶんいっそう厄介なのである。とはいえ、こういう人々も実際問題としてはいろいろな壁にぶつかっているはずなのだ。それを正しく捉えられず、どんどん深みにはまってしまうのである。

どんな場合でもリーディングは有効である。マインドの状態がかなりクリアに出るので、方向を正すのには役立つと思う。が、いつもいつもリーディングを受けられるわけではないだろうし、こういう問題を自力で解決するにはどうしたらよいか?

まずは「ワークブック」を手放さないことである。マインドがどんなに迷っていても、毎日定期的にワーク(実習)をやっていればマインドがおかしな方向にどんどん落ちていくのは食い止められるのだ。何故なら、少なくともワークをやっている瞬間のマインドはほぼ正しい状態におかれているはずだからである。たとえそれを保てなかったとしても、数時間後にまた実習をすればそれ以上深みにはまるのは食い止められるのである。言うまでもなく、「ワーク」をしている最中はあらゆる迷いも不安も全て脇にどけておくことが肝要だ。

次に、「テキスト編」にも書いてあるのだが「私たち・・・エゴとしての私たち・・には何もわからないのだ。私たちは何一つわかっていないのだ」という事実を受け入れること。これは全くそのとおりであって疑問の余地もないのだが、おそらくたいていの人にとって「自分は全く何もわかっていない」という状態で日々を過ごすのはなかなかキツイことかもしれない。が、ここはどうしても肝心なところなのだ。エゴは「わからない」という状態に耐えられない。だから、どんなものでもいいから結論めいたことを強く欲するのである。それがたとえ間違った結論であろうが、自分にとって不幸なものだろうが、もう何だっていいのだ。そうして「間違った結論」を信じることによって、つまり「間違った判断」を信じることによってますますおかしな方向に落ちていってしまうわけである。

「自分には何もわかっていない」「まだわからない」というのは普通に考えても十分に救いなのではないかと思うのだが、エゴに支配された人にはそれがわからないようなのだ。「わかっていないのだ」と判断保留にしておいて「ワーク」でもやっていれば、ひょんな時にひょんなところから「答え」がやってきたりするものである。それこそが聖霊の導きであり答えなのだ。

実を言うと、このような聖霊の答えや導きはひっきりなしにあなたの目の前に来ているのだが、マインドがそれを認識できる状態にない限りあなたは全くそれらに気づくことができない。マインドが絶えずオープンになっていれば、何かあってもあなたはすぐに「聖霊の導き」を受け取ってマインドを正常に戻すことができるだろう。そこで初めて「あ、こうだったんだ、そうなんだ」という判断が普通にできるわけなのである。エゴに支配されたアタマでいくら考えたってろくなものは出てこない。下手の考え休むに似たり、どころか、こんなだったらマインドを休めて(=判断をしない、考えない)いたほうがずっとマシなのだ。

いま自分が見聞きしていることが聖霊のメッセージなのか、単なるエゴの思いの投影なのかわからない、という時もまずは判断保留である。この「判断しない」という状態に慣れていただきたい。不安なくこの状態をキープできるようになっておくのはとても重要なことなのだ。ただ判断しないだけでいるのは不安だというのなら、その時こそマインドを「理由なく感謝と平和で満たしてみる」のである。これも最初のうちはなかなか骨が折れるかもしれないが、無理してでもやってみること。とにかく「逆さまの世界」の住人である私たちなのだから、多少は無理をしないと「逆さま」から抜け出すことなどできないのである。

自分の間違いによって起こった災難を「これには意味があるんだ」「神あるいは聖霊が与えてくださったものだ」と捉えるのもおかしいのであって、神や聖霊があなたに災難を与えることはないのである。あなたに起こること全てを救いと解放のために有効利用する、というのが聖霊の役割・機能なのであって、現象じたいを与えるなどということはないと思ってよい。起きたことに「どういう意味があるか」も、予め決められているわけではない。どういう意味を持つものにするか、どういう経験にするか、それはあなたの選択しだいなのである。聖霊に委ねれば有効利用される。そして、聖霊に委ねるためには「自分で判断しない」ことが肝心なのだ。あなたの判断は聖霊の邪魔になるだけである。どうしても判断したいのなら「これは自分にとって良いことだから感謝しよう」くらいになろうが、その「良い」というのが「どういう意味で、どういう理由で」よいのか?それは今のあなたにはわからないはずだし、わからなくて良いのである。

今回の要点は「判断しないという状態に慣れること」また「自分が間違っているなら喜んでそれを認めて正そう、という姿勢を保つこと」である。マインドがオープンであるとはそういうことなのだ。

いいね!した人  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。