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 「山のサンタ・マリア教会」は1600年に立山の地に建てられ、翌年には「サン・ミゲルの墓地」が併設されました。他の長崎の諸教会同様1614年の禁教令で破壊され、跡地に幕府大目付・井上筑後守政重の屋敷が建てられました。さらに1673年には長崎奉行所・立山役所が設置されます。

 この場所は長崎歴史文化博物館建設の事前調査が行なわれました。山のサンタ・マリア教会自体の明確な遺構は立山役所建設時に破壊されているため確認されていませんが、石組み地下室、石組みの側溝を持つ玉砂利敷き遺構(墓地へ通ずる舗装路か、教会破壊後の整地と考えられています)と、花十字紋瓦を含む瓦類、陶磁器、メダイ、ガラス玉(ロザリオ?)などの遺物が出土しました。


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 博物館の2階、レストラン銀嶺の横に広がる中庭の一角に碑や銅像がまとめ置かれた場所があり、その中に「山のサンタ・マリア教会跡」の碑も置かれています。

 
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 博物館の南面に発掘された立山役所正門がそのまま保存、復元されています。石垣、石段、石畳の自然の色をした部分は発掘でみつかったままで、それより上が復元になります。


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 復元された立山役所の正面玄関。博物館側から内部を見学することができます。この御白洲はキリシタン取り調べの場所でもありました。没収された様々なキリシタンの所持品が長崎奉行所の管理下にあり、そこには浦上信徒やシドッチの所持品も含まれていました。後にこれらの管理品は国の機関に移管されて、1977年に国の重要文化財(東京国立博物館蔵)に指定されます。復元立山役所ではそのうちの一部を展示しています。(立山役所ゾーンのキリシタン遺物は写真撮影が禁じられています。)


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 博物館は「南蛮貿易とキリスト教」から始まり、長崎の近代までの歩みを分かりやすく解説展示しています。

 1570年にアントワープで刊行されたAbraham Orteliusによる「Asiae nova descriptio」。豊後、都などが一つの大陸に描かれていますが、「土佐」と記されている四国は島として認識されています。(リンク先から拡大画像を見る事ができます。)


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 学生時代を懐かしみ、ついつい足を止めてしまう洋学関係の和書。

 この近くに、新島八重さんが使っていたのと同型のスペンサー銃が展示されていて、ちゃっかりそのことをアピールしてました。

 一通り見終えて館を後にします。再び猛暑の中へ。


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 博物館からすぐの場所にある西勝寺。イエズス会日本管区長代理だったクリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)が1633年に穴吊りで信仰を捨て去った際の署名入り「ころび証文」を所蔵しているお寺です。
 この証文は非公開なので、通り過ぎます。

 このフェレイラが棄教した時、共に穴吊りに架けられていた者たちの中に天正遣欧使節であり殉教者の中浦ジュリアン神父がいます。


(つづく)