私は、数十年前、
会社の新入社員研修のお世話をしたことがありまして、
その時、当会社社長と故知であった大変人気のお相撲の元立行司、
式守伊之助さんを講演者としてお迎えしました。
そのお話しは、
お相撲の伝統のお話しや、様々な角界のエピソード、名勝負の舞台裏、
そしてご自分の半生についてなどなど。。
けれども、、ご本人のある戦争経験の話にさしかかり、
その場の一同は、みな息を呑みました。
式守伊之助さんは、出征し、中国の南京での
ある自己の恐るべき体験談を話し始めたのです。
「みんな鬼になっていた。」
「それはもう、色んな悪いことをした。
わたしは、上官に命令されて、
お腹に赤ん坊のいるクーニャンの腹を銃刀で刺しました。」
「ごめんなさい。堪忍して下さい。
ときどき出ていらっしゃるのに、いまも手を合わせているのです。」
「みなさん、戦争はいけない。
どんなときも、戦争にならないように、ふんばって、のこってください。」
・・そう言って、最後に、
「のこっ~たのこったのこったのこったのこった!」と
軍配を挙げて、年季の入った立行司の鋭い掛け声を聞かせて下さいました。
・・泣いている新入社員も多くいました。
おそらく、式守伊之助さんが、
あえて自らの最も暗い血塗られた過去を打ち明け、語られたかったことは、
時勢が有事に傾くことがあっても、絶対に戦争をしてはいけない!
そう若者たちに強く伝えたかったのだと思います。
この式守伊之助さんの貴重なお話しは、
おそらくは、「南京虐殺」に類するものなのではないかと思っています。
衝撃的な実体験談を聞き、時は経ちました。。
そして、
今まさに、戦争が始まるかもしれないという気配を感じています。
式守伊之助さんは、天寿を全うされ、すでにこの世を去られましたし、
ご本人が、公の場で自ら語られたお話しなので、
彼が身を挺して教えて下さったことを、皆さんにもお伝えしたいと思います。
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そして、もうひとり・・
芥川賞作家の石川達三さんが、南京占領直後に、
自分の目で見た惨状について書いた書物を発禁、処罰され、
その後、インタビューを受けた記事があります。
ネットには、日本軍の南京虐殺を否定する情報が氾濫するようになりましたが、
このような身を切る時代の証言者の声を無視して、
なぜこうも今、旧日本軍を正当化しなければならないのか?
戦争とは、かくも人間を残酷にするものなのです。
政府の軍事国家化のプロパガンダに踊らされてはいけません。
日本人も中国人も、すべての戦争の犠牲となった方々の
魂の安寧をお祈りします。
============== 転載 ==============
石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、
中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。
南京入りは1月5日のことです。
石川氏は1月帰国後、自分の目で見、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、
小説「生きている兵隊」を著しました。
この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、
「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として
発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、
禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。
石川氏は、兵隊たちへの取材を通して、
南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。
以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。
「読売新聞」昭和21年(1946)5月9日
(見出し) 裁かれる残虐『南京事件』
(リード) 東京裁判の起訴状二項「殺人の罪」において国際検事団は南京事件をとりあげ日本軍の残虐行為を突いてゐる、 掠奪、暴行、殴殺、■殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、 このころ南京攻略戦に従軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”ことを痛感しそのありのままを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きている兵隊』だ
しかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけた いま国際裁判公判をまへに”南京事件”の持つ意味は大きく軍国主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に当時の思ひ出を語つてもらふ
(中見出し)河中へ死の行進 首を切つては突落とす
(本文)
兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―
"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した
戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか
ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた
何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ
(「読売新聞」昭和21年5月9日付 2面中上 リード4段、見出し3段)
*■部分は、2か所とも「殴殺」に見えるのですが、字が潰れていて自信が持てないため、
とりあえず■で表示しました。