Will You Be There②~ヨブ記 | ☆Dancing the Dream ☆

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ヨブ記とは――
『旧約聖書』のなかの代表的な知恵文学の一書で、紀元前5世紀ごろのパレスチナにおいて完成された。
ヨブ記」の構成は次の三部分からなっている。
プロローグ(1~2章)、詩文による三友人との弁論(3~42章6節)、エピローグ(42章7~27節)。
この序章と終章の散文部分の原型は、パレスチナ周辺に伝えられていた「ヨブ聖徒伝説」に求められる。(Yahoo!百科事典より)


このヨブ記の物語を書いた作者は、
ユダヤ教の伝統では、エジプトから脱出したモーセであったとされているが、
実際は、いまだ不明の、いわば「パレスチナX」なのだDASH!
パレスチナX!!天才!!

旧約の中では、超異色な
鬼気迫る極限的な「神との対決」が現れていて、
ものすごく面白い!

遠藤周作の「沈黙」、ミルトンの「失楽園」、ダンテの「神曲」、
ゲーテの「ファウスト」、そしてドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」
ゴッホの「ひまわり」…
多くの芸術家が、ヨブ記に魅かれ、インスピレーションを得てきた。
マイケルジャクソンの「Will You Be There」も、
パレスチナXの描いた「ヨブ記」の系譜の作品ではないかと思う。


Will You Be There
written by Michael Jackson


Hold me
Like the River Jordan
And I will then say to thee
You are my friend

わたしを抱きしめてください
ヨルダン川のように
ならば、我、汝に言う
あなたはわたしの友人だと


Carry me
Like you are my brother
Love me like a mother
Will you be there?

わたしを支えてください
あなたはわたしの兄弟のように
わたしの母のように愛して
わたしと共にいてくれますか?


Weary
Tell me will you hold me
When wrong, will you scold me
When lost will you find me?

疲れきってしまった時
語りかけ わたしをを抱きしめてくれますか?
まちがったら わたしをを叱ってくれますか
わたしが道に迷ったら、探し出してくれますか?


But they told me
A man should be faithful
And walk when not able
And fight till the end
But I'm only human

でも、彼らは言うのです
男は信念を持たねばならないと
そして 無理にでも歩くのだと
そして 最後まで戦い続けるのだと
でも わたしはただの人間なのです


Everyone's taking control of me
Seems that the world's got a role for me
I'm so confused will you show to me
You'll be there for me
And care enough to bear me

みんながわたしを操ろうとするのです
どうやら世界は、わたしに役割をおしつけたようです
わたしは混乱しているのです 示してくれませんか?
あなたはわたしのために そこにいてくれますか?
そしてわたしを大事に守り 受け入れてくれますか?


(Hold me)
(Lay your head lowly)
(Softly then boldly)
(Carry me there)

(わたしを抱きしめて)
(頭を低く垂れて)
(そっと、そして大胆に)
(そこへわたしを運んで)

(Hold me)
(Love me and feed me)
(Kiss me and free me)
(I will feel blessed)

(わたしを抱きしめて)
(わたしを愛して、育んで)
(わたしにキスして、わたしを自由にして)
(わたしは恵みを感じるでしょう)


(Carry)
(Carry me boldly)
(Lift me up slowly)
(Carry me there)

(運んで)
(わたしを大胆に運んで)
(ゆっくりとわたしを抱き上げて)
(わたしをそこへ運んで)


(Save me)
(Heal me and bathe me)
(Softly you say to me)
(I will be there)

(わたしを救って)
(わたしを癒し、わたしを清めて)
(わたしにやさしく言って)
(共にいてくれると)


(Lift me)
(Lift me up slowly)
(Carry me boldly)
(Show me you care)

(わたしを引き上げ)
(やさしくわたしを抱き上げて)
(大胆にわたしをを運んで)
(わたしにあなたの慈しみを示して)


(Hold me)
(Lay your head lowly)
(Softly then boldly)
(Carry me there)

(わたしを抱きしめて)
(ゆっくりと頭を垂れて)
(やさしく そして大胆に)
(わたしをそこへ運んで)


(Need me)
(Love me and feed me)
(Kiss me and free me)
(I will feel blessed)

(わたしを必要として)
(わたしを愛して、育んで)
(わたしにキスして、わたしを自由にして)
(わたしは恵みを感じるでしょう)


In our darkest hour
In my deepest despair
Will you still care?
Will you be there?
In my trials and my tribulations
Through our doubts and frustrations
In my violence
In my turbulence
Through my fear and my confessions
In my anguish and my pain
Through my joy and my sorrow
In the promise of another tomorrow
I'll never let you part
For you're always in my heart

わたしたちの一番暗い時、
わたしが絶望の底にいる時、
あなたはそれでもわたしを気遣ってくれますか?
共にいてくれますか?
わたしの試練や苦難の中でも、
疑いや不満を超えて
自暴自棄になり、
混乱しても、
わたしの恐れや懺悔を通り抜けて
わたしが苦悩と痛みの中にあっても、
わたしの喜びと悲しみを超えて
あたらしい明日の約束の中で

わたしは決してあなたを離しません
あなたはいつも、わたしの心の中にいるのですから


===============

ヨブ記のあらすじ――
ある裕福なヨブという男がいた。彼は無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきた人間だ。
ある日、このヨブさんについて、神とサタンが話している。
神が、ヨブさんの信仰を褒めるのを聞いたサタンは、「ヨブが信仰深いのは財産に恵まれているからで、財産を奪ってしまえば呪い出すに違いない」と言い返す。
そこで神は、サタンにヨブさんの全財産を奪い取ることを許すのだ。
ヨブさんは、何千頭といた家畜も、使用人も、すべて殺されたり略奪されたりしたあげく、十人いた子どもたち全員を、大風による家屋の倒壊で一瞬にして失う。
しかし、それでもヨブさんは神を呪うことをしない。。。

サタンは「今度はヨブの体を痛めつければどうか?」・・・ともちかけ、
神の許可を取って、ヨブさんの全身を悪性のひどい腫れ物で覆う。
それでも、ヨブさんはあくまでも神を呪わない。。。

そこへ三人の友人がヨブさんの見舞いに訪れる。
彼らはヨブさんを慰めに来たはずなのに、彼の嘆きを聞いているうちに、
神を冒涜していると思ったのか、ヨブさんを批判し始めるのだ。
「ヨブさんの災難は、神に対して何か隠れた大罪を犯したからではないか?
早くそれを認め、神と和解しなさい!」と責め立てる。これがユダヤ教の古典的な教訓なのだ。
ところが、ヨブさんは断固として、自分はこんな災難にあうような大罪は犯していないと主張したため、友人たちとの長い長い議論が始まる。

ヨブさんは、、3人の友人と果敢に論争し、、「君たちは慰めのふりをして苦しめている」「役にたたない医者だ」と、友人たちをなじる。「黙ってくれ、私に話をさせてくれ。たとえどんなことがふりかかってもいい」と絶叫した。
「神に逆らうものが幸福に暮らし、平穏な一生を終える一方で、神に従うものが不幸のどん底に突き落とされて顧みられない…それはなぜか?」と壮絶なヨブさんの疑念が燃え上がる。
「私が話かけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい!!」と断固と言う。友人たちもいきり立ち、「ヨブさんの不幸の源泉は、ヨブの罪にある!」と決めつけるのをやめない。議論が行き詰まった。。。

ヨブさんはすでに何度も神に跪き、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいと懇願してきたのである。自分が公平に裁かれているのなら、その報いをうける覚悟はあったのだ。けれども神は沈黙したままにいる。
なぜ神は、何も言おうとしないのか。
こうしてヨブは神に対し絶望の究極に向かっていく。

そのとき、突然、嵐の中から主ヤハウェの大音声がついに聞こえてくる。

「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて、神の経験を暗くするとは。
男らしく腰に帯せよ。
わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。
全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責めたてる者よ、答えるがよい。」

「お前はわたしが定めたことを否定し
 自分を無罪とするために
 わたしを有罪とさえするのか。」と。


ヨブさんは、
「神がわたしに非道なふるまいをし
 わたしの周囲に砦を巡らしている。
 不法だと叫んでも答えはなく
 救いを求めても、裁いてもらえないのだ。」とまで言い、訴えたのです。。

しかし、臨在した神の言葉に
「わかりました。あなたは何でもおできになる方。それなのに私は、分かりも知りもしない不思議について、語ったことになります。今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」と頭を垂れるのだ。

そして、3人の友人には神の訓戒がくだされ、
神はヨブさんの財産を前の二倍に戻し、新たに十人の子どもを与える。
ヨブの生涯は前より祝福され、ヨブは長生きして子、孫、四代の先まで見届け、
140歳まで生きながらえた。


===============

心理学者のユングは、「ヨブの答え」という本で―――
ヨブが見たものは、神の野蛮で恐ろしい悪の側面で、
神は、威張り屋で、うぬぼれが強い。。
神は、煩悩だらけなので、だからこそ、この世のキリストになって生まれ変わった。
そして、全ての人間の罪をかぶり処刑され、復活した――と分析する( ´艸`)
ユング!! めちゃくちゃ独創的!!∑ヾ( ̄0 ̄;ノ

沈黙を破って怒り狂う神は、「なぜ正しい人が不幸にあうのか?」という
ヨブさんの問いには直接答えていません。。。
ただ自身が創造主であることを語って雷を落とす雷親父のようでもありますね。

いやいや、人が対話する神とは、
「神=鏡に映ったもの」「神=自分本来の姿」なのかも?
例えば、神道の御神体が「鏡(八咫鏡)」であるように。

そう考えると、ユングが、暴き出す「神の煩悩」とは、
人間が無意識の中に沈めて隠している「人間自身の煩悩」である。
ユングのいうことが、全く突飛でもなく、納得できる。

親鸞の「悪人正機」の、
「悪人」というのは、ただ、「私たちのありのままの姿」を表現した言葉だと言う。
人は「永遠の魂」「永遠の命」というものを求め、今のみじめな自分を離れた、
光り輝く「本当の私」を探して、苦行や冥想や儀式を行なっても
誰一人として光り輝く「本当の私」など発見できなかった。汗
それに対してお釈迦様は、ただ一人、「ありのままの自分」を観察することに
挑戦し、その結果、「私の本当」「私の本当の姿」というのは碌でもないと悟り、
その瞬間、一切の執着から、こだわりから、心が離れて解脱した。
「私の本当」に執着すべきものなど何もない、捨てるに徹することで、
自由にいたるのだ。―――ということです。


ヨブさんが、雷鳴と共に見た神が、
ユングの言うように「野蛮で恐ろしい悪の神(=本来の自分)」だとすると、
ヨブさんが、「悪人=本来の自分」を悟って、
「(古い)自分を退け」解脱し、新しく生き直していったのかもしれません。


マイケルの「Will You Be There」
ヨブさんと同じように「あなたは、そこにいてくれるのか?」と問い続け、
最後に「あなたはいつも、わたしの心の中にいる」という。
ヨブさんは、最終的に子孫繁栄、富、長寿が与えられたが、
マイケルジャクソンも、今もファンを増やし続け、富を得、生きていると言える。


「わたしたちの一番暗い時、
わたしが絶望の底にいる時、
あなたはそれでもわたしを気遣ってくれますか?
共にいてくれますか?
わたしの試練や苦難の中でも、
疑いや不満を超えて
自暴自棄になり、
混乱しても、
わたしの恐れや懺悔を通り抜けて
わたしが苦悩と痛みの中にあっても、
わたしの喜びと悲しみを超えて
あたらしい明日の約束の中で

わたしは決してあなたを離しません
あなたはいつも、わたしの心の中にいるのですから」