Will You Be There③~ヨルダン川~中東の歴史 | ☆Dancing the Dream ☆

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       わたしを抱きしめてください
       ヨルダン川のように


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中東の歴史。。
Tanemo氏のが、とても解り易かった。φ(.. )
ややスリムにして、ほぼ転載します。

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第1章 そもそもの始まり
 ガザ地区とは、入植地とはいったい何か? それを撤退することにどのような意義があるのか? 
 おそらく、そう云った「何故」の答えを解くためには、およそ三千年の時を遡らなければなるまい。
 今起こっていることを理解するためには、そこに至った過程をたどることしか他に手段はなく、それが個人的な事柄であれば、せいぜい人の一生程度の時間を遡ればこと足りるが、社会的や国家的の事情を真に知るためには、やはり数百年、数千年のスパンで物事を捉える目が必要となるのである。
 それではこれから古い歴史の旅に出てみよう。およそ紀元前10世紀ころからの話になる。
 この時代について疑問を解き明かすキーワードは「パレスチナ」「イスラエル」「ユダヤ人」

 パレスチナと聞けば、PLOとか、パレスチナゲリラ、あるいはアラファト議長と云ったところが連想されるのではないか。それはそれで正解であるが、パレスチナと云うのは実は地名である。その場所は、と云う前にいったん中東の地理について、おさらいをしておいた方が良いだろう。

 ユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながる地点にスエズ運河がある。その東側のシナイ半島を含め、アフリカ大陸側に広がるのがエジプト、さらに西にはリビア、アルジェリアと続く。エジプトから紅海を東に望むとアラビア半島があり、その大半の領地を占めているのがサウジアラビア。半島の突端には、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメンの各国。サウジの北側に接しては、クエート、イラクがあり、その東はイラン、アフガニスタン、パキスタンと続く。イラクの北側、黒海沿岸までがトルコ。それらに囲まれて地中海の東岸に接する比較的狭い地域に4つの国があり、それぞれ、シリア、ヨルダン、レバノン、そしてイスラエル。こう云ったところが概ね中東と呼ばれる地域である。

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 その中でパレスチナ地方とは、イスラエルとヨルダンとの国境にある死海、そこへ流れ込むヨルダン川、それらと地中海東岸を挟んだ一帯の地域のことである。上でおさらいした地理によれば、”比較的狭い地域に4つの国が”と述べた、そのさらに中心あたりの場所。主要な都市としてエルサレムがある。
 なお、パレスチナという名称は、紀元後に古代ローマ帝国が蔑視的に名付けたものであり(これについては後述する)、それ以前のこの地方は「カナン」と呼ばれていた。

 紀元前12世紀ころ、その地において、エジプトから渡ってきたユダヤ人と地中海方面から渡ったきたペリシテ人とのあいだに対立が始まっていた。
 その争いは最終的に、ダビデ王に率いられたユダヤ人側が勝利を収め、ここにイスラエル王国が建国されたのである(紀元前約10世紀頃)
 つまり、パレスチナの地に、ユダヤ人が自らの国、イスラエルを築いた。これが「そもそもの始まり」であり、あらゆる問題もまたすべてそこから始まったと云って過言ではない。

 キーワードのひとつである「ユダヤ人」とはいったい何か? と云うことはひとまず置いて、もう少し時代を先に進めてみよう。

 ダビデ王とその子ソロモン王の時代には多いに繁栄したイスラエルであったが、その後は、北イスラエル王国とユダ王国とに分離。互いに小競り合いなど続けるうち、前者は紀元前7世紀頃、後者は同じく6世紀頃にそれぞれ滅亡を迎えてしまう。歴史上有名な「バビロン捕囚」とは、ユダ王国の滅亡に際し、新バビロニアによって捕らえられた捕虜のことである。
 そうして、これが「第2のそもそも」なのである。結論を先に云うと、「ここに祖国を失ったユダヤの民は、いつの日にか再びその地に帰ることを誓いながら世界各地へ散っていった」と。
 さらにもうひとつ結論を述べれば、現在云うところの「パレスチナ問題」は、この「第2のそもそも」を源として現代に噴出した紛争なのであって、つまり二千数百年の時を経て、ついにユダヤの民はその誓いの実現にこぎつけた。しかしそれは元々パレスチナに暮らす住人の怒りと悲しみを代償に手に入れた栄光だったのである。

 さて、それでは、第3のキーワード「ユダヤ人」について。
 実は「ユダヤ人」とは何かと云う定義は、意外に難しい。歴史で云うところのユダヤ人と現在のそれを同じに考えると非常に話がややこしくなる。
 とりあえず、歴史上の観点からだけ述べると、前述「そもそもの始まり」に登場しているのが歴史的ユダヤ人だと云ってよい。ただ彼らは一般的にユダヤ人の定義とされる「ユダヤ教を信仰する民族」でもない。なぜならこの時期、彼らの信仰していた宗教は、未だユダヤ教とは云えない「ヤハヴェ信仰」と呼ばれるものだったからだ。
 それでは、ユダヤ教とはいったい何か? 



第2章 宗教の成立
 本章では中東の歴史を主に宗教上の観点から述べてみる。
 キーワードは「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」である。

 まず、前章で中途にした「ユダヤ人」についてであるが、その定義をここで再度はっきりさせておこう。

 紀元前の世界においては、彼らユダヤ人は自らの王国イスラエルをカナン(パレスチナ)の地に築き、ある一定の繁栄を得た。一般に古代国家は神との結びつきが密接であるが、彼らもまた、ヤハヴェ(エホバ)という唯一神を熱心に信仰する信徒であり、実際、ユダヤ人にとってのイスラエルとは、神ヤハヴェから約束された聖地に他ならなかった。

 前章の終わりに述べた「ユダヤ人とは」を思い出してみよう。それは「ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰する人々である」と云うものであった。しかし、古代イスラエル期には、まだユダヤ教自体が存在しておらず、その成立は彼らの王国が滅亡する時期まで待たなければならなかった(前章にも挙げたバビロン捕囚がその基礎をつくったとされる)
 そうすると、先の定義から、ユダヤ教徒すなわちユダヤ人とは、祖国の滅亡後、世界各地へ散っていった人々と云うことになる。故国もなく世界中のあらゆる人種の人々に混じりながら、それでも唯一共通の宗教を信仰する人々。しかし考えてみればこれは奇妙な話である。なぜなら、「ユダヤ人とは民族ではなく宗教団体である」と云う説も成り立ってしまうからだ(現代における実態としてこれはある程度正しい)
 ただ、当のユダヤ人はと云えば、自身がユダヤ教徒であることはもちろん、自らのことを誇りあるユダヤ民族と信じ疑っていない。それは、ユダヤ人のもうひとつの定義として「母親がユダヤ人であること」があり、それによって民族の純血が保証されているから、と云う理由もあってのことだろう。

 以上は、ユダヤ人の側から見た定義になるが、それではキリスト教徒の側から見ればどうなるか。
 実は彼らに云わせれば、ユダヤ人はイエス・キリストを裏切ったユダ(最後の晩餐に描かれた場面は有名)の子孫であると云うことになっている。
 しかしこれもまた奇妙な話で、なんとなればイエス自身はユダヤ人だからだ。そもそも初期のキリスト教徒は100%ユダヤ人であった。つまり”ユダヤ人はキリストを裏切った”と云うのは、キリスト教がローマに伝わって以後、ユダヤ教と袂を分かったキリスト教徒により発せられた蔑称なのであって、それはまた、ユダヤ人受難の歴史の始まりでもあったと云ってよい。
 いずれにせよ、ユダヤを巡るこういった矛盾は、現代の中東情勢を捉える上で非常に重要なファクタとなるから、しっかりおさえておく必要がある。

 では、ユダヤ人についてはここでひとまず置くとして、次にユダヤ教からキリスト教が誕生していく過程を追ってみることにしよう。

 前で、イエス・キリストはユダヤ人であると述べた。それは、イエスはユダヤ教徒であったと云うことと同一の意である。
 古代イスラエル王国が滅亡して後、それでも多くのユダヤ人はカナン周辺の地に留まった。そこで一度は小国を築いたりまたローマ帝国の属国の地位に甘んじたりしながらも、彼らは祖先の地でユダヤ教を信仰しつつ細々と生計を立てていたのだった。そうしたユダヤ人の中にイエス・キリストもおられたのである。
 ナザレ地方の大工だったと云われるイエスは、周囲の人々と同様、ユダヤ教の熱心な信者であり、救世主(メシア)の出現を待ち望むひとりでもあった。しかし、イエスはそう云った世界の中に埋没するような人物ではなかった。やがてイエスはユダヤ教の教義を基に、独自の教えを生み出すに至ったのである。その後のイエスについては、聖書を始め、膨大量の書物に描かれているから、ここでまた詳細を述べる必要はあるまい。イエスが十字架にかかり没したのは紀元30年ころのことである。

 イエスも信仰したユダヤ教とは、古代イスラエルにあった「ヤハヴェ信仰」を基に、紀元前4世紀ころ成立した宗教であるが、分かりやすく云ってしまえば、キリスト教で云うところの「旧約聖書」にあたる(”旧約”という表現は、キリスト教から見て「旧」なのであり、それを避けるために、ヘブライ語聖書と呼ばれることもある。旧約聖書は、どちらかと云えば日本人にあまり馴染みが薄いが、「創世記」「モーセの十戒」などは誰でも聞き覚えはあるだろう。なお、旧約・新約の「約」とは「訳」の間違いではなく、神との約束を意味する文言である)
 要するにキリスト教は、ユダヤ教を母体としてそこから派生した宗教なのである。つまり、ユダヤ教=旧約聖書(厳密には=ではないが)に、イエスの教えの部分(福音書等のいわゆる新約聖書)を加えたものがキリスト教であるわけだ。
 さらに、イスラム教も実は、ユダヤ教から派生した宗教である。

 イスラム教は、7世紀前半ころ、アラビア半島西部の地メッカにおいて、アラビア商人で預言者のムハンマド(マホメット)が、アラー神の啓示を受けたことを起源とする宗教である。イスラム教の正典はコーランであるが、それに次ぐ教典として、旧約のモーセ五書や詩篇、新約の福音書も含んでいる。
 なお、言語の違いによって呼び名が異なってはいるが、アラー(より原語に近い発音はアッラーフ)は、ヤハヴェ(エホバ)と同一である。つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ともに、信じる唯一神は同じだと云うこと。さらに云えば聖地をエルサレムとすることも同じである。そのことから、これら三大宗教をひとつにして、アブラハムの宗教と呼ぶこともある。

それらを概略してみると、以下のようになるだろうか。

 ■ キリスト教=新約聖書+ユダヤ教(旧約)
 ■ イスラム教=コーラン+新約聖書+ユダヤ教(旧約)

 つまり、キリスト教もイスラム教も同じユダヤ教と云う母から生まれた兄弟であると云ってよいわけだ。
 それならば何故、兄弟どうし、あるいは家族どうしがいつまでも戦争などしあっているのか? 



第3章 対立のはじ
まり
 いったい宗教とは人間にとって何であるのか。それは人間が幸福であるための存在であるようにも思えるが、現実では、あらゆる人間の争いは、その源を宗教に発しているらしいのである。
 前章の終わりに、キリスト教もイスラム教も同じユダヤ教と云う母から生まれた兄弟と云ってよいのに、なぜ互いに争い憎しみあうのかと云う風なことを書いた。本章では、それら宗教が対立をするようになった過程について順を追いながら具体的に述べてみる。

 キリスト教の原型は当初、ユダヤ教の一教派として誕生したが、ユダヤ戦争(一世紀後半に勃発)のころに、独立した宗教として成立。その後、初期キリスト教は、ディアスポラ(故郷カナンを離れ世界各地に散っていったユダヤ人集団のこと。この時期のキリスト教徒は、ディアスポラたちの会堂(シナゴーグ)を借りて礼拝を行なっていた)の手を経ながら、やがてローマ帝国に広がっていく。
 当初はローマ帝国の政策によって厳しい迫害を受けたキリスト教であったが、4世紀ころには、ローマ帝国の国教という地位を獲得。その結果キリスト教はヨーロッパを中心に大いなる繁栄を築いていくこととなった。

 対するユダヤ教であるが、これは前の章でも述べたとおり、ユダヤ人のみが信仰を許された宗教であるために、キリスト教のような大規模な信徒拡大はあり得なかった。その代わり、ユダヤ人(これもまたディアスポラ)が世界各地へ移住を拡大していくに従い、着実に広い範囲の地域に根を下ろしていったと云えよう。

 ここで、キリスト教が誕生した時代のカナン地方の様子について、ざっと目を通しておこう。

 紀元前後ころのカナンは、ローマ帝国が統治していたが、ローマの広大な版図の中で、この地方の統治に限っては、さしもの大帝国も手を焼いていたようである。
 紀元66年ころ、そのローマ帝国の支配に反発していたカナン在住ユダヤ人の不満が爆発、その結果大規模な反乱が勃発した。それがユダヤ戦争である。しかしローマ軍の圧倒的な武力の前にユダヤ軍はあえなく敗退。ユダヤ人の永遠の拠り所であったエルサレム神殿の炎上とともに戦争は終結を迎える。
 その後、ローマはこの地方へ軍隊を常駐させるなど支配の強化に努めたが、ユダヤ人の抵抗を完全に抑えることは難しく、2世紀の初めには再度の反乱を許してしまう(第2次ユダヤ戦争)
 それらのことに業を煮やしたローマ人は、ついに、この地方からユダヤの名を永遠に消し去ってしまおうと目論んだ。まず行なったのは、カナンの地名の変更である。彼らはそこを、ペリシテ人の地と云う意味で「パレスチナ」と名付けた。ペリシテ人とは、紀元前10世紀ころ、ユダヤとの戦いに敗れ、この地を去った民族のことである。この皮肉はしかし相当に振るっている。

 前述のような世相の中、それぞれに勢力を伸ばしていった両宗教であるが、ローマに認められ繁栄を約束されたキリスト教に比べ、一方のユダヤ教徒らの置かれた境遇はあまり芳しいものとは云えなかった。
 前の章でも述べたが、彼らはキリストを裏切ったユダの子孫と云う侮蔑を受け、しかもキリスト教社会の中では、自分の土地を所有することや自由な職業に就くことさえ許されなかったのである。
 しかし彼らは逆に、キリスト教徒には禁じられていた、金融(お金を貸して利息を取ることを当時のキリスト教は禁止していた)と云う職業に自らの活路を見出していくことになる。そうしてその選択は結局ユダヤ人にゆたかな富をもたらすこととなった。何しろ彼らはキリスト教徒の懐を押えてしまったのだから。
 その後も彼らは、いわゆる「マネーの運用」にその手腕を発揮し、やがて社会において大きな力をもつに至るのである。また、ユダヤ人は、学者や芸術家を多く出していることでも顕著である。アインシュタインやカフカ、メンデルスゾーン……そう云った世界的に超一級の人々を挙げるだけでも枚挙に遑がないほど。そうして、そのことはやがて「シオニズム」の盛り上がりにつながっていくこととなる。

 ここでいったんユダヤのことは置くこととして、以下に、イスラム教について、およびイスラムとキリスト教徒との対立について述べておくこととする。

 イスラム教の発祥は、7世紀の前半、アラビア半島西部の地メッカにおいてである。当初その教徒は、キリスト教の普及したヨーロッパとは地理的にも遠いアラビア語圏の民族が中心であった。
 その後のイスラム教は、西はアフリカ大陸、東はインドを経て東南アジア、中央アジア、中国あたりまでたどり着くが、西欧のキリスト教徒との交点は、地域的な理由もありそれほど多くはなかったと云える。ところが、11世紀の末ころ、その後の両者の運命を決定付ける大事件が勃発した。それが200年近い長きに渡って続けられた「十字軍遠征」である。



第4章 十
字軍
 十字軍とは、西欧諸国がイスラム教諸国征伐のため送り出した遠征軍のことであるが、通常の国家間の戦争とは異なり、西欧キリスト教圏の諸侯連合軍がイスラム諸国を征伐すると云う、典型的な宗教戦争であった。十字軍の掲げた大儀は「我らが聖地エルサレムを異教徒(イスラム)の手から奪還しよう」であり、聖戦であることを誇示するため、遠征軍は十字架の旗印を掲げて進軍したのである。
 ところが、これが聖戦であると云うのは、西欧側の勝手な理屈であって、実際に十字軍の行ったのは、大規模な略奪と虐殺である。彼らは行く先々でアラブ人の村や町を片っ端から襲い、住民すべてを容赦なく無差別に惨殺した。そうしてあろうことか彼らは殺害した人々を食っていたのである。そんなことが二百年も続いた。 つまりイスラム圏の人々にとって十字軍は、突然襲ってきた野蛮な(当時の文化程度は、西欧よりイスラムの方がはるかに高い)人食い鬼に他ならず、現代で云うところのテロリスト以上に恐るべき存在だったと云うことなのだ。

 この時、イスラム圏諸国の人々が心に受けた傷は甚だしいものであり、西欧キリスト教徒に対する恨み憎しみは現代でもなお決して薄れてはいない。一方、これに対し西欧側(現代流では欧米)の認識としては、あくまでも十字軍は義の軍隊であり、行ったのは断固聖戦であったと信じ切っている状態なのである。要するにまったく慙愧などとは欠片も思っていないと云うわけだ。

 このような両者の感情とその隔たりは、現代でも厳然と存在しており、例えば、「9・11同時多発テロ」の首謀者とされるビンラディン組織の名称は「ユダヤ人と”十字軍”に対する聖戦のための国際イスラム戦線」であるし、またそう云ったテロリズムへ対抗すべく、国際連合軍の結成を世界に呼びかけた米国大統領が、その軍隊を”十字軍”と呼んだために、せっかく協力を取りつけた中東諸国から総スカンを喰ってしまった話は有名である。
 そうして、このような歴史のあったことをまるで知らない日本人は、「9・11」の後、米国の義軍結成の呼びかけに、即飛び付いた。けだし「なんと可哀相な人たち、可哀相な米国、この上は、彼らと手を取り合いこの憎むべき敵を断固討つべし」と。

 理性を失い激情のみによって動く暴徒の運命と云うものは、これもまた歴史がよく証明している。なぜその轍を再び我々は踏もうとするのか。
 いったい、米国の誇る巨大建造物に旅客機を突入させた、あのテロリズムの本質を日本人のどれほどが知り得ているのだろう。そうして我々は、さらに無知なるリーダーが陸続と繰り出す、連合軍への膨大な対戦資金援助、イラクへの自衛隊派遣およびその果てしない延長、それらを正当化するための憲法第9条の無効化策推進と云った恐るべき無謀な政策に黙って従い続けたのである。
我々は再度の破局を経験しない限り、目が覚めることはないのだろうか。



第5章 シオニ
ズム
 前章まででは、主に古代から中世にかけての歴史を追った。本章以降では、近代から現代に至る流れを少し急ぎ足で追い、最後に全体のまとめを付してみることとする。

 中世以降のユダヤ人は、様々な蔑視的扱いを受けながらも社会においては有用な存在としての地位を着々築き上げていた。近代に至ると、その影響力の強大さは、すでに世界の趨勢を牛耳るほどになっていたと云っても過言ではない。
 それはすでに述べたように、金融等で得た膨大な資本による市場の席巻、また芸術や学問の分野での台頭、さらには豊富な人脈・金脈をバックにした政界への進出等々によったもので、しかも彼らの生活基盤はすでに世界のほとんどの国にあった。
 そのような過程を経た絶対の自信がやがて「二千年来抱き続けた我らが悲願を今こそ達成する時がきた」と云う方向へ彼らを進ませたのも当然の成り行きだったと云えよう。
 そうして19世紀の後半ころ、彼らの思いの高まりはひとつの奔流となった。「シオニズム」の勃興である。

 シオニズムとは、古代エルサレム神殿のあった丘「シオン」の地名に由来するもので、つまりユダヤ人が自らの聖地(エルサレム)を中心とした、かつての故郷(パレスチナ地方)に「イスラエル」を再建しようとする運動のことを云う。
 この動きはやがて世界中のユダヤ人を巻き込む大きな盛り上がりに発展していくこととなる。

 シオニストらが「故郷」と呼んだパレスチナであるが、そこはユダヤ戦争の後は、大きな混乱もなく、キリスト、ユダヤ、イスラムの教徒らが共存して暮らす貧しいながらも穏やかな土地であった。やはり互いの宗教にとって、エルサレムは共通の聖地に他ならなかったと云うわけだ。
 ところが、20世紀に入り、シオニズムの流れが急速な拡がりをみせるにつれ、そのバランスは次第に崩れ始める。具体的には、欧米等で暮らしていたユダヤ人が、パレスチナを目指し続々と移住を始めたのである。けだし、かの地をユダヤ人のパラダイスとするために。
 ただ、そうとは云え、すでに成功を収めた地を自ら捨て、未知なる中東圏への移住を決めた彼らの覚悟が、その理由のみだったどうか、それは微妙なところかも知れない。
 いずれにせよ、彼らは米国における西部開拓者のごとき志を抱きながらパレスチナの地を踏んだことであろう。しかし初期シオニストたちの開拓は、西部流とは異なり、案外に合法的かつ平和裏に行なわれていたらしい。つまり彼らは、在住パレスチナ人から正規に購入した土地に自分の住居を建て移り住んだのである。

 そのようにして始まったパレスチナ移住であったが、それは当然のことながら、当地にあった微妙な勢力バランスの崩壊を呼ぶこととなり、結果、民族間の大きな軋轢も生じさせることとなった。
 先に、パレスチナでは異なった宗徒どうしが共存と書いたが、その理由として実は、信仰は異なると云え、彼らは民族的には同種、つまりアラブ系の民族であったことは大きい。だいいち彼らは数千年に渡り同じ地域で生活を共にしてきた、謂わば県人会の如き間柄でもあったわけだ。ところが、新たに移住してきた人々は、それと明らかに異なった存在として彼らの目には映った。その新しい住民は、ユダヤ人であるとは云え、居住地域での長年に渡る混血によって肌の色も変わり、また生活習慣も文化も思想形態も、何もかもが異なる異邦人だったのである。

 上のような流れは、第二次世界大戦が終結し、それによって世界の勢力地図が大きく塗り変わったことをきっかけにしてさらに急激な加速をみることとなった。

 第二次世界大戦終了当時のパレスチナは、英国によって統治されていた。しかしそのころ、在住パレスチナ人を駆逐し、自らの勢力を絶対的なものにしようとするユダヤ人(新たな移住者=シオニスト)の暴力的侵略活動が活発化、各地で武力闘争やテロが頻発するようになった。しかもユダヤ人はその矛先を、ユダヤ人国家建設に否定的であった英国にも向け始めたのである。
 この事態に困窮した英国は1947年、国連に対し、今後パレスチナの統治は国連に委ねるとする議案を提出した。国連による討議の結果「パレスチナは、アラブ領、ユダヤ領、国連統治領の3つに分割すること。聖地エルサレムはどの勢力にも属さない国際管理都市にすること」が決定(賛成33、反対13、棄権10)されるに至った(国連決議181号)
 ところが、「ユダヤ領」についてであるが、当時のユダヤ人所有地(初期シオニストらが購入した土地も含め)は、パレスチナの総面積の約7%程度に過ぎなかったのに対し、決議では、なんと57%もの土地がユダヤ人に与えられることが決定していた。
 これにアラブ側が猛反発したのは云うまでもない。それ以後、パレスチナではアラブ・ユダヤの内戦が勃発、互いの激しいテロ応酬も頻発する状態となった。しかしそれを統治するはずの英国軍も、すでにパレスチナからの撤退を決定していた。そうして1948年5月、英国軍の撤退完了に合わせ、ユダヤ人はついにイスラエル建国を宣言したのである。

 むろんこれを周辺のアラブ諸国が黙って見過ごすはずはなかった。ここに、エジプト、イラク、ヨルダン、シリア、レバノンのアラブ連合軍がイスラエル軍に宣戦を布告、第一次中東戦争が勃発したのである。
 しかしその結果はアラブ連合軍の惨敗に終わる。15万のアラブ兵が、わずか3万のイスラエル軍に大苦戦を強いられたのだった。1949年6月、双方は国連の勧告により戦争を終結させた。

 この戦いによりイスラエルは、国連決議をさらに上回る領土を確保するとともに独立国家として不動の地位を獲得するに至った。一方それによって住む場所を奪われ難民化したパレスチナ人の運命は悲惨なものであった。彼らは辛うじてイスラエルの占領地あるいは周辺諸国にキャンプを設け移り住んだが、そこは家族全員の寝る場所すら満足に確保できないような有様だったのである。

 第一次中東戦争は、こうしてパレスチナの地に恐るべき不均衡を生み出し、民族間の激しい憎悪もまた生み出す結果となった。イスラエルではこの戦争を「独立戦争」と呼び、一方アラブの側はこれを「ナクバ(破局)と呼んだ。



第6章 中東
戦争
 これまで、イスラエルをめぐっての戦争(中東では周知のとおり、湾岸戦争やイラン・イラク戦争、此度のイラク戦争、またイスラエルによるレバノン介入など幾多の戦闘が繰り返されているが、ここでは、中東戦争と呼ばれる戦争についてのみ述べることとした)は4度起きている。第一次中東戦争については、すでに前章で述べた。本章では、以後の戦争について、大まかな流れだけを追ってみることとする。ただその前段として、イスラエルと世界との関係、特に米国とのそれは十分に押えておく必要があるだろう。

 米国は、イスラエル建国当時でも今でも、世界最大のユダヤ人人口を擁する国家である(その数は実はイスラエルの人口より多い)、そうしてすでに云うまでもないが、国の中枢部(政府と云う意味に限らず)における彼らの影響力は絶大である。
 形を変えて云うならば、米国は世界最大のシオニズム国家であり、イスラエルはその彼らの象徴的存在として、中東の飛び地に建てられた王国である。つまりイスラエルの後ろには、つねに米国と云う超大国があって、その一挙手一投足を見守りあらゆる種類の援助を惜しみなく注ぐ、そのような状況が必然的に生まれていたのだった。
 そのころ米国と世界を二分していた大国、旧ソ連は、イスラエルまた中東諸国を主戦場として米国と冷戦を交えていた。その勢力争いに西欧の列強、英国、フランスが微妙に加わっていた。これが中東戦争当時の世界図である。むろんその時点で日本は何の取るにも足らぬ存在であったことは云うまでもない。

 そのような状況で起こった中東戦争であるが、以下、簡単に概略を整理しておこう。

 第二次中東戦争(1956年 スエズ戦争)

 エジプトがその国力増強のため、米国からの資金援助を目当てに建設計画を進めていたアスワン・ハイ・ダムは、結局米国との交渉が決裂。それに窮したエジプトは、代案としてスエズ運河の国有化を決定した。そこから得られる収入をダム建設に宛がおうと云う腹である。一方スエズ運河会社の株主であり最大の利用者でもあった英国はこれに猛反発を開始。その結果、英国はフランス、イスラエルと共謀し、エジプトに戦争を仕掛けることとなったのである。
 これが、第二次中東戦争であるが、米国とソ連は英国の姿勢を激しく非難、戦線からの撤退を強く三国に迫ったことにより、戦争はあっけなく終結を迎えることとなった。その後、国連による調停の結果、スエズ運河はエジプトの国有化が認められた。
 イスラエルとしては、目の上のタンコブであったエジプトを、英仏の誘いに乗ってこの際、早期に叩いてしまおうと云う思惑だったが、結果的には米ソからの大非難と、対するエジプト国力の増大を招いただけに終わった戦争であった。

 第三次中東戦争(1967年 6日戦争

 前回の戦争後も引き続き緊張関係の絶えないイスラエルとアラブ諸国だったが、先制攻撃はイスラエルの方からであった。ほんらい地理的には、シリア、ヨルダン、エジプトに挟み撃ちにされる不利な形のイスラエルであるが、6月5日、イスラエル空軍の電撃的奇襲が始まると、対する三国の部隊は瞬時に壊滅状態に陥り全滅、わずか6日間でこの戦争はイスラエルの圧倒的勝利で幕を終えてしまったのである。
 結局この戦争で、シリアはゴラン高原、ヨルダンは西岸地域を、そしてエジプトはガザ地区を含むシナイ半島のほぼ全域をイスラエルに奪われることとなった。

 第四次中東戦争(1973年 10月戦争

 屈辱的な大敗から三年後、すでに往年の力を完全に失っていたナセルが逝去、代わってエジプト大統領に就任したのが、後にエジプトの国民的英雄と称されることとなるアンワル・サダトであった。
 ここに新たな推進力を得たエジプトは、シリアと謀りイスラエルへの奇襲攻撃を敢行した。1973年10月6日のことである。これを第四次中東戦争と呼ぶが、その月をとって「10月戦争」、またこの月がイスラムの断食月にあたっていることから「ラマダン戦争」あるいは、ユダヤ教の贖罪の日ヨム・キップールから「ヨム・キップール戦争」とも呼ばれている。

 この戦争の緒戦はイスラエル側の惨敗であった。建国以来初めての敗北である。慌てたイスラエルは、米国に緊急援助を申し入れるが、米国は当初この申し入れに難色を示した。それは、時の米国国家安全保障問題補佐官キッシンジャー氏の策略であった。彼はこの戦争で、アラブ側に多少なりともの勝利感を味わわせることで、両者の和平交渉が円滑に進展することを期待したのである。しかし、米国側の回答に焦ったイスラエルは、ついに「核兵器の使用」と云う強攻策を切り札に米国を脅迫、結果的に米国からの緊急援助を受けたイスラエルは、またもや戦争に勝利してしまうのである。

 米国のイスラエルに対する緊急援助は、しかし当然ながらアラブ諸国の反発を買う結果となった。アラブ産油国は、米国への石油輸出全面禁止の決定を行い、またそれに呼応して、OPEC(石油輸出国機構)も石油価格の四倍増を決定した。
 この「石油禁輸」が世界に及ぼした影響は極めて大であった。産油国連合は、対輸出国を、敵対国、非友好国、友好国の三段階に定め、友好国以外には石油を一切売らないと云う措置を発表したからである。
 実は日本はこの時点で、アラブ諸国にとっては「非友好国」と定められていた。当時日本のアラブ石油への依存度は約40%である。これが手に入らなくなると聞いて日本中はパニックに陥った。いわゆる「オイルショック」の始まりである。この時、愚かな国民はトイレットペーパーや洗濯洗剤を買い漁った。政府は恐々としながらイスラエルに対し強硬姿勢の真似事を行い、それをもってアラブ諸国に恭順の意を表してみせた。しかし日本政府としては必死だったのである。その結果、かろうじて日本も「友好国」の地位を獲得することが出来、オイルショックはようやく回避された。

 そのようにして、建国以来四度の戦争を経たイスラエルである。
 ただ、その後については、すでに現代情勢に属するものであり、実際のところ、それはあまりに複雑多岐、膨大に及ぶ事柄なので、あくまでも中東の三千年の歴史に主眼を絞った。


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Tanemoさん、ありがとうございますm(_ _ )m