Blue Gangsta②~ ストリートの子供たちの叫び | ☆Dancing the Dream ☆

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非暴力を伝える児童書を執筆したBlue Gangsta
 スタンリー・トゥッキー・ウィリアムズ3世という男


社会基盤に乏しく貧しい家の子供達が、特定の肌の色を持つ者同士でグループを結成し、ギャング組織の末端として80年代以降は銃によって武装し凶悪化して社会問題となった。
彼らは差別的意味合いでカラード・ギャングとも呼称された。
全米最大の「クリップスCrips」は、アフリカ系アメリカ人によって組織され、ロサンゼルスで誕生しアメリカ全土に勢力を広げていった。
イメージカラーは「青=Blue 」。帽子やバンダナ、靴紐等の衣類の一部に青色を用いることが知られている。(二大勢力のブラッズは、赤。ラテンキングスは黄色。)
「Blue Gangsta」、クリップスのボスがスタンリー・トゥッキー・ウィリアムズである。
トゥッキーは、1953年ニューオーリンズに生まれ、父親が出奔、母子家庭に育つ。小柄でストリートではいじめられっ子だった。やがて、保身のため、飛び出しナイフを携帯。ブラックパンサー党に傾倒する。71年クリップスに加わり、組織を拡大。「Crip Walk(C-Walk)」と呼ばれるステップを編み出し、、ヒップホップやラップなどの若者文化に影響力を与えた。
敵対するギャングとの抗争で4人を殺害。28歳で裁判の結果、死刑囚として収監される。刑務所内でも頭角を現わし、囚人たちの間でボスになる。ひとりの女性ルポライターとの出会いが人生の転機となる。反ギャング活動を行い、96年から命の尊さを伝える主に子供のための9冊の本を執筆した。その活動によって、ノーベル平和賞にノミネートされ、多数の減刑嘆願書が出されていた。


2005年12月13日/
 シュワルツェネッガー知事(共和党)の決定によりトゥッキー死刑執行


【ロサンゼルス】米カリフォルニア州サンクエンティンの刑務所で13日午前零時過ぎ、獄中から暴力反対を訴え続け、学者らからは「ノーベル賞候補」にも推薦されたスタンリー・ウィリアムズ死刑囚(51)の死刑が執行された。
同州のアーノルド・シュワルツェネッガー知事は、支援者からの助命嘆願を却下した。
ウィリアムズ死刑囚は、ロサンゼルスの悪名高いギャング団「クリップ」の創立メンバー。1979年に起きた2件の強盗事件でコンビニ店従業員ら計4人を射殺したとして81年に死刑判決を受けたが、一貫して無罪を主張していた。 収監後は、子ども向けの本の執筆や電話による説教活動などを通じ、暴力やギャングにかかわらないよう青少年に呼びかけた。米メディアによると、こうした活動が若者の非行防止に貢献したとして、ノーベル平和賞や同文学賞候補に推薦され、助命嘆願の署名が集められた。
俳優のジェイミー・フォックスや、ラップ歌手スヌープ・ドッグらハリウッドの著名人も支援。死刑の是非論争にも発展し、シュワルツェネッガー知事が嘆願を受け入れるか、全米で注目が集まっていた。 しかし、同知事は12日、「裁判所の判断を覆すに足る事実はない」として、減刑を拒否。声明では、「残忍な殺人について謝罪や償いをしていない」と、同死刑囚の姿勢に疑問も投げかけた。死刑廃止論者や支援者らは、一斉に同知事を非難する声を上げた。      



REDEMPTION: THE STAN TOOKIE WILLIAMS STORY
(邦題「クリップス」2004年/J・フォックス主演)







=====ヒップホップ界の東西対立とは?===== 

西海岸のデス・ロウ・レコード(Death Row Records)」
1991年に設立されたヒップホップ・レコードレーベルである。設立者はシュグ・ナイトとドクター・ドレー。本拠地はロサンゼルス。


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Suge knightシュグ・ナイト       ドクター・ドレー(Dr. Dre)

■シュグ・ナイト(Suge knight)
カリフォルニア州出身。 1991年、ドクター・ドレーと共にデス・ロウを設立。デス・ロウからは2パック、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ等有名ラッパーを輩出していた。バッド・ボーイ・エンターテインメントと敵対。1996年2パック襲撃事件のおり怪我を負う。2005年カニエウエストのパーティーの折マイアミで銃撃された。
■ドクター・ドレー(Dr. Dre)  
ウェスト・コーストのGファンクの始まりとして、ヒップホップに革命をもたらした。1990年代にギャングスタ・ラップと呼ばれるスタイルを確立したラップ・グループ、N.W.A.に初期メンバー。N.W.A.とそのレーベルであるルースレス・レコード(Ruthless Records)の創設メンバーであるEazy Eとの不和により、人気の頂点にあった1991年に同グループを脱退し、シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコードを設立した。
MCのスヌープ・ドギー・ドッグ(現スヌープ・ドッグ/1993年のグラミー賞ベスト・ラップ・ソロ・パフォーマンスを獲得)と共演。
2パックをプロデュースし、自らも客演することで大ヒット。
2パックの殺害事件の後デス・ロウ・レコードを脱退。
自らの手で「アフターマス・エンタテインメント(Aftermath Entertainment)」を立ち上げた。ギャングスタ・ラップへの決別を表した曲「Been There, Done That」を発表。
1999年にはエミネム、2003年には50セントをプロデュースし、大ヒット。


    バツ バツ     爆弾ドンッ   東西対立   爆弾ドンッ  バツ バツ  



東海岸のバッド・ボーイ(Bad Boy Records)」

1993年に、プロデューサーでもあり、ラッパーでもあるショーン・コムズによって立ち上げられたヒップホップ/R&B系のレコードレーベル。
アリスタ・レコードの社長(元コロムビア・レコード社長)を勤めていたClive Jay Davisの援助のもと、アリスタ・レコードと、その親会社であるBMG(本社の所在地はニューヨーク)の下に、設立された。
ワーナー・ミュージック・グループの系列にあり、全米レコード協会(RIAA)のメンバー。

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   ショーン・コムズ

■ショーン・コムズ(Sean Combs)
マンハッタンハーレム地区でコムズは生まれ。父は彼が赤ん坊のときに殺害される。大学に通い、アップタウン・レコードで仕事を初め即座に頭角を現す。
彼自身のレーベル「バッド・ボーイ(Bad Boy Records)」を創設。
デス・ロウ・レコードと対立。




東西対立の犠牲となった才能あるアーティスト
■2パック
■ノトーリアス・B.I.G.
 《ビギーのマイケルとのコラボ》
*1995: "This Time Around"
(from the Michael Jackson album en:HIStory: Past, Present and Future, Book I)
*2001: "Unbreakable" (from the Michael Jackson album Invincible)

テディ・ライリー(Teddy Riley)の弟子ともいえる、
ロドニー・ジャーキンス(Rodney Jerkins=(Darkchild)名義でも知られる)の
勧めでビギーを起用したとMJはインタビューで述べている。
テディ・ライリーはNational Enquirerのインタビューで
「2、3回マイケルに言われたことがあるんだ…彼を殺そうとしている人がいるって。彼は何人かの名前を挙げて、そいつらが彼を殺そうとしていると言っていた」と明かした。マイケルが亡くなったと聞いたとき、テディはすぐに彼の家族に連絡し、殺された可能性があると伝え、テディ自身あれは殺人だったと信じているという。「俺はジャクソン家の人間に"いいか、彼は殺されたんだ。彼のことを気に入らなかった人間が、彼を排除したんだ"って言った。思い当たる人間はたくさんいるけど、すぐに真実は明らかになる。いずれ誰か分かるだろう」と話した。

――― 2パック、ビギーらを取り巻くヒップホップ界の惨状は、
   黒人アーティストにとって搾取され、操作される構造によるものであり、
   実際に身の危険に及ぶほどのものだという点で、
   MJが感じていた闘うべき音楽業界の腐敗と、同質のものだったのでしょう。

   
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      2パック              ノトーリアス・B.I.G.




======= ヒップホップ界の東西対立の歴史  =======


1990年代、に分断した深刻な対立があった。
2パックが所属する「デス・ロウ・レコード」と、
ビギーが所属する「バッド・ボーイ」はの二大ヒップホップレーベルだった。

ヒップホップ生誕の地、ニューヨークを中心とした東海岸。
それに対するロサンゼルスを中心とした西海岸。

アーティスト同士のBeefから発展したこの抗争はアメリカ全土を巻き込んだ問題となり、ヒップホップ界に暗い影を落とす事となる。

【抗争に至るまで】

ニューヨークで生まれたヒップホップは当初東海岸を中心にシーンが形成されていったが、Run-D.M.Cの全国的なヒットを皮切りにアメリカ全土にヒップホップが浸透。
そして真っ先にニューヨークへの返答を行ったのが、ロサンゼルスに拠点を置くレコードレーベル『デス・ロウ・レコード』所属N.W.Aを始めとするギャングスタ・ラップ擁する西海岸シーンだった。
西海岸らしい爽やかなトラックに本物のギャング達が暴力・強盗・レイプ・殺人・麻薬等の実体験を歌うギャングスタ・ラップは瞬く間にシーンを席巻。東海岸シーンには強烈な逆風が吹く事になる。

当初、東海岸のヒップホップシーンはギャングスタ・ラップに拒否反応を示した。
ギャング同士の抗争で無駄な血を流さぬ為の方法として、ヒップホップを進歩させてきた東海岸のアーティスト達にとって、ギャングライフを肯定するようなギャングスタ・ラップは到底歓迎すべき代物ではなかったのだ。

しかし西海岸出身のSnoop Doggy Dogがアメリカ全土で大ヒットを飛ばすと、次第に東海岸の流儀でギャングスタ的なラップをするMC達がデビューし始める。
実は東海岸シーンはギャングスタ・ラップを否定しながらも、アーティストにはギャング出身の者も多く、ギャングスタ・ラップで歌われる血なまぐさい出来事は東海岸シーンでもリアルな響きをもっていた。

そんな状況の中、二人の男がデビューする。
2PacとNotorious B.I.G.である。
バッド・ボーイのコムズは最高のラッパーであると考えていた2パックとの契約を画策し、レーベルスタートの勢いを増そうと考えたが、2パックに拒否されてしまう。しかし、直後にビギーを見出し、ヒットを得て、歌詞やインタビューで2パックとシュグ・ナイトに敵対し始める。

【2PacとNortrious B.I.G.】
東海岸流ギャングスタ・ラップの旗手として多大な期待を受けた彼らは、高いラップテクニックとキャラクター、カリスマ性で着実にファンを増やしていく。

当初良好な関係であった両者だが、1994年11月、2Pacが何者かに銃撃されるという事件が起きる。

五発もの銃弾を受け2Pacは重傷を負ったが、結局犯人は分からず事件は迷宮入りしてしまった。
だがNotorious B.I.G.とショーン・パフィ・コムズ(後の大物プロデューサー、現P.ディディ)が現場に居合わせた事実や、Notorious B.I.G.の新曲のタイトルが『Who Shot Ya(誰がお前を撃ったのかな?)』であった事により、2Pacは銃撃事件の黒幕は二人だと思い込んでいった。

その後2Pacはファンにアナルセックスを強要した罪で投獄されるが、刑務所で人生の転機を迎える事になる。

獄中で二人への憎悪の炎を燃やす彼の下に、デス・ロウ・レーベルの代表シュグ・ナイトが訪れたのだ。
彼は「デス・ロウ・レコードへの移籍を条件に保釈金を支払う」と取引を持ちかけた。

2Pacはこれを快諾、出所するとすぐさまデス・ロウ・レコードに移籍。
移籍後Dr.Dre(N.W.Aの初期メンバーにして名プロデューサー)のプロデュースでリリースした『California Love』が大ヒット。一気に西海岸を代表するギャングスタ・ラッパーとなる。

当然Notorious B.I.G.達への憎悪も健在で、『Shot E'm Up』という曲で二人を散々こき下ろす。

【抗争】

東西のシーンのトップアーティスト同士のBeef。
私怨で始まったこの対立はそれぞれのシーンを巻き込み肥大化していく。

この対立に真っ先に参戦したのは、2PacとNotorious B.I.G.のアーティスト仲間、そしてファン達だった。

アーティスト仲間は各々の楽曲で互いを挑発。ファンもそれに呼応し、ライブの妨害やファン同士の喧嘩、アーティスト自身への襲撃等が多発するようになる。

アーティスト達は元々ギャングであり、当然ファンの中にもギャングが多勢いた。
そして遂にギャングの裏で糸を引くマフィアまでこの抗争に参戦。ヒップホップの東西抗争は、アメリカ裏社会の東西抗争へと発展する。

暴行・襲撃・発砲事件が多発し、緊張がピークに達した時、事態は最悪の結末を迎えてしまう――
 
【抗争の末路】

1996年9月7日、2Pac、何者かに銃撃され死亡。
ラスベガスで友人でもあるマイク・タイソンの試合を観戦後、横付けされたキャディラックからの銃弾を4発被弾したのだ。
西海岸シーンは若きカリスマの突然の死により深い悲しみ包まれる事となる。

そして2Pacの死から一年後、
Notorious B.I.G.が何者かに銃撃され死亡する。
ロサンゼルスでヒップホップ雑誌『VIBE』主催の「Soul Train Music Award」パーティーの帰途に銃撃を受け、セカンドアルバムリリース前の1997年3月9日に死亡した。

全米を巻き込んだ史上最悪の抗争は、それぞれのシーンの先頭に立っていた二人が死亡するという最悪の結末となった。

2012年現在、どちらも犯人は捕まっていない。

【抗争の余波とその後】

事態を重く見たDr.DreやK.R.S-Oneなど東西の大御所は、この悲劇を繰り返すまいと事態の収拾に奔走する。

また渦中のデス・ロウ・レーベルは裏社会との密接な関係が露見したため求心力を失い、Dr.DreやSnoop Dogが次々移籍してしまう。
この二人に対しデス・ロウ・レーベルは若手と残留組を使い激しくディスるが、そこにかつての勢いはなく数年後に倒産してしまう。
この内紛により西海岸のシーンは縮小していき、ただでさえ風当たりの強かったヒップホップシーン全体の衰退を招く。

この事件以降ヒップホップは完全に下火になる事はこそなかったものの以前の勢いはすでになく、逆にヒップホップからの影響を受け進化したR&Bやダンスホールレゲエが躍進する。
結果的に抗争自体は沈静化したが、この事件はヒップホップ黄金時代の終焉の象徴となり、2000年代のアメリカ南部シーンの台頭の遠因となった。
Dr.Dreは後にプロデューサーとして世界的に有名なEMINEMを発掘。
Snoop Doggy Dogは現在もソロ・コラボ・プロデューサーとしてヒットを記録している。