文久三年、1863年のこの日・・・
尊皇派の長州藩とそれに加担する三条実美ら公卿七人が、薩摩藩の寝返りによって京都を追われた。
たしかに長州と、一味した公卿浪人らは孝明帝を懐に抱えやりたい放題であった。
薩摩藩がここで会津と組んだのは明らかに嫉妬であり、言い換えれば薩摩流の政治であった。
ただ、その、そういったある種ワガママな一藩の都合により・・・
禁門の変や長州征伐で長州の有為の人材が失われ、その長州の恨みがのちに同盟した薩摩にはいかず、会津藩にたいして過剰ともいえる報復となって顕れたことは悲しむべきである。
歴史は (いい悪いは別にして) 勝者のものである。 だからこれまでは薩摩流のこういう政治手法は非難されなかった。
が、敢えていいたい・・・
戊辰・長岡や会津の悲劇はこの薩流の鵺のような動きによるものであり、それによって多くのひとびと、特に民間人が暴行・虐殺を受けたことはもっと言うべきなのではないか。
…ぼくは別に鹿児島やそこに住む人が嫌いなわけではないことを記しておく。