このひとは、豊後ではなく、筑前の武将でしょうが・・・新たに 「筑前武将列伝」 なんてやるつもりはないのでこちらで。
薦野増時 (こもの ますとき) 立花統虎の妹を息子の嫁に迎え、立花三河守・賢賀と名乗っている。
はじめ西大友・立花鑑載の家臣であったが、鑑載が毛利氏に通じ大友に叛旗を翻し討たれたとき、かれものち立花山城督となった戸次鑑連に降り、仕える。
鑑連=道雪は、彼の才能を愛し、娘婿に迎え男子のいない自分のあとを継がせようとおもったらしい。
しかし、彼は、 「戸次・立花とも大友一族、御養子は大友一族をこそ」 といって固辞したという。
それでも雷オヤジは諦めなかったし、薦野のほうも断り続けたというから、やはり似た者主従であったのであろう。
察するにオヤジ譲りの雷娘、ギン千代ちゃんに恐れを抱いていた可能性はないか・・・ないわな、このときの縁談の相手はギンちゃんではなかったのだから。
また薦野にしてみれば、外から大友御連枝に入ることに躊躇いがあったことは想像に難くない。こんなメンドクセー本家の親戚になるのを御免蒙っていたのではないか、いや、ぼくならそうおもう。
以来、道雪・統虎に従え、軍・政両面で活躍する。
ことに慶長五年の役において、家中みな西軍に傾くなか、彼は東軍参加を主張する。
慧眼、といっていい。
役後、立花家が改易されると、彼は、立花山城の麓の旧領に戻る。
黒田家に仕えたのが先か、筑前に帰ったのが先かはわからない。だいたいが立花氏の改易後、黒田如水
(吉兵衛でないところがワラケル) から声が掛かって筑前へ、となっているがどうであろう。
筑前に来た黒田親子あるいはその家臣が、賢賀が立花城の麓にいることを知って仕官を誘ったのではないか。
かれは浪人として死ぬまでここ、立花山麓の 梅岳寺 で、道雪の菩提を弔うつもりだったではないだろうか。
想像ばかりで申し訳ないが・・・。
如水の好意 (あくまで吉兵衛でわないw) で、立花山山麓=昔の領地 を領して、立花飛騨が柳川に奇跡の復活を遂げた後も立花家には戻らず、子孫相次ぎ福岡藩の重臣であったという。
このひとは、“家” よりも “ひと” (=道雪) との繋がりを大切にしたのだろう。その結果として、姓は 『立花』 ではあったものの、薦野時代の旧領に復活することができたのではないか。
飛騨守が、名将として名を遺しえたのは、道雪の御蔭だと思っていただろうし、その遺産である自分たちの力であることに自負があったのではないだろうか。
そして道雪の生前、「望みの物を言え」 と道雪公から尋ねられ、「恐れながら殿の墓の隣に永眠しとうございます」 と答えた、その望みを叶えた。
画像は梅岳寺より立花山城を仰ぐ。 道雪と賢賀のお墓が仲良く並んでいるのを見たかったが、誰もいないのでやめた。住職でもいらっしゃればお話を伺い、道雪公にお目通り願いたかったが、誰もいないお寺で人のお墓を覗いたり、ましてや写真を撮るなどという趣味は持ち合わせてない。