「いただきます」という言葉がない国の「ビオディナミ農法」 | ぶる外伝

「いただきます」という言葉がない国の「ビオディナミ農法」

「いただきます」という言葉がない国の「ビオディナミ農法」と、「いただきます」「ごちそうさま」がセットで尊重される国の「旧暦でする農業」の違いについて。


今まで、ビオディナミ農法を、最も短く表現すれば、天体の動きに連動した動植物相と微生物相の尊重による農業という認識で、言うなれば洋の東西の違いこそあれ、それは旧暦で行う昔ながらの農業に極めて近い農法だと思っていました。


しかし最近、西洋諸国や中国には「いただきます」という言葉自体が、なぜないのかを知る機会があり、ビオディナミ農法と旧暦農法の違いが鮮明になったりします。それは、ルフレーヴの従業員だった人のビオディナミの本に、突っ込みどころが満載だなあと思う違和感にも通じて、されど、それは「いただきます」が言葉として存在しない理由によって、はっきりと確認できたりします。


それはつまり、神様とヒトと自然の関係の違いによるところです。キリスト教と日本古来の神道とでは神自体が違ったりしますが、そこは大雑把に「神」で統一させていただきつつ、三者の位置関係を示せばこんな感じになると思われます。



【日本】


神=自然

 ↑

ヒト



【西洋諸国】




ヒト


自然


日本には、八百万の神に代表されるように、山にも石にも、水にも神様が宿り、神イコール自然を連想させ、命を頂戴することになる食事に際しては、その生と死に感謝して「いただきます」と拝するのが日常になっています。そもそもお箸は、神人共有であり、神事にも日常にも使われる道具。その箸の作法こそ、「いただきます」の精神に通じると信じます。ちなみに、ごちそうさまは、その食事を準備してくれた人たちに感謝する言葉ですね。


一方で、西洋諸国の位置関係を聖書に求めると、1:創世記/ 01章 26節によれば、「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 とあり、つまり自然とは、ヒトによって支配されるという自然感。普通、支配している方には感謝はしないので、ゆえに食事に際しては「ポナペティ=さあ召し上がれ」という言葉はあっても、目の前の命に関しての感謝の言葉はないのだと知りました。食事の前に祈りをささげる対象は、神であり、自然の方ではないからです。


自然はヒトによって支配されるもの。そう考えるとビオディナミ農法は、その支配の手段の一つと考えることができ、ビオディナミ農法の畑に農薬が降りかかっても、ビオディナミだから影響ないという考え方の基にもなっているような気もします。


日本人は、無意識に自然は神と同じなので、崇拝の対象でもあり、自然の恵みに感謝するための農業に、敬意と、より自然へのアプローチに過剰な期待感を持つのかもしれません。


ビオディナミ農法でよく語られる自然へのリスペクトには、実は支配という前提があることを知ると、日本人の農業感や食に関する感謝の気持ちとは、価値観が違うのだという認識を新たにします。その上で、ビオディナミ、ビオロジー、酸化防止剤への警告のニュアンスを知ろうとするほどに、今までとは違った側面から観察もできたりします。


今さらながら、昔集めたビオディナミ関連の本を、再度読み返すと、面白いように、今までの違和感がなくなって、雲が晴れるように、すんなりと読み進めることができるから不思議だったりします。


ちょっと飲みすぎたかな。変な文章になってるかもしれず、明日の朝、読み返して、やばそうだったら消しちゃお(酔)

FBより転載