false charge(hopping around)
http://www.law.tohoku.ac.jp/~hatsuru/hop/2011/07/false_charge.html
 
私は社会が「冤罪をゼロにする」という「目標」を持つこと自体は、決して不合理なことではないと思います。
 
実現は不可能ということが歴史的、統計的に分かっていたとしても、目標として持つことは十分に合理的なことだと思うのです。新司法試験(司法研修所入所試験)を例に取れば、論文試験で満点をとることは、おそらく過去のデータからして、不可能だと思うのですが、だからといって、「論文満点をとってやる」という目標を持ちつつ勉強することは、必ずしも不合理なことではありません(ただし、その目標が「満点をとる自信がつくまで、受験しない」という方向に力が働いてしまうと、不合理ではありますが)。
 
森田果先生は「絶対安全な原子力発電所」とパラレルに説明されています。確かに、「絶対安全」と過信して、事故を起こしたときの想定をしないのは論外です。しかし原発の開発者の方々には、「安全な原子力発電所をつくるんだ」という「目標」は持って、開発に取り組んで欲しいとは思いますし、そういう目標を持って開発することは、責められることではないと思います。
 
問題なのは、目標そのものではなくて、目標を達成するための手段の中身ではないかと思います。「冤罪をゼロにする」という目標をもったからといって、「刑法・刑事訴訟法を廃止する、ないし、極めて限定的にする」という政策手段が正当化されるわけではないと思います。政策手段の確定の中で、治安の維持という利益(対立利益?)との調和が、厳密に、具体的に、図られればよいのではないかと思います。

 

これは逆のことも言えて、警察官・検察官が「犯罪者を1人残らず捕まえる」という目標を持つことについて、それ自体を責める人はいないと思います。しかし、だからといって、「少しでも怪しい奴を、証拠や供述をでっち上げても、ことごとくしょっぴく」という手段が許されはしないでしょう。
 
あと、冤罪事例が起きると、「人が人を裁く以上、しょうがないよね」という声が聞こえることもあります。確かに、人が人を裁く以上、エラーは起こるわけです。これは刑事裁判に限ることだけではなく、科学技術でも何でもそうです。
 
しかし、全てのケースについてそう言えるかは留保が必要です。冤罪事例を子細に見てみますと、本当に「しょうがないよね」で済んだ事例とは言えるかは、甚だ疑問です。むしろ、「しょうがないでは済まない」事案の方が、明らかに多いのではないでしょうか。
 
例えば近時報道されている著名な冤罪事例を見ると、どんなに捜査当局側の肩を持ったとしても、「これは(冤罪の被害に遭われた方に申し訳ないけれど)、やむを得ない事例だったのではないか」、「捜査当局を責めるのは酷だよね」と思える事案は、皆無と言ってよいと思います。厚生労働省の郵便不正事件は、証拠の改ざんが介在した、意図的なでっち上げとも言えますし、足利事件も少なくとも、最高裁までのいずれかの時点でDNAの再鑑定を行っていれば、冤罪であることを見抜くことはできたと思いますし、また、志布志事件も捜査当局が組み立てたストーリーに無理がありすぎて、捜査段階から冤罪の可能性が濃厚だったと思います(現に志布志事件のルポタージュなど見ますと、-真偽の程は別として-捜査当局内部でも、冤罪ではないか、という声があったと言います)。
 
その意味では、冤罪事例では、徹底した原因の究明が求められ、本当に「しょうがない事例」と言えるかは、その結果を待ってから判断されるべきだと思います。ただその調査がどこで行われるべきかは、なかなか難しい問題です(捜査当局や裁判所では内部調査になってしまいますし、立法府だと国政調査権があるとは言え、調査の仕方次第では、「司法権への介入」との批判を浴びそうです)