…【日本(ヤマト)・民族学】…【オオキミ】系譜の【謎】… | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

【日本・民俗学】…元号白鳳】は存在した

大化の改新
捏造
?…【壬申の乱】(672年)の【近江・大伴氏】の動向が謎解きの鍵

此のブログの【標題】の一部分(元号に関する表現)を変えました。日本ヤマト)・民族学の意は、ヒノモト日本)・起元学で在り、日本人のアイデンティティ-の追求学でも在る。


…以下の記事内容は
二所大神宮諸雑事記第一の記事の中に秘められていた謎解きのに基付いて書き込みました…
… http://linkis.com/ameblo.jp/erusaremu4/6TQ8y ← 此処 《URL『二所・大神宮諸雑事記第一』記事》…

…此処、標題に言う【元号】(年号)とは、『二中歴』 (『改訂・史籍集覧第二十三冊目録』新加纂録第十九・二中歴)に記す、【元号】(A,D701年…大宝元号以前の元号)の意で在る。然るに、【二中歴】意外、其れらの【元号】(A,D700年迄)を記す文書は他(『如是院年代記』等)にも在るが、其れらの元号(701年大宝改元以前の元号)の全ては、【二中歴】の模倣で在る。然して、何故、『日本書紀』(偽書)は、【大宝・改元】以前迄、つまり、【持統天皇】(女帝・在位11年譲位・697年)迄として区切られ、【日本紀】(逸書・ニホン)として編纂(養老四年・720年)されたのかと言えば、其れは、【日本(ヤマト)・開闢神話】を以て成るカミALに始まり、更に、「磐余彦(後の神武天皇)の東征物語を経て成る【神武天皇・即位元年】(辛酉・58年)を以て人の世代と成す【歴年起点年】から数えた【通歴節目・700年思想701年・大宝改元年)の【秘儀数値】が意識されていたからで在る。

【通歴節目・700年思想に言う、其の【秘儀数値700】の意を認識し、意識的に書き残されたと考えられる文面の1つが、『現存・日本書紀』(偽書)の【中大兄皇子即位・元年】条(7年条…668年近江遷都の翌年に当る)記述内容で在る。然るに、其の【通歴節目・700年思想に関する説明的記述内容とは、即ち……【高句麗】(紀元前37668年)は、「1000年目を目標としての建国思想(伝説・仲牟王)を掲げたが、然し、【高句麗建国後・700年頃迄】は続くが、其れ以後は無理だろうと母(河伯の女柳花)が言ったとされ…結果的には、「高句麗・通歴700年」を過ぎた「4年後」(A,D668・称制中大兄皇子即位年の時)、高句麗は唐に滅ぼされたと記す。然るに、此処の記述内容が意図する処は、【日本(ヒノモト)・開闢神話】以来、脈々と皇歴系譜が続く、其の皇歴年数値の流れが途絶える事が無いよう、秘密裏に監視する氏族が存在していたと言う事で在る。

…然るに、此処で重要な事とは、其の説明的記述が書かれた、其の年が、【近江遷都年】667年)以後(668年)だったと言う事で在る。つまり、【中大兄皇子】は、基本的には
【通歴節目・700年思想の事は知らされていない系譜に属していたと言う事で在る。然し、【近江遷都】を決行し、近江に乗り込んだ事を以て、始めて…《【近江・オオキミ氏族】(山部オオキミ石川オオキミ)》…等が有す【通歴節目・700年思想の秘密を始めて知ったのだった。然るに、其の思想年(節目・700年思想)の設定に関し、其の実現に向けた第一歩的記述としては、先ず、下準備的記述が必要に成り、此処に記録されるに至った訳では在るが、然しね其の計画を現実的な歴史上に反映させる政策を施した人物は、「天智天皇、亡き後の壬申乱を制した天武天皇」で在った。然し、未だ、【元号】(年号)に関しては、あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと」(後に言う天武天皇)は、未だ、本当の思想体系を知る事は無かったので在る。つまり、未だ、【元号・起点年】の設定方式に対しては知らされていなかったからで在る。

…つまり、「称制・中大兄皇子」が、
【近江遷都】を決行したのは、【最高権力・簒奪】が動機だったので在る。然るに、其れ以前の【物部氏族】歴代・近衛兵的役職)と、【蘇我入鹿】大臣職)との争いは、【皇位・簒奪】の意では無かった。又、然る後の、【蘇我入鹿・暗殺】に関しても、【皇族的権力】を踏みにじるような大臣(蘇我入鹿)の仕打ちに危機感を覚えての暗殺で在った。然し、【近江遷都】の決行に至っては、其れは、完全なる【皇位・簒奪】を意図する行動で在った。因みに、此の事に関し、別の言い方に従えば…「ディアドコイ」(Διάδοχοι・皇位後継者争い)…的な行為だったと考えられる。因みに…《中大兄皇子(天智称制六年三月条)…を読めば…《近江遷都・百姓(オオミタカラ)遷都願わず。諷刺者多し。童謡(ワザウタ)多く、連日連夜に失火多々在り》…等と『現存・日本書紀』に記載されていて、此の記述内容は、上記の説明を納得させてくれるに値する文面だと私は理解する。 
   
…然るに、【白鳳】と言う元号は、『現存・日本書紀』(作為書)の文中には記載が無い。其れは何故かと言えば、つまり、【二中歴】の【継体】(男大迹・オホド)に始まる【元号】とは、現在的な表現で言い表せば、「大目付的役な割」を担っていた【オオキミ系・氏族】が有す【日本(ヒノモト)神道・宗団思想】1947年発見・死海文書思想宗団)者達が用いた【元号】(年号)で在ったからで在る。然るに、【継体】とは、天皇名では無く、【元号】だったと言う事で在る。

…『大日本金石史』(
大正10年発行)に因ると…「大和・【川原寺】寫經記念石版 ⇒ 清御原宮御宇白鳳二年七月九日我朝始寫一切経詔諸臣之時先寫無量壽經一千部爲拾函矣少僧都義成義成僧)謹詩之」(文政元年1818年頃発掘) と成す文書が在る。

…然るに、【白鳳・壬申】の年、つまり、【天武天皇二年】。因みに、「アマノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト後の天武天皇)に言う、【漢風諡号(贈り名)・天武天皇】の名称は、此の当時の時代に於いては未だ存在していません。従って、『二所・大神宮諸雑事記第一』に記す【天武天皇】と成す漢字表記は後付で在ります。つまり、先史的、過去に起きた事の記述を、其の伝承者が写本する時、其の伝承者が居た当時の書式に従って書き改めた文書では在るが、且つ、【日本(ヤマト)国史的・歴年通年】に於いては忘るべからず必要不可欠な、【世界史・歴年数値】への対応策を講じた必要不可欠な部分として書き残してくれた文面で在ったのだったで。従って…《日本人の聖書》…として書かれた『秀真伝』(ホツマツタヱ)文書の通歴年(景行天皇紀迄で終結させている)に対し、其の後の系譜に繋げられる聖なる日本史に於ける歴史書としては、先ず、【イスラエル・世界年暦】に結び付ける必要が在った。従って、其の手の内を明かしての記述内容が、即ち…『二所・大神宮諸雑事記第一』に記す【景行天皇紀】で在る。然るに、「景行天皇・即位年設定起点年」の計算方式に従えば、Jerusalemイェルサレム)陥落年」A,D70年)に繋げられていたので在る。

…【
壬申乱】(672年)の時…【天智天皇】(壬戌元年・662年即位)の弟(後の天武天皇)は、【二所・伊勢神宮】に加護を求め、東国(伊勢近辺)へ移動した。従って、或【オオキミ氏族】の長(山部王・石川王)は、敵地の近江に駐留していたが、鈴鹿の関に赴いたとしての誤報(嘘も方便)を張り巡らして成された鈴鹿の関への到着の一報を図り以て、伊勢神宮御遥拝の義儀式を完了させたので在った。従って、公的には【山部】(ヤマベオオキミ)と、【石川】(イシカワオオキミ)の勢力を取り込む事に成功したので在る。此の意味する処は、当時のオオキミと言う呼称(名称)は、カミALから続くとしての【通歴継続年監視・氏族】達を言い表す呼称(名称)だったと私は理解致します。従って、此の、【オオキミ氏族】とは、国内は勿論の事では在るが、其れ以上に、我が国以外に於ける外敵に備える役務をも全うしていた氏族で在ったのだった。其の解釈の一端を示すのが、【壬申乱】時に言う其の【オオキミ・氏族】達(伊勢神宮に関連する氏族)に関する記述内容(筑紫大宰クルクマノオオキミ壬申乱の条を参照されたし)で在る

…然して、【金石文的記録】に因れば、『筑前国続風土記附録』の、「博多管内町海元寺」として、近年濡衣の塔の石邊(カク・ガン)石龕一箇掘出」(白鳳元号が明記されていた)等と成す記録書が在ったとされている。然るに、『現存・日本書紀』(偽書)に因る【天武天皇・朱鳥改元設定】と成す記述内容の意味付けを解釈するとすれば…此の後に続く『続日本紀』記載の【大宝改元】として記載される【文武天皇・紀】へと移行する事に繋がる故、深追いは避ける事と致しますが、此処に於いては『現存・日本書紀』(偽書)の範疇の中に以ての記述内容に絞っている故、其の後(『続日本紀』に関する事項に対し)の日本の歴史に関する問題提起は省く事になるが、端的な部分に限り記述する事致します。

…然して、『現存・日本書紀』(作為書)の中の、「天武天皇2年条」に記述されている内容の事が、【石版】を以て刻まれていた事が、江戸後期の文政元年頃に発掘(白鳳元号の明記在り)された刻字に因って解っている。因みに、
『大日本金石史』(大正10年発行)に因ると…「大和【川原寺】寫經記念石版 ⇒ 清御原宮御宇白鳳二年七月九日我朝壬申年)寫一切経詔諸臣之時先寫無量壽經一千部爲拾函矣少僧都義成謹詩之」(文政元年・1818年頃石版発掘)と在る。

…然るに、『現存・日本書紀』(作為書)が抹殺した【白鳳・元号】が、何故?『二所・大神宮諸雑事記第一』文書に。そして、
『筑前国続風土記附録』に。又、偽書に言う『現存・日本書紀』の…「天武天皇2年条・記述内容」と同等の記述内容等の経緯事項が歴史的史実とし浮き上がる事と成るので在った。従って、此の【白鳳・元号】の刻文字の存在が意味する処はと言えば、『現存・日本書紀』は【作為書】で在ったと言う事に成る。従って、【白鳳・元号】とは、『現存・日本書紀』(偽書)の謎的部分を解き明かす【鍵】でも在ると言う事となるので在った。

…さて、標題、即ち
…《【捏造】・大化の改新は無かった》…と言う意味は、此の【元号・大化】の名称は、先述の【二中歴】の中の元号で在ったからだ。しかも、其の【大化・元号】設定は、「大宝元年」 (701年)の前年で在った。それで、『逸書・日本紀(ギ)』の編纂者達は、「50年過去に遡った皇極在位4年目(645年)に移動させ文書を書き換え…《【大化・元年】として【捏造】》…していたので在る。従って…其の後に続く『逸書・日本紀()』に記す元号の順番、即ち、「①大化・②白雉・③白鳳・④朱鳥」の配列順で在るが、此の配列順は、従来から存在していた、【二中歴・元号】の【元号】の配列順に従って無造作に取り込んでいたので在る。

…因みに、【二中歴】の元号の開始は【継体・元号】(丁酉・517年を元年と成す)を最初と成す。それで、『現存・日本書紀』(作為書)に「継体天皇・元年設定」との間には、「10年の空位」が生じているので在る。従って、【元号・継体】(天皇の名称では無い)とは、其の空位期間(10年)を穴埋めする意を受けての名称(元号)で意としても用いられた傾向が感じられる。然るに、其の後に更に続く【二中歴】の元号は、『如是院年代記』(正親町天皇元亀元年・1570年迄の元号が記載されている)に引き継がれている。

…我が国の【元号】(年号)の起元は【二中歴】で在ったと言う事で在る。従って、『逸書・日本紀()』の編纂者達は、【天智天皇】(壬戌元年・662年)が称制的年代頃に言う、即ち、【中大兄皇子】の時のクーデターを以て政権を取るが、其の功績を以て、【皇極女帝・四年目】の年、即ち、【孝徳天皇・元年】に当る年を【元号・大化元年】と後付したと改竄していたので在った。

…然して、尚、【孝徳天皇】の在位年間に位置する【元号・白雉】(【二中歴】)に対しても、つまり、【孝徳天皇・六年条】に於ける【白雉・改元説】は後付で在る。然るに、【元号】とは、【応神天皇】に関連付けられた【元号・継体】(応神天皇の五世の孫…おおきみおほどのすめらみこと)で在り、其の伝承と言えば【垂仁天皇紀・紀】にも結び付けられた説話として紹介されている処に、又、別の謎解きの【鍵】が此処に提起されているので在った。

…日本の歴史書に於ける元号の起元は、【二中歴・元号】が元祖で在った。其の元号を、『逸書・日本紀()』の編纂者達は、後付的に取り込んだのて在る。然るに、『逸書・日本紀』が完成し、奏上されたのは【養老四年】(720年)の【右大臣・藤原不比等】の時で在ったが、其の年 (720)に不比等は病死した。然るに、大伴安麻呂の子供の【大伴旅人】は、其の年(720年)の2月に「隼人・鎮圧」として九州(薩摩方面)に赴くが行くが、「8月・不比等・死去」を以て、京に戻り、其の翌年(721年養老五年)、従三位に叙された」。

…尚、木簡の発見に因る考古学的史料に基付けば…【己亥年十月上球国阿波五十戸)】…とは…【木簡・699年10月上球国阿波松里(五十戸)】と解される。然して【大化の改新】645年)としては、【国……里】の制度的呼称(表記)が新に設定されたとして『現存・日本書紀』(偽書)に記載在されている。此の記述内容に基付けば、『現存・日本書紀』(国史大系書)の前書に当る【逸書・日本紀』(720年奏上・ニホンギ)に記載された【元号・大化1年】(645年)と、先述の【二中歴】に記載されている【元号・大化6年】(700年)の歴年とが食い違っている事と、其の食い違い的内容が殆ど一致するので在る。

…結論を言えば、【日本紀】(ニホン)が記す
【大化の改新】とは、後付だった。即ち、【日本紀】(720年)の編纂過程で【捏造】されていたと言う事で在る。つまり、【二中歴・大化695~700年】の年号を、過去55年遡った【孝徳1年】(645年)の時として書き換えていたので在った。何故かと言えば、【壬申の乱】(672年)を勝ち取った【天武天皇】(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)の皇后(持統たかまのはらひろはらひろのひめのすめらみこと)は、【壬申乱】時の、即ち…【伊勢神宮・御遥(ヨウ)拝】に於ける【契約・履行】(式年遷宮の儀)を施行するに当っての【改元】の【義】、つまり、【通歴節目・700年思想に言う秘儀数値700を見据えて後の翌年に対する新た成る起点年を祝す改元、即ち通歴701年大宝改元年を施行する役目を担っていたので在った。従って、【すめらみこと・名称(後に言う漢風諡号…持統)の名称が書き込まれる部分に当る処に位置する【元号・大化】が此処で抹消されると共に、過去に遡る処の【孝徳天皇・紀】の処へ移動(改竄)されるに至ったので在った。


…以上のストーリー(筋書き)に関しては、『太神宮諸雑事記第一』を検証すれば納得される事と思います…

http://ameblo.jp/erusaremu464/entry-11491980743.html 二中歴と朱鳥に関する記事のURL

…以上…文中の【誤字脱字】等の修正に関しては、少し時間が無くなってきたので後日と致します事、宜しく…

…【追記】(平成26年・2014/10/04/土曜)…【オオキミ】と【天皇】との「元初的系譜の繋がり方の方向性の違い」を知る事に因り…《国歌君が代問題》…の矛盾をも知る事に繋がる…