長崎の旅 | ケセラセラ通信日記

長崎の旅

連休を利用して、年若い友人と長崎旅行。3日間で主要な観光スポットは回り、名物といわれるものも食べた(トルコライス、シャーベット状のミルクセーキ、長崎ちゃんぽん、豚の角煮、カステラなど。「吉宗(よっそう)」の茶碗蒸しは食べそこねた。夜の8時に店が閉まるんだもの)。
印象深かったのは、長崎原爆資料館と国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館、そして軍艦島。
原爆資料館は、展示物が豊富で見せ方も計算されていて、じっくり時間をかけて見ることができた。展示されている写真の多くが、山端庸介(やまはた・ようすけ)という従軍写真班員が撮ったものだと知る。記録しておくことの重要さを思った。
隣接する追悼平和祈念館のほうは、一転して静かな祈りの空間になっている。主要な施設は地下にあり、展示や説明は最小限にとどめ、光と水が効果的に使われている。2003年に造られたもので、設計は栗生明(くりゅう・あきら)。2006年に村野藤吾(むらの・とうご)賞を受賞している。私は自然に、原爆による犠牲者たちに手を合わせる気持になった。来館者が少なかったのが残念。
そして軍艦島だが、正式名称は端島(はしま)。いわゆる「廃墟」ブームで有名になった島だ。長崎半島から西に約4.5キロの沖合に位置する。見学通路が整備され、昨年から一般観光客も上陸できるようになった。長崎港から船で約1時間、見学に1時間という「軍艦島クルーズ・上陸コース」。その折にもらったパンフレットには、こうある。
《端島では、1810年頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭坑として操業が開始されました。/出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設され、最盛期には約5,300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。/エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。》
大正期から戦争中にかけては、朝鮮人や中国人労働者も多く、その過酷な労働条件のために「監獄島」と呼ばれていたそうだが、そんなことはパンフレットには載っていず、「……にお目をお向けください」と繰り返す案内係も一切触れない。
とはいえ、実際に見た軍艦島は壮観であった。見学通路は島の端を巡る。周囲全体からすれば、五分の一程度の長さか。柵が設けられ、そこから中へは入れない。見学広場が途中の3箇所にあり、そこで立ち止まって係員の説明を聞く。最盛期(1960年ごろ)の話が主だ。秋だというのに、日差しは強く、暑い。高い防波壁に囲まれているため、風は通らない。ここで働くことの厳しさを思った。目の前には、まるで映画のセットのような巨大な廃墟群が広がっている。空高くに、トビ(?)が4羽ほど舞っている。私は『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック)の一場面を連想していた。
保存と見学通路の延伸を望みたい。ちなみに、「軍艦島クルーズ・上陸コース」の料金は4300円だった。
$ケセラセラ通信日記-軍艦島(端島)風景