表層 | ケセラセラ通信日記

表層

ずっと見たいと思っていた『呉清源 極みの棋譜』(06年)をやっと見た。なぜ見たかったかといえば、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督作品であること、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『百年恋歌』に主演した張震(チャン・チェン)が呉清源(ご・せいげん)を演じているためだ。
田壮壮は『盗馬賊』(85年)の印象が強く、衝撃的な作品を期待してしまうところが私にはあるが、考えてみれば、もうずっと以前から、人間を探求する作風に変わってきているのだ。この作品でも、その姿勢は徹底して貫かれていて、そこに妥協はない。呉清源という《昭和を駆け抜けた稀代の天才棋士》の人生を、じっくりと嘘のないように描いている。
14歳で中国から日本に来て、日本の棋士たちを次々と破り、しかし祖国と日本が戦争をするという苦難の時代を生き、そのためもあるのか新興宗教に傾き、日本人女性と結婚し、戦後ようやく落ち着いて囲碁の世界に没頭できる環境になったところで交通事故に遭い、そのひどい後遺症から囲碁に集中できなくなり、王座の地位を失い、やがて引退。
そんな波瀾万丈の人生だが、それは遊びや緩みのない求道的な人生でもあり、90歳を過ぎた今も小田原で囲碁を研究しているという呉清源自身、「私の人生には二つのことしかない。それは『真理』と『囲碁』だ」という言葉を残している。「真理」が先にきているのだ。
つまり、呉清源の人生も、映画における描き方も、非常にストイックで、広く大衆に受け入れられる作品ではない。1日は「映画の日」で、1000円で映画を見られるので、シネマート心斎橋の客席は8割方埋まっていたが。大衆向けでないから駄目というわけではない。田壮壮さん、ますます求道的に映画と向き合っておられますね、と感じたのみだ。ただ、私見だが、「真理」というものはそんなにガチガチなものではなく、もっとおおらかで明るいものではないのかなあという気はする。
張震のほうは、力演と言うほかない。仕方のないことだが、14歳から日本に来ていたのなら、もう少し流暢に日本語をしゃべれるはずだが、とは思った。
驚いたのは、日中合作と言ってもいいほど、日本の俳優やスタッフが関わっていて、それが実に「いい仕事」をしていることだった。

「映画の日」だから混むだろうと思い、上映の1時間前には劇場に着き、整理券をゲットした。それでも22番だったが、座れることは間違いなく、安心して下の階のレストランへ昼食をとりに行った。店内は若い人たちばかりで、オジサンは浮いている感じ。「お飲み物はセルフサービスになっておりますので」と言われ、水とコーヒーを取りにいった。しかし初めての店で、どこに何があるのか分からない。キョロキョロしていたら、店員さんが教えてくれた。右手にコーヒー、左手に水を持ち、そろそろと席に戻る。席に着いたら、近くの席の女の子が、甲高い声でけたたましく笑いはじめた。その理由は分からないのだが、自分のことを笑われているような気がした。

映画を見て事務所に戻る。街はもうクリスマス・ムードで、あちこちに電飾またたくツリーが立てられている。その前で、ケータイで写真を撮る若者たち。歩道を歩けば、2人、3人と並んで道をふさぐ。しかも、まったく自分たちだけのペースで歩いている。ゲームセンターの前には、ダンスゲームに興じる若者たち。またそれを見ている若者たち。ここでも、ケータイのフラッシュが光る。
彼らが「真理」について考えることはあるのだろうか。華やかな表層の奥に、それはあるはずだが。いや、若者たちは刹那的だと見ることそれ自体が、表層しか見ていないのかもしれない。
人のことはいい。残された年数が少なくなってきた今、自分がどこまで辿り着けるかが問題なのだ。