平松先生のこと | ケセラセラ通信日記

平松先生のこと

62年前、長崎に原爆が落とされた日。午前11時2分だったそうだ。それまで、戦時下とはいえ、ごく普通の夏の日が続いていたのだ。黒木和雄監督の『TOMORROW/明日』(88年)に描かれたように。その年のうちに、長崎では7万人の人が亡くなったという(広島では14万人)。その人たちの〈明日〉は、一瞬にして奪われたのだ。生き残った人々の〈明日〉も、平坦なものではなくなってしまった。
夜、NHKテレビで『原爆のせいじゃなかとですか』という番組を放送していた。爆心地から数キロ離れたところで被爆し、数日後に爆心地付近に入った人たち(入市被爆者というらしい)が、原爆症認定を求めて国と裁判をしているのだ。いずれも70代前後。4年前に三十数人で集団提訴したが、すでに5、6人の方が亡くなってしまったという。『ヒロシマナガサキ』(07年)にも「(政府は)被爆者が死ぬのを待ってるんじゃないか」という言葉が出てきたが、まったくなんという国だろう。

原爆のことを考えていると、平松先生のことを思い出す。高校のときの、日本史の先生。高校2年と3年のクラス担任でもあった。口癖が「寸暇を惜しんで……」。
今と違い、クラス担任といえども親しく話すというようなことはなかった。日本史の成績も良くなかったし、「寸暇を惜しんで勉強しなさい」と耳の痛いことをおっしゃるので、敬して遠ざけていたという面もある。しかし、何度も禁煙に失敗したということを交友会誌に書いておられたりして、その人間的なところに親しみを感じていた。思春期にある高校生というものは、無関心なふりをして、この先生は信用できる、こいつは駄目だと、極めて敏感に選別しているものである。
夏休み中には、〈勉強合宿〉というものがあった。自由参加で、10日間ぐらいだったか、数十人で長野の民宿とか広島の山奥の寺とかにこもり、文字どおり勉強づけの日々を過ごすのだ。先生方のほかに、有名大学(?)に入学している先輩も数人来てくれて、指導してくれる。チューターと呼ばれていた。昔も今も怠け者の私は、一人でいると受験勉強などできないので、必ず参加していた。
何年生のときの勉強合宿だったか、その場所も覚えていないのだが、広い板の間に学生たちが座り、平松先生の話を聞いたことがある。先生も〈入市被爆者〉だったのだ。当時は兵隊で、原爆投下から数日後の広島の街を通り抜けたか、そこで何かの作業に従事したか、そんなお話であった。
細かいことはみんな忘れてしまったが、平松先生が訥々と真剣に「戦争をしてはいけない」と話されたことだけは、はっきりと覚えている。開け放たれた窓の外では、うるさいぐらいに蝉が鳴いていた。
先生の被爆体験を聞いたのは、後にも先にもその時だけである。そういう経験をされたから、歴史の先生になられたのかもしれない。しかし、それもお尋ねしたことはない。ただ、本当に伝えたいことがある人の言葉は重く、そして必ず人の心に届くものだ、ということを思うばかりだ。
平松先生は、まだお元気だろうか。