黒木和雄監督の納骨式 | ケセラセラ通信日記

黒木和雄監督の納骨式

いい天気になって、よかった。10時半、ビデオデッキとプロジェクターを景山と手分けして持ち、事務所を出発。阪急・梅田駅で京都行きの特急に乗ったら、映画評論家の浅野潜さんとバッタリ。どんな試写会でも、浅野さんは20~30分前には到着されているが、それにしても早い出発だ。「浅野さん、これで行ったら、1時間も前に着いてしまいますよ」と言うと、「そうか。昼飯でも食べとくわ」とおっしゃる。特急は満員だった。
12時、京都・今出川の同志社大学「寒梅館」に到着。浅野さんは予定どおりレストランへ。私たちは、そこで参加者を待つ。風が冷たい。
午後1時、43名の参加者がそろい、マイクロバスとタクシーに分乗して右京区の鳴滝霊園に向かう。そこに黒木監督の墓でもある「自由の碑」があるのだ。鳴滝霊園も山の上で、マイクロバスが滑り落ちるのではないかと思うほどの急斜面を登っていく。2時前、まず黒木監督たちの同志社時代の恩師・岡本清一先生の墓に参る。「自由の碑」は、そのすぐ隣、一段下がったところにある。「自由の碑」には、岡本清一ゼミの仲間16人ほどが入ることになっている。黒木監督の奥様もその一人だ。
同志社教会の佐伯牧師の進行で式は進められた。この方も、岡本ゼミではなかったが、黒木監督たちの同級生だという。「自由の碑」前に移動。賛美歌なども歌われたが、黒木監督はキリスト者ではなかったと思う。確かめてはいないが。
私は記録写真を担当。慣れぬ他人のデジタルカメラで、四苦八苦する。そうこうするうち、納骨式(牧師さんは埋骨式と言っておられた。黒木監督の骨を白い布で包み、文字どおりそのまま墓に埋骨したのだ。本当に土にかえすためだという)も無事に終了。
ふたたびマイクロバスとタクシーで嵐山に移動。午後5時から、ホテル嵐亭・嵐山の間で食事会が始まった。参加者43名の内訳は、親族15名、岡本ゼミ関係16名、小林高校関係3名、映画関係9名である。私は映画関係者の席。同じテーブルに、黒木監督の助監督だった日向寺太郎氏、後藤幸一氏、劇作家の松田正隆氏もおられた。つい先日、笹倉明著『映画「新・雪国」始末記』(論創社)を読んだばかりだったので、その監督の後藤幸一氏が目の前におられるのは不思議な感じだった。
私たちが持参したプロジェクターで『黒木和雄の肖像』(東陽一監督が編集された私家版)が映し出された。写真と音楽だけで構成された黒木監督の生涯は、感動的だった。それを挟み、全員が挨拶あるいは自己紹介のために、一度はマイクを握った。それがみんな個性的で、自分の黒木監督への思いを語り、こんなに多くの人から愛されていた監督もまず居るまいと思った。とくに、大学のゼミで一緒だった仲間たちが、五十数年を経て、こうして別れを惜しんでいるのは、稀有なことではないか。岡本清一先生を知らないことが残念であった。