「気まぐれ通信」とすべきか | ケセラセラ通信日記

「気まぐれ通信」とすべきか

ときどき停滞する。原因は、自分でもよく分からない。これが2カ月も3カ月も続くと、〈うつ病〉ということになるのだろう。私はまだ病気ではないと思うが、先日テレビで、うつ病患者の告白を聞く機会があり、「何故こんなことができないのか」と悩み、「生きている価値がない」と自分を責める気持は、痛いほどよく分かった。そんなふうに己を追い詰めるのがいちばん良くないことも分かっているので、私はしばしば〈仕切り直し〉をする。
そして、悠々と、淡々と、なすべきことをなす。それが理想だ。とりあえず、溜まった仕事を片付けていこうと思う。ますます「気まぐれ通信」になるかもしれない。読者(そんな方がいるとして)には申しわけないが、自分のペースをつかめるまで、しばしご容赦願いたい。

閑話休題。講談社文芸文庫の『花影』(大岡昇平著)を読了。ネットで注文して、普通なら1週間ぐらいで届くのに、1カ月もかかった理由が分かった。奥付の発行日が本年の5月10日。つまり今月の新刊だったわけで、発行されるまで待って発送した、ということのようだ。
主人公が葉子であることはまぎれもないが、登場人物のすべてを客観的に描こうとしている点が印象的であった。小谷野敦が「『美の審判者』への告発」という解説を書いていて、ユニークな視点だと思った。また、この小説にはモデルがあって、葉子は坂本睦子、高島は青山二郎、松崎が大岡昇平自身であることは、小谷野の解説でも事実のようだ。ただ、坂本睦子や青山二郎の描かれ方には不満をもつ人も多いらしく、白洲正子あたりがその代表らしい。そういった周辺資料を読む楽しみも出てきた。
小谷野の解説で、ひとつだけ納得できない点があった。松崎と別れた葉子が、後半で松崎と再会し、一緒に九段の桜を見ながら「とうとう吉野へは、もう一度連れてってくれなかったわね。うそつき」と言う場面があるが、最初の版では〈もう一度〉がないのだそうだ。その点を小谷野は《松崎と葉子は、一度だけだが、吉野の桜を見に行っているのを、大岡は忘れていたようだ。》と書いているのだが、そんなことがあり得るだろうか。なぜなら、この小説のタイトルそのものが、松崎と葉子が吉野で桜を見たときの描写、《もし葉子が徒花(あだばな)なら、花そのものでないまでも、花影を踏めば満足だと、松崎はその空虚な坂道をながめながら考えた。》からとられているからだ。先の葉子の言葉に最初は〈もう一度〉がなかったのは、説明的になりすぎると大岡が考えたからではないだろうか。
事実、松崎と葉子が吉野で桜を見たことを、その簡潔で美しい文章とともに記憶している読者には、この〈もう一度〉は強すぎるように思えるのだ。読者に誤解を与えないように、より分かりやすく、と大岡が考えたことも理解できるが、それならここは〈また〉とか〈あれから〉程度でよかったのではないかと思う。〈もう一度〉という表現が強すぎるから、小谷野にあらぬ詮索を強いたとも言えるのではないか。
4月16日の日記に書いた映画『花影』(61年、川島雄三監督)についても触れておきたい。そこに私は《(映画の)葉子の部屋には風呂がなく、1DKのようだ。ここに男が転がり込んだりするのだから、なんとも狭い。》と書いたのだが、原作にも風呂はなく、映画と同じように葉子は銭湯に行く。アパートの広さも《六畳の部屋と四畳半の二間続き》とあるから、1DKと大差はない。つまり、映画はかなり原作に忠実に描かれているのである。違った印象を受けるのは高島の描かれ方で、原作以上に〈貧すれば鈍する〉という感じが強い。かわいそうなのはモデルとされた青山二郎で、なぜ大岡が青山に反感を抱いていたのか、その実態はどうだったのかなど、興味はつきない。
ふたたび原作に戻るが、モデルとなった人々を知らない私には、自己も他者も客観的に描こうとする大岡のストイックな文章によって、『花影』は静かに慎ましく葉子の鎮魂歌をうたっていると思われた。

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