映画『花影』 | ケセラセラ通信日記

映画『花影』

桜の季節、大岡昇平の小説「花影(かえい)」のことを書いたり喋ったりしていたら、ある日、ある方からビデオテープが送られてきた。メモ書きもなく、ビデオにはタイトルも記されていない。さっそく再生してみると、映画の『花影』であった。映画になっていたことはつい最近知ったが、まさか見ることができようとは!
1961年の製作で、監督・川島雄三、脚色・菊島隆三、撮影・岡崎宏三という豪華版。主人公の葉子には池内淳子が扮し、その周辺の男たちには佐野周二、池部良、高島忠夫、有島一郎、三橋達也らが並ぶ。ほかに山岡久乃、淡島千景も出ている。これで面白くないはずがない。
銀座のバーの〈女給〉葉子が、多くの男たちと関係をもち、その中でも自分らしさを貫こうと懸命に生きるが、結果はいつも男に裏切られ、あるいは失望させられ、ついに自ら死を選ぶという、華麗だが哀しいお話。
池内淳子が、若く美しい。まるで〈むき玉子〉のようにツルリとした肌、粋な着物の着こなし。酔うと下唇を舐めるという癖も見事に自分のものにしている。
対する男たちは、愛情もあるのだろうが、それは欲情と紙一重のようで、結婚を懇願していた畑(有島一郎)も「女給ふぜいが」などと暴言を吐く。葉子が最も信頼していた高島(佐野周二)ですら、結果的には葉子に甘え、金の無心を繰り返していたにすぎない。ふがいない男たちに憤りつつ、わが身を見るようでもあり、フクザツな心境。
1961年といえば昭和36年で(原作の設定は何年ごろなのか知らないが)、東京オリンピックの3年前。葉子の部屋には風呂がなく、1DKのようだ。ここに男が転がり込んだりするのだから、なんとも狭い。それは最後の独白につながっているのだろうが、銀座のバーに勤める女の部屋にしては、また原作を読んだときのイメージからも、少し貧弱すぎるように感じた。
原作のイメージといえば、池内淳子の熱演はそれとして、葉子はもっと小柄で華奢であってほしいと思った。もちろんこれは、ないものねだりというものであるが。
好きな原作があって、それが映画化されたときには必ずこういう気持になるもので、それは仕方がない。それを差し引いても良く出来た作品で、私は2回見てしまった。
余談だが、30歳の女性にこの映画の話をしたら、池内淳子も佐野周二も池部良も「知らない」と言う。辛うじて〈高島兄弟〉のお父さん(高島忠夫)は分かったようだが。自分の年齢を意識させられる、ほろ苦い会話であった。
それにしても、インターネットで注文した講談社文芸文庫の『花影』は、まだ届かない。注文履歴を確認してみたら、〈お届け予定〉は5月14日となっていた。おいおい、1カ月も先なのか。吉野の桜も散ってしまうぞ。また古本屋めぐりをしてみるか。