虐殺器官 | Mi diario

虐殺器官


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話題のSF小説、やっと読めました。


帯に宮部みゆき

「私には、3回生まれ変わってもこんなにすごいものは書けない。」

とあって・・・。

宮部みゆきの小説は2・3冊しか読んでないけれど

記憶に残っているのが「模倣犯」だけ。

娯楽性に優れているので読んでいる間は退屈しないけれど

「模倣犯」はとても長い小説なのにこんなに長く読ませておいて、終わり方がこれなの?

と読み終えた後、思わず眉をひそめてしまった、という記憶だけが残っています。


私は活字中毒なので何か読んでいたいという欲求が強いのですが


本を読むと

「読み物としては面白い、けれど全然こころに残らない」

「思索の森に連れて行ってくれる」

「何度でも読み返したくなる言葉の芸術」


と3タイプに分かれます。どれも私の独断と偏見です。わたしのなかの基準。



この「虐殺器官」は「思索の森に連れて行ってくれる」小説でした。


「思索の森」 深く思考できないくせにちょっと格好つけて、自分の中で使う言葉です。


それはその物事によって(本を読むことでも映画を見ることでも現実の体験でも

誰かとの会話を反芻する時でも)、

感情が揺すぶられ、その揺すぶりによって自分の中の

経験や記憶から派生してあらゆる思考が引き出されること。


それが私のなかでの「思索の森」


私はこの森を散策することを好みます。


だからこの森の入口まで導いてくれる作品が好き。


この作品を読んでいる間中


何度も読み止まって、考え、読んでは考えました。


文章としては読みにくい。


でも、わたしたちの世代の文学だと思いました。




私たちの世代の文学。


もう、生まれたときから物質的には豊かで

衣食住に苦労はなく、すぐ身近に工夫の凝らされた娯楽が溢れ、

美味しいものは非日常でなくても、日常でも食べれる。


飽和と充足、だからこその失望、その奥に潜む空虚と外の世界への傍観。無力感。


ゲームやアニメや漫画や映画や音楽や本。

個人がひとりで愉しむことができる娯楽が手を伸ばせばすぐ掴めるところにたっぷりあって


その世界に入ってしまえば、自分の取り巻くすべての煩わしいことから

解放される。それらの世界は現実よりずっと楽しく美しくスリリング。


それこそ村上春樹の作品のテーマである「デタッチメント」な私たち。


ナイ―ヴで神経質で潔癖で他人と一定の距離を置くことを好み、他人がある一定の距離を超えて

踏み込んでくることを恐れ、嫌う私たち。


作品の主人公に一貫して感じる「傍観的」な視点。

空虚と他人への無関心と厭世。


どんなに作品の中で残酷な場面が描かれていても

まるでゲームや映画のように映像を見ているみたい。

そのなかに入らないで画面からそれらを見ているみたいな本ではないみたいな

作品。



このSF小説を教えてくれたSFファンの友人が

「読めなかった。途中まで読んだけど読めなかった。」


そう言っていたけれど、私はわかる気がする。


一見デタッチメントを装っているように見えるけど心の底でコミットメントを

強く求める友人には好きになれない作品なんだと思う。

村上春樹があまり好きではないという同じ理由で。たぶん。



でもわたしは、この作品ほど、ここまで極端ではなくても

わかる気がする。

外の世界への傍観と無関心、その逆に自分の内の世界への強い関心と

甘ったるい感傷と孤独とエゴと強いナルシズム。


この小説についてはまだまだ自分の中できちんと掘り下げられなくて

言葉にできないところが多いみたいです。


まだまだいろいろ書きたいのに、言葉が出てこないもの。



*


ところでこの小説の著者、34歳という若さで夭折。


作品があまりに厭世的で失望感に満ちているので私は自死なのかと思いましたが

ウィキペディアを見ると肺癌で亡くなったよう。

あまりに早い死。




構成が映画かアニメのようで

描写がゲームのようで

文章は文学的風です。

でもどこか上っ面を滑る感が否めないかな。

そういうところも私たちの世代と通じる気がする。



すごくすごく長いのに

こんなに心に残らない作品も稀有だと思う。


この作品、村上春樹自身が未熟な作品だからと英訳を許可しないとか・・・・

でも私はこの作品こそ村上春樹ワールドの特色が色濃くでていて

好きなんだけどな。