高慢は能動性によって始まり、臆病は受動性によって始まると言うことならば、高慢とは底深い臆病から発せられる。よって臆病とは、高慢の一つの形であると証明されるのか?



いずれにしても人は不思議だと言うことですが高慢であれ臆病であれそれは、個々人の心の中に葛藤するものです。



どちらにしても表面化する場面において、それらをサポートする人が存在するかしないか、これが大変重要になってくる。



これらを考えると如何に自分自身が周囲の方々に支えられていたかを実感するものです。



高慢も臆病も人間の持ち得る愛嬌と言えるのでしょうか。



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