昨夜、

友人の教員(小学校教諭)から3月で退職すると連絡があった。


前々から、『教員には、むいていない。』と、

悩んでいたことがあったが、

『教員にむいているかいないかは、

自分で判断するものではないよ。

生徒達が決めるじゃないの?』と

エールを送っていたのですが。


同僚達と意見が合わないのが一番苦になっていて

疎外感が拭えなかったと言うのだ。


せっかく、

志しをもって、

教員試験に受かったばかりなのに、

大変残念です。


私は、

教員の世界において、

脱落者の烙印を押された人間であり、

教育を語るのは、

相応しくない人間ではあるのかも知れませんが、

失敗した人間のことだからこそ今、

冷静に教育の現場を

見つめることができるのかもしれません。


祖母が教員にしたくてせっかく手に入れた教員の道を、

それを自ら拒否して、

「民間」に跳びだしました。

自らの決断で選択した道ですから、

今更、

後悔するものは何もありませんが。


そして今は、

人々から「おじちゃん」と呼ばれる年齢になってしまいましたが、

昔は、

赤ちゃんだったし、

悪餓鬼だったし、

人を好きになったり、

ふられたり、

泣いたり、

迷ったり、

色々なできことがありました。


そんな私ですが、

いわゆる最高学府で思いっきり勉学に勤しむ機会に恵まれ、

教職に身を置くことができた方々を

とてもうらやましく幸せだろうなぁと言う思いで見ています。


「教育」の「教」は、

「教える」と言う事で、

教えられる側の皆さんから言えば、

「教わる」と言う事になります。


この「教わる」は、イコール「学ぶ」と言う表現にもつながります。


祖母が願った

教員への道を断念した私が企業人となってから、

長年、

企業内の教育を担当させられる破目になったのは、

運命のいたずらでしょうが、

私は、

『教えることは、自らが学ぶことだ!』と言う言葉を大切にしていきます。