たいそうな事を言おうとしているわけではない。

 

 私達は相対的な世界の中でプカプカ漂って

いるとつくづく感じる今日この頃だからである。

 

 私自身も読者自身も自分の存在に関しては、

(おそらく)絶対的存在として認識しているにも

関わらず、個人以外は全て相対的なものであり、

他者とのコミュニケーションすら相対的である。

 

 コミュニケーションを取ったと思っても、お互い

ほとんど通じ合っていないということが日常茶

飯事でしょ?!

 

 ひょっとしたら、「絶対的存在」と思い込んで

いる個人も相対的なものなのかもしれない。

 

 世の中で私が最も嫌悪している「文法」を例に

とると、「形容詞」はとにかく全て相対的であろう。

 

 「美しい」というのは絶対的評価では決してない。

 

 名詞ですら上下左右前後内外等方向を示すもの

は全て相対的である。 さらに、抽象的な意味の

名詞が相対的であるということはいうまでもない。

 

 「茶碗」「コップ」「窓」とかの普通名詞は流石に

相対的ではあるまいが、いかんせん相対的な渦は

凄まじい。

 

 相対的なものの中で価値を評価するのは実に

困難である。

 

 何故なら、その場合は仮の標準点を定めなければ、

「評価」そのものは不可能だからである。

 

 では、その「標準点」は誰がどのように決めるのか

という出発点からしてあやふやである。

 

 従って、思考停止にならざるを得ない。

 

 先日、新聞を見ていて驚いた。 地球の地軸のN極と

S極が360万年の間に少なくとも11回も逆転している

というのだ。

 

 どうしてそういうことが分かったのかにも驚くが、北極は

S極で南極はN極という人類全員の「当たり前の事」ですら、

実は「当たり前」ではないことが一番ショックだった。

 

 そんなことを考えていると、神道でいう

 

 「陰極まって陽なり、陽極まって陰なり」

 

 という教えが相対的な海の中で溺れそうな私にとっては

最大の救いになっているのである。