「当たり前だよー」
「当たり前でしょ」
まぁよく使われますねこちらの表現も。
言われるたび、使うたび、貴方のね、っていう気持ちで受け取っていますが。
そうじゃない人も多くて辟易すること多々だけど、そういう人たちは「当たり前」を刷り込まれてしまった人なのだから仕方ないとも思う。
当たり前の基準を高く自分に課すことは、素晴らしい結果になると思うよ。それを、’自分にとっての’当たり前、だと認識しているならね。
周りにもそれを求めるようになるとまた話は別なので。
当たり前なんてものは人の数だけあるので。
突然ですが、先日「じゃあなんで生きてるの?」という質問を受けたので(母親から)、それについて久しぶりに考えてみた。(中二以来か?)
どうして、"当たり前"に「生きる」ほうの選択肢を選んでいるのか?と。
というのも、私がオーラソーマのボトルをこれまた、ものすごく久しぶりに引いたら、選んだボトルのテーマがなんとなく'自分の死'についてだったので、死ぬ瞬間にはきっと「あぁ、やっと死ねる」と思うだろうなぁとそんな話を呟いたところ、 上記の質問に至ったわけで、別に言葉そのままで変な他意は全くないんだけどね。
色々経験して、自分なりに何かを選んで進んできた人生が終わりを迎える時、あーやっとゴールだよ、やっと終わるってなると思って。
もっと生きたかった?なるかなぁ…ならんだろうな。
言われた瞬間は、(え、基本的には貴方が生んだからですが?常に生きたいと思ってないとダメなの?)と思いつつ、「さぁ…」とか流しちゃったんですが。
通常運転で「死にたくない!」って皆強く思ってるんだ?のほうがびっくりで。
勿論、今までの人生で「これが終わるまでは死にたくない!」「本当この瞬間の為に生きてるわー!」とか、「まじむりもう死にたい」「摘んだ…もう生きたくない」とか、その瞬間瞬間に思ったことはたくさんあるけども。
でも幼少期から、’自分が(人が)生きている’って事と同じくらい自然に、’人は死ぬ’っていう事も、どちらもすぐ隣に事実として在ったわけで。
昨日まで、さよーならーまたあしたー!って別れた人に、明日会えるとは限らないんだっていう現実。
これ、本当に常に頭にあるんですよね。
いつでも、自分や誰かの人生が唐突に終わるかも知れない可能性。
それがいい悪いじゃなくて、そういうもんでしょっていう。
例えば何か選択を迫られたとき「明日、自分が(又は相手が)死んでしまうとしたらどうする?」ってことを考える。
何を選んでも、後悔しないなんてことはありえないとしても。
とりあえずあれをやるまでは生きるか…っていうエサを自分の目の前に自分でぶら下げる。
「こんな世界もあるよ」と、生きているからできる、出会えるもののほうへ導いてくれる作品や人と会えているうちは。
現実として母親が私を産んだから(産んだせいで、という意味ではなくて)、ただ死ぬ瞬間が訪れるその時まで生きてる。
その間に、色々つまみ食いして自分は何をしたら楽しくて、何が起こるとつまんなくて、とかとかとか体験しながら生きてる。
自分で親を選んで生きることを選んできたとか、そういう、覚えてもいないスピリチュアルな話なんかどうでもよくて。
※否定したいわけではにので、そう考えるのがピッタリはまって幸せな気持ちになれる方はそう思っていればいいと思います。
ま、そんなわけで、本当に大変な思いをしてせっかくこの世に生み落としていただいたわけなので、色んな道を行ってみたり、お布団に籠ったりしながら生きていくのですよ。
こんなことを書いてると、そんな事を自由選択しているだけであなたは幸せなんだ!とか言ってくる人もいそうだけど幸せかどうかの話ではなく。
自分が、「当たり前」としてできている色々に、勿論感謝をしてる。
選べる事、おふとんで眠れる事、働ける事etc etc
あと、
「命は大切で重いものです」
っていう、その昔学校で習ったこの「当たり前」の道徳観念、これ自体に違和感を感じる人、プレッシャーのように感じる人がもしいらしても、それはどこかおかしいとかそういうことではないと思う。
だってねぇ、たいてい、当たり前だっていうなら、そんなことをわざわざ言わないもん。
そうあって欲しい、そうで在ろうっていう気持ちがあったりするから、わざわざ言葉になってるんだと思う。
昔、赤紙一枚で自分の命を徴集された人達や、身分差みたいなものを味わったことがある人なら、この言葉に反発するだろうと思うし。
自殺していてはいけません
人を殺してはいけません
犯せば罰則はあれど、しちゃだめって法律になってないのはなんででしょうね。
なので、今この瞬間を生きる!みたいな事が出来る人は本当に羨ましいけど、自分は無理なので、したいこと、やりたいこと、欲しいものなんかの餌を自分の目の前に吊り下げておかないとなわけで。
美しいもの、面白いもの、便利で機能的なものを探して見つけて生きてます。
つまりなんのこっちゃというと、
当たり前というものが存在するかというと、そんなものあないでしょ!!!!!と言いたい。のよ。
そう呼んでいるそれはただの誰かの基準であって、事象や定義じゃない。
外食をして、お手洗いに立つと、今は’当たり前’にアメニティが充実してたりする。
最初は感動したでしょう。
なんて気が利くんだ…!ありがとう…!って思ったよ私は。
やっている数が多くなったからって当たり前になるわけじゃない。
普及したって事は、需要があったって事は勿論、そこには相手の好意とか善意とか努力とか、愛が確かにこもってるからで。
「ここ、ないの?いまどき当たり前じゃん?」みたいな感覚になる人がいるのかと思うと恐ろしい。
どんだけ与えられ慣れているんだろう。
あとは、仕事に行くために、朝起きるのは当たり前だと多くの人がしてますよね。
そこへ、「朝起きたの?えらーい!」って言われたら、貴方の当たり前を、誰かが褒めてくれたり認めてくれたりしたら、やっぱり嬉しいもんじゃないかな。
はじめてコウペンちゃんを見た時、知った時、私泣いたもん…!
https://twitter.com/k_r_r_l_l_/status/961725004076347392
「そんなの当たり前だし何言ってんの?」って思う人はきっと、当たり前っていう言葉で隠されちゃってる、自分の努力も周りの努力や好意も見えないのかもしれませんね。
生きてるだけでえらいんだよーって言ったっていいじゃんー。
推しのキャラに言ってもらえたらそれで生きていけるよー。
でも生きてこそっていわれると死にたくなるから天邪鬼なんだけども。
考えるのに疲れたらストレッチしてさ。
漫画読んでゲームやってればいいんじゃないかな←
支離滅裂な久しぶりの駄文だ。終わり。