そのように思っていた方がよいのです。

教科書も毎年改訂されますし、日進月歩の学問は常に変化して書籍が出た時点で既に過去の遺物になります。医学の内容もその傾向にあります。不変と思える文学作品もございますけれど、完全ではありません。我々は不完全なのです。

人はいろいろな知識を得て、知識が増えれば増えるほどに、いろいろな考えが出て、どんどんと自分は正しいという思いは大きくなりがちです。ここまで勉強したのだから他の追随を許さないという思い。知識の優劣は、単に知らない人との相対比較にすぎない。その知識をどう生かすのかが問題です。

自信とも言うかな。
傲慢というかも知れない。

傲慢という穴。専門科は特にその穴にはまり込みやすい。一度はまると権威という鎖で身動きが取れず過ちを認められなくなることも少なくはない。強固に固定された観点は地動説を受け入れるのに数百年を要した。

国会図書館の本すら一人で全て読んで全てを理解して全てを記憶することはできない。ましてや、いくら世界がネットで繋がったとしても、この世にある全てのでき事を一人の人間が全てを知る事はできない。だから、完璧な知識を持った人類はこの世にはいないのです。

亡くなられた大滝秀治さんの好きな言葉です。
「自信の上に傲慢あり、謙虚の下に卑屈あり」
進歩しつつも中庸であれということにもなるのかな。

そもそも、

その得た知識が絶対に正しいということはありません。
人の考えを通した時点でその人の観点が入ります。
それを伝えるとまたその人の解釈が混入。
それを繰り返し、情報は種々の観点まみれになっていく。
いいとこ取りもする。
同じ言葉でも聞く側によって解釈は十人十色でもある。
それは伝言ゲームをすればすぐ分かる。
最後まで正確には伝わらない。
だから情報に絶対はないし、結局は全てが思い込み。
全ての人類の思い込み。

たくさんの人へ影響したらしい1つのブログ。
ご自身の人生によい影響があれば取り入れれば良いし、
要らんなあと思えば捨てればよいし。
なんらかの波紋が広がるのはその人の心に触れたから。
賛否両論があるのは基準点がたくさん存在するから。
私の基準点。
読んだ人の基準点。
良いと思った人も、嫌だと思った人も、
読んだ人の数だけ基準点がある。
今回は共感した人がたまたま多かっただけの現象。
それだけ。
だから私はなにも変わらない。
変える必要もない。


この世になぜ争いが起こるのか。お互いの観点が強固に固定し合っているから、補完し合わない、認め合わない、尊重し合わない、結果的に攻撃し合う。自分が、自分が、自分我。自我。それが今の世の中のようにも思えます。

ということで、完璧な人間は1人もいないという前提でこの世を生きることとなります。故に、自分の持っていないものを他人は必ず持っている。だからこそ、補完し合い、認め合い、尊重し合い、1つの社会を作る事が出来れば、争いのない世界ができるでしょう。

また、正しいことは1つもないという前提で自分というアイデンティティをこの世で作る事になる。完全ではないので間違いを修正し続けていく。魔法が使えてもいい。オーラが見えてもいい。手のひらからなにか出ていてもいい。良いも悪いも無い。ありのまま。それでいい。そんな人と人とが出会い、繋がっていく。平和な世界。


それにしても、なんて面倒くさいことをわざわざこの世まで来てなにをしておるのか。


今、見えているこの世も、
今、感じているこの世も、
人間の五感覚が作り出したデジタル信号。
単なる電気的活動。
自分がいると思い込んでいる。
地球があると思い込んでいる。
優れたシステムではあるけれど、所詮は信号。
こう言うと なんか寂しい。


しかし、、、、
それは愛すべき信号。
私はこの信号が好きだ。
奇跡的な芸術性を持っているこの世。
究極のアートの世界。
そんなこの世と呼ばれる場所で人生を楽しもうではありませんか。

そうしないと勿体ないですよ音譜


うつくしいものを
美しいと思える
あなたの心が
美しい

~ 相田みつを