「ご先祖様!!」 Emileのコラム 169 | 地球村研究室

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厳しい地球環境制約の中で心豊かに暮らすには?沖永良部島で実践しながら考えたいと思っています!!

 これでアオリイカ? 恐らく超級のアオリイカ、大きな石鯛と共に到着しました。毎日のように潜っている画家のKさん、それにしてもよくこんなものが捕まえられるものだと感心しきり・・・・ ともあれ有難い!

早速捌いていると、猫のメロがずっとおねだり・・・・ イカは皆さんの御要望で目の前で握って食べて頂きました。もちもち感が最高!とのことでした。(酔庵主は、イカが聊か苦手なのです、もちろん姫のために料理はしますが・・・)

 我が家をドローンで撮って頂きました。なかなかと面白い、3月末に、やっと太陽光パネル(PV)の設置許可が出て(1.5年掛かりました・・・何とも・・・・)、セミオフグリッド実験(可能な限り電気を自足-蓄電池に貯めて使うー足らなくなったら九電から購入)の工事開始、実験準備が整いました。どんな結果が出るのかこれから楽しみですが、ドローンの写真を見ているとPVのかなりの部分が木で隠れている! 下から見上げている時にはそんなにも感じなかったのだけど…、その打ち枝切りをしなくては、反省です。

 

小学校での子供たちの授業でも強く感じるし、送って頂いた沢山の手紙を読んでいても感じるが、子供たちの自然に対する思いやそれにかかわる情報の吸収力には驚かされる。教科書にも載っている「自然と暮らす」という、たった12時間ほどの授業なのに、乾いた砂が水をいくらでも吸収するように、前のめりに、きらきらと目を輝かせ、こちらが圧倒されるほどのことも多い。恐らく自然というものを理解する受容体のようなものがあって、ゼロベースではなく、それにスイッチが入るのではという気がしている。ユングの精神分析学では、「すべての人間には自分で自覚している精神があるが、それは人間の精神の表層部分でしかなく、その下に膨大な無意識の精神を持っている」と考えている。無意識は太古からの生物の意識の積み重ね(集合的無意識)で、普段は気づいていないけれど、何かの拍子でスイッチが入り出てくるものだそうだ。子供たちの自然に対する意識は、きっと集合的無意識に埋もれていたものなのではないのかと思っている。

この感覚は、世界共通で日本だけでなく海外で子供たちに話をしていても同じなのだが、聊かの違和感も感じる。日本の子供たちの方が熱いのだ。上手くその感覚を表現できないが、単に知識ということではなく、自然というものをより深く感じているのではないかと思う。何故だろうか、恐らく社会構造の違いが集合的無意識の中に織り込まれているのではないかと最近思っている。欧米の社会が生きた人間で構成されてるのに対して、日本の社会は自然と人間で構成され、さらに人間が生者と死者で構成されている。柳田国男は『死者の魂の行き場は人々が生まれて生きて死を迎えた場所』だと言ったが、まさに人は生まれてから死を迎えるまで魂が穢れて行く、何故なら自己を持つからであり、自己があると自己主張し、自己目的を持ってしまうからである。死によって魂は森に戻り、自然の力を借りて穢れを取り払い、徐々にきれいになる。自己の無くなった魂は自然と一体化し、自然そのものとなり、それが子孫を守り神や仏になるという。それに必要な時間が例えば33年(三十三回忌、弔い上げ)であったりするのだ。日本人にとっての自然はご先祖様の宿る場でもあるのだ。そんなことが、集合的無意識の中に織り込まれているのだろう。

一方では、自己の経験によってつくられた自覚された意識と深層にある集合的無意識のバランスをとることが現実に生きる上では求められる。とりわけ都会に住めば、集合的無意識に蓋をしなければならないことも多いだろう。ただ、あまりにしっかり蓋をしてしまえば、集合的無意識の圧力が高くなり、そのうちその圧力に耐えられなくなり爆発して「精神的な病」になる。ワーク・ライフバランス(仕事と暮らしの質と量のバランス)という概念もここから生まれたのだろう。島暮らしはどうか、ワークとライフがオーバーラップしており集合的無意識に蓋をする必要はほとんどない。お年寄りに笑顔が絶えないのはそのせいではないのか、100年先の子供たちを思える御老人がいらっしゃるのもそのせいではないのだろうか。

島暮らしを始めてもうすぐ4年が終わる、島に居ると集合的無意識のスイッチを押されっぱなしである、有難いことである(笑)。