『心豊かに暮らすということ VI』 沖永良部島から考える Emileのコラム132 | 地球村研究室

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厳しい地球環境制約の中で心豊かに暮らすには?沖永良部島で実践しながら考えたいと思っています!!

VI 間抜けのデザイン

 

1.島にも豊かな秋がやって来た

島の気温も21-23℃くらいになってきた。やっと秋の気配を楽しめる季節になった気がして、少し嬉しい・・・・ この時期は虫たちの活動もひと段落なのか、畑に植えたニンニクが元気よく芽を出し始め、冬の定番料理であるヒルアギ炒め(ニンニクの茎と豚バラ肉の炒め物)が楽しみになってきた。庭のジャングルに自生しているシークヮーサーも大きく身が膨らみ、パパイアもたくさんの実をつけている。青パパイヤは野菜サラダやピクルスにして、少し熟して黄色くなったものは鳥たちの御馳走である。島バナナも、夏のものほどの風味はないものの酸味のきいた味を提供してくれる。春は虫たちにやられてしまって、トマトもナスビもキュウリも全滅してしまい、夏の暑さの中では、人も野菜もみんな元気はなく、やっと迎えた秋ではあるが、この時期なら、素人の僕でもなんとか野菜つくりが出来そうな気もしてくる。有難いことに、我が家の庭に自生しているパパイヤは台風18号の強風の中でも、というか強風をうまく避けられるところにあったのか、たくさんの実をつけているものの、島のパパイヤは大半がやられてしまったようで、何人かの方から、種を分けてほしいとの話を頂いた。今まで、何も生産できず、笑顔を振りまくだけで、日々の糧を皆さんから頂いて来た身としては、ほんの少しではあるもののやっと貢献できる嬉しい話ではある。

2.賞味期限の切れた『環境と経済成長の両立』

持続可能な社会とは、『環境と経済成長の両立』と定義されてきたが、これはすでに賞味期限切れのように思う。先のコラムにも書かせて頂いたが、今求められている持続可能な社会とは、『環境と人が心豊かに生きるという成長の両立』であり、それが実現できて初めて経済的な価値も生まれるのだろう。それこそが、21世紀に求められる持続可能な社会なのである。さらに、そんな新しい環境と成長の両立を地方から考えることが今特に求められている。それは、消滅可能性都市などと揶揄される地方が、実は環境と成長の両立を考えるに必要な自然観を今なお色濃く持ち、さらには、心豊かに生きるための失ってはならない価値を数多く持ち続け、少子高齢化の最前線にあるという健全な危機感を有し、真に持続可能であることを根底から考え直すには最適な環境にあるとも言えるからである。

 今月、1222-23日の2日間、消滅可能性都市のひとつである奄美群島・沖永良部島の知名町で、島人と本土の人たちが、90歳ヒアリングで見つけた、島の失ってはならない価値についてじっくりと考えるシンポジウムを開催予定である。(http://i-d-sol.com/erabu/) どんな議論が生まれ、どんな方向が出てくるのか、心から楽しみにしている。

 

3.社会は自立型の暮らしを求めているのに・・・・

先回のコラムで、心豊かな暮らしの構造を提案させて頂いた。昨年12月に上梓した“Nature Technology”(Springer 2014)に、その基本的な概念を発表し、それ以降、多くの方から色々なご意見を頂いたが、本質的には、この構造が受け入れられたものと考えている。

 さて、この心豊かな暮らし方の構造をライフスタイルという視点で見れば、A領域は依存型、B-C領域は自立型のライフスタイルであり、多くの生活者が自立型のライフスタイルを求めているのだと、前回のコラムで書いた。

しかし実際には、自立型のライフスタイルを社会が求めていることが明らかであるのに対し、依存型のライフスタイルを助長するテクノロジーやサービスばかりが市場に投入されてるのも事実である。ブレーキを踏まないでも停まる車、全自動洗濯機、全自動・・・ テクノロジーもサービスも『お客様は神様です』を勝手に解釈して、『お客様は何もしなくて結構です、テクノロジーやサービスがすべてを代行させて頂きます』という利便性のみを煽る方向にどんどん流れている。この状態が極端になれば、依存型のライフスタイルはさらに助長されて、極端な場合、完全介護型のライフスタイルを生み出すことになる。これは、健康な人をベッドに縛り付けるようなものである。確かに、初日は驚くほどの快適性を感じることだろう。何もしなくてもすべてが、あなたのために奉仕されるのだから… 王様の気分にも浸れるのかもしれない。でも、一週間もすればどうなるだろうか、一か月もすれば間違いなく猛烈なストレスに悩まされることになる。どんな我儘も聞いてくれるものの、自分は一切手出しできない・・・・常に受け身の暮らしを強いられるのである。あなたのためのテクノロジーやサービスがどんなに素晴らしいものであれ、さらにそれが進歩すればするほど、受け身の立場はさらに際立ち、ストレスが増すという悪循環に陥ることになる。今、企業には猛烈なクレームが押し寄せているが、その多くは間違いなくこのストレスの結果であるように思う。

私事で恐縮であるが、私は車好きであった。過去形にしたのは、今まで色々な車を乗り継ぎ、もちろん、地球環境という世界に足を踏み入れてしまったこともあるが、今乗りたいと思う車がなくなってしまったからである。随分前の話になるが、イタリアの車を手に入れたとき最初から少し雨漏りがあった。国産車と比べてもかなり高価な車なのに雨漏り… その車をディーラーに持ち込んだ時、担当のメカニックが言ったのは『手創りの車ですから、この程度の雨漏りはこの車では当たり前で、程度としては極上の部類ですよ、気になるようなら、雨の日は乗らない方が車にとってもベストです。』こんな言葉に妙に納得して、クレームどころか『手作りなんで、多少は雨漏りしますよ』なぞと、さりげなく自慢にしていたのを思い出す。これが、大量生産の車なら、恐らくディーラーの責任者が代車を持って飛んできて、頭を下げ、直ちにクレーム処理になっただろう。ものの価値というものが如何に曖昧であるのかという一つの例である。本来、クレームの対象である雨漏りが、メカニックの言った『手作り』、『極上の部類』という言葉で、一挙に『制約の中で育てる』(前コラムの図を参照) 愛着の湧く商材に確固たる変身をしたのである。

 無論、雨漏りする車を奨励しているのではない、今求められているのは、完全介護型のテクノロジーやサービスではなく、愛着を生み出すテクノロジーやサービスなのであり、ライフスタイルで言えば、それは自立型のライフスタイルである。ところが、世の中の多くの商材は依存型のライフスタイルを煽るものばかりで、自立型のライフスタイルを煽るものはほとんどない。それどころか、自立型のライフスタイル=自給自足型のライフスタイルという極端な世界ばかりが紹介されているのも事実である。究極の田舎暮らし、五右衛門風呂、畑で野菜を作り・・・・さらには、セルフビルトの家・・・・ こんなことが、どっぷり利便性の海に浸かってきた都会暮らしの、例えば私に突然のように出来るわけがない。

 実は、依存型と自立型のライフスタイルの間には『間』が存在するのである。そこには、自らのスキルや知恵で制約を乗り越え、ライフスタイルに達成感を覚えたり、商材に愛着を生み出す世界がある。そして、そのスキルや知恵には、依存型のライフスタイルに近い、例えばネジを締めるというような初歩的なものから、自立型のライフスタイルに近い、畑で野菜をつくるとか自分で家を建てるというようなものまで、色々な制約が存在する。その制約を自分のスキルを上げて行くことにより、例えば、初歩的なもので考えれば、のこぎりで木を切る・釘を打つというレベルから、鉋で削る、臍を組むという高いレベルまで進歩してゆくことで、乗り越え、それを繰り返すことで、より高い達成感や愛着の湧く世界を創り出すことが出来、自立型のライフスタイルにどんどん近づいて行く、どんな変化を多くの人が望んでいるのである。それこそが、『間』を埋めるテクノロジーやサービスが生み出す、新しいライフスタイルのかたちなのである。

 しかしながら、現実的には、多くのテクノロジーやサービスは、依存型のライフスタイルの方ばかりに向き、『間』が抜けているのである。この『間』を埋める領域はテクノロジーやサービスの宝庫でもあるにもかかわらず、少子高齢化でどんどん小さくなる市場の中で相変わらず依存型のライフスタイル創出のための利便性ばかりを追った商材に多くの企業が目を向け、結果としてコスト競争に明け暮れ疲弊して行くのは、ある意味聊か情けなく、滑稽にも見えてくる。

 昨年、いくつかの新聞に『ものを欲しがらない若者』という見出しが躍った。昨今の若者は車をはじめ、ものを欲しがらない、それはなぜか?という問いかけに、多くの評論家の色々な意見や提言があった。その多くはそれなりに納得のゆくものではあるが、私の意見は、そもそも、ものを欲しがらない若者など本当に存在するのか?という疑問であり、一方、そんな若者がもし存在するなら、その若者は世捨て人か仙人くらいだろうと思っている。ものを欲しがらない若者などきっと存在しない、そうではなく、欲しいものが市場に投入されていないのである。若者が欲しいのは、まさに間を埋める商材であり、フォーキャスト視点では見えにくかった、新しいテクノロジーやサービスのかたちなのである。