小津さんとシンガポール | EleMariRai @ JB

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三人の娘たちとフルタイムのワーキングマザー。
マレーシア最南端のジョホールバルでのあれこれを綴ります。

昨夜のヒストリアで小津安二郎さんを取り上げていましたね。
戦中に映画製作のためにシンガポールに滞在していたことが
ほんのちょっと(本当にちょっと)だけ出てきました。
 
シンガポールで接収された「市民ケーン」を見たことが、
戦後の小津映画に影響を与えた、とまとめられていました。
「とんでもない国と戦争をしてしまった」と言ったそうですが。
この手の接収映画の神話って実は多いんですよね。
 
蘭印慰問中の森光子さんとダンボ&ファンタジア、
南洋慰問中の徳川夢声さんと風と共に去りぬ、
米国潜水艦の淀川長治さんとファンタジア、
「この戦争には負けるんじゃないか?と思った」で終わります。
 
本当にそれだけなのかなあ。憧れとかはなかったんだろうか。
アメリカに勝って、こんな映画をたくさん見たい!とか(笑)、
戦争が終わったら、こんな映画がまた見られることを望んだと
いうのなら、全くもって腑に落ちるんですけどね。
 
 
閑話休題。上の手帳は、シンガポール時代の小津さんのもの。
終戦後に民間人が集結したジュロンのキャンプで翌年1月まで
約半年、小津さんは「自由通信」という新聞に関わってました。
 
謄写版印刷の日刊新聞だった「自由通信」文化部長の任にあった
小津さんはひたすら題字とカットに専念していたとのこと。
私は小津さんのファンではありませんので、あまり多くの作品は
観ていませんが、「お茶漬の味」でシンガポールの思い出話を
主人公が語るシーンがあったことは覚えています。
 
空がきれいでね。夜になると星がよく見えて。
あの星、南十字星。よかった。ほーんと、よかった。
 
その後。「戦友の遺骨を抱いて」を歌うシーンがあり、この頃
(1952年)には、軍歌や戦時歌謡はまだ大丈夫だったのだと
知りました。もっとも、この歌は「異国の丘」や「ブンガワン・ソロ」と同様に復員兵が日本に持ち帰った歌ではありますが。
シンガポール時代の小津さんも歌っていたのかもしれませんね。