イポーの朝。二日目も寄り道をしながら、ペナンを目指します。
ホテルのカフェが最上階(元屋上)へ移動していたので、
眺めを楽しみながら朝食をいただきました。
最初の目的地はVictoria Bridge。ペラ川にかかる鉄橋です。
でも。Guillemard Bridgeとは違い、鉄道は通っていません。
これもWARISAN。マレー語で資産、史跡とでも訳せるかな。
もう鉄道は走っていないものの、橋としては現役。
線路の脇をオートバイが行ったり来たりしています。
対岸を目指して歩いている途中、新しい線路を鉄道が!
東海岸と違って電化されちゃったので、電車なんですよね。
マタン博物館。日本占領時は軍政部として使われていました。
元々はスズで財をなしたNgah Ibrahimという人の家です。
父親のペットの象Larut(↑)がスズ鉱脈を発見したらしく、
大儲けをした彼は、この地域をLarutと名付けたそうです。
お庭に鯉兵団の戦績記念碑があるということだったので、
来てみたのですが、左下に2枚見えました。
向かって右側。破損がひどくて読み取ることはできません。
こちらは左側。
裏の碑文の状態もよく、読み取ることができました。
紀元2602年。鯉兵団長 松井太久郎。
タイ・マラヤ国境に建てられたって書いてあるんですけど。
そして。碑文のマレー語訳がこちら。
やはりもう1枚の記念碑の解読は無理だったんですね。
こんな素敵な建物なんですけどね。
ラルート抗争の間は、要塞としても使われていました。
スズ鉱山の中国人の秘密結社間(客家と広東)で起こった
ラルート抗争は、1861年からパンコール条約の締結まで13年も
続いたのですが、Ngah Ibrahimは海山幇(客家)を支援し、
王族であるRaja Abdullahは義興(広東)を支援しため、
王位継承権も絡んでもつれて、ギャング同士の抗争から
内乱となり、ペラ州以外にも広がってしまったのでした。
パンコール条約をきっかけとして、英国のマラヤへの介入が
どんどん進み、サルタンの元に行政官を駐在させて「助言」
(実は命令)を行うようになったのです。
それにしても義興。う~ん。何か見覚えのある漢字ですね。
はい。実はタントクセンの息子のタンキムチュンは、義興の
メンバーで、Raja Abdullahに英国へ支援を求めたらどうかと
けしかけた張本人と言われています。
塀の四隅には見張り台の跡があったり、
5フィートごとに銃眼があり、要塞だったことがわかります。
隣は英国将校スピーディーの家。
ペナン警察にいた彼を、Ngah Ibrahimがスカウトしました。
このスピーディーさん。後に暗殺されるバーチの部下となって、
パンコール条約締結後は副行政官を務めていたそうですが、
実はヴィクトリア朝のインディジョーンズとも称されています。冒険家らしいので、イザベラバードの本でも読んでみます。
なお、バーチ暗殺の裁判ではNgah Ibrahimの家が裁判所として
使われ、Ngah Ibrahimは宿敵サルタン・アブドゥッラーと共に有罪となり、セーシェルへ遠流となりました。
サルタン・アブドゥッラーはナシルマやマンゴーをセーシェルに
持ち込んだり、赦免後(1922年)にはセーシェルで大流行していたシャンソンをペラの州歌(Terang Bulanでもありますね)として定めたり、なかなか有意義な日々を送っていたようです。
一方のNgah Ibrahimはペラには戻らず、シンガポールで生涯を
終えたとされていますが、2006年に末の息子と名乗る人物が、
実はペラに隠れて住んでいたことをカミングアウトしています。
敷地内にあるNgah Ibrahimの墓は、そこから移されました。
さて。予定はこなしたので、ペナンへと急ぎます。
新しい橋を渡り、WAZEの案内するままに道を進み、
無事にBangkok Laneへ到着いたしました。
民泊にはこれまでご縁はなかったのですが、Nyonya Mikiさんが