イポーからペナンへ | EleMariRai @ JB

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三人の娘たちとフルタイムのワーキングマザー。
マレーシア最南端のジョホールバルでのあれこれを綴ります。

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イポーの朝。二日目も寄り道をしながら、ペナンを目指します。

ホテルのカフェが最上階(元屋上)へ移動していたので、

眺めを楽しみながら朝食をいただきました。

 

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最初の目的地はVictoria Bridge。ペラ川にかかる鉄橋です。

でも。Guillemard Bridgeとは違い、鉄道は通っていません。

 

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これもWARISAN。マレー語で資産、史跡とでも訳せるかな。

 

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もう鉄道は走っていないものの、橋としては現役。

線路の脇をオートバイが行ったり来たりしています。

 

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対岸を目指して歩いている途中、新しい線路を鉄道が!

東海岸と違って電化されちゃったので、電車なんですよね。

 

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はい。対岸に到着。川幅も狭いので、あっという間でした。
 
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対岸側から行ったら、こんなサインボードと写真が撮れます。
こちらがクアラカンサー側なのに、観光客はいませんでした。
 
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Guillemard Bridgeよりも30年前の1897年に設置されました。
やはり比べると、構造がシンプルかもしれません。
 
 
以前はペナン州のNibong Tebalという場所にもよく似た構造の
鉄道橋があったのですが、2009年に解体されてしまいました。
なんでも鉄はリサイクルされたって話です(涙)。
Victoria Bridgeが国家遺産になって本当によかったわ。
 
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次なる目的地は、タイピン郊外のMatangという場所です。
クアラカンサーも王都ですから、博物館やら素敵な建物が
たくさんあるのですが、マレーカレッジの横を通り過ぎて
高速へ入りました。
 
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マタン博物館。日本占領時は軍政部として使われていました。

元々はスズで財をなしたNgah Ibrahimという人の家です。

 

 

父親のペットの象Larut(↑)がスズ鉱脈を発見したらしく、

大儲けをした彼は、この地域をLarutと名付けたそうです。

 

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お庭に鯉兵団の戦績記念碑があるということだったので、

来てみたのですが、左下に2枚見えました。

 

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向かって右側。破損がひどくて読み取ることはできません。

 

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こちらは左側。

裏の碑文の状態もよく、読み取ることができました。

 

 

紀元2602年。鯉兵団長 松井太久郎。

タイ・マラヤ国境に建てられたって書いてあるんですけど。

 

 

そして。碑文のマレー語訳がこちら。

やはりもう1枚の記念碑の解読は無理だったんですね。

 

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こんな素敵な建物なんですけどね。

ラルート抗争の間は、要塞としても使われていました。

 

スズ鉱山の中国人の秘密結社間(客家と広東)で起こった

ラルート抗争は、1861年からパンコール条約の締結まで13年も

続いたのですが、Ngah Ibrahimは海山幇(客家)を支援し、

王族であるRaja Abdullahは義興(広東)を支援しため、

王位継承権も絡んでもつれて、ギャング同士の抗争から

内乱となり、ペラ州以外にも広がってしまったのでした。

 

パンコール条約をきっかけとして、英国のマラヤへの介入が

どんどん進み、サルタンの元に行政官を駐在させて「助言」

(実は命令)を行うようになったのです。

 

それにしても義興。う~ん。何か見覚えのある漢字ですね。

はい。実はタントクセンの息子のタンキムチュンは、義興の

メンバーで、Raja Abdullahに英国へ支援を求めたらどうかと

けしかけた張本人と言われています。

 

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塀の四隅には見張り台の跡があったり、

 

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5フィートごとに銃眼があり、要塞だったことがわかります。

 

 

隣は英国将校スピーディーの家。

ペナン警察にいた彼を、Ngah Ibrahimがスカウトしました。

このスピーディーさん。後に暗殺されるバーチの部下となって、

パンコール条約締結後は副行政官を務めていたそうですが、

実はヴィクトリア朝のインディジョーンズとも称されています。冒険家らしいので、イザベラバードの本でも読んでみます。

 

なお、バーチ暗殺の裁判ではNgah Ibrahimの家が裁判所として

使われ、Ngah Ibrahimは宿敵サルタン・アブドゥッラーと共に有罪となり、セーシェルへ遠流となりました。

 

サルタン・アブドゥッラーはナシルマやマンゴーをセーシェルに

持ち込んだり、赦免後(1922年)にはセーシェルで大流行していたシャンソンをペラの州歌(Terang Bulanでもありますね)として定めたり、なかなか有意義な日々を送っていたようです。

 

一方のNgah Ibrahimはペラには戻らず、シンガポールで生涯を

終えたとされていますが、2006年に末の息子と名乗る人物が、

実はペラに隠れて住んでいたことをカミングアウトしています。

敷地内にあるNgah Ibrahimの墓は、そこから移されました。

 

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さて。予定はこなしたので、ペナンへと急ぎます。

新しい橋を渡り、WAZEの案内するままに道を進み、

無事にBangkok Laneへ到着いたしました。

 

民泊にはこれまでご縁はなかったのですが、Nyonya Mikiさんが

著書の中でもお薦めだったので、泊まってみることにした次第。
この素敵なおうちの二階部分のみ借りています。
 
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これまた素敵なバルコニーつき。
寝室は二つ。ライライがデイベッドで寝ることになりました。
 
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有名なMee Gorengが目と鼻の先なので、さっそく購入して
リビングルームで食べました。家にいるみたいに寛げます。
 
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夜は近くにあるスタバへ。
Bangsar Villageに続く、聴覚障碍者の店舗二軒目です。
 
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同じようにシートに書いて注文しようとしていたら、
聞こえる人がいるカウンターに行ってしまったようでびっくり。
開店したばかりなので、ヘルプで入っているのかな。
 
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ああ。Bangkok Lane。なんて素敵なんでしょう。
民泊にはプライバシーがないのでは?思い込んでいましたが、
まったく新しい体験でした。人のアドバイスは聞くものですね。