今日の記事は無駄に長く暗くお見苦しいですがご容赦ください。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
有名なインディアンの詩ですね。
死にいく人間を取り巻く家族の、理想の姿だと思います。
火曜日、母が亡くなりました。
朝の7時ぐらいに施設から危篤の電話があって、猛スピードで自転車で走りました。
電動付き自転車で本気を出すと通報されるレベルで速い。
信号待ちで20秒ほど無駄にしたのが悔しくて悔しくて、もう。
母の部屋に飛び込んでモニターを見ると、既に呼吸は止まっていました。
心臓だけ、かろうじてピコーンと動いていました。
「お母ちゃん、ありがとう!!」
ありきたりなことしか言えなかった。
モニターの心拍が止まったのは、そのすぐ後でした。
火葬場が混雑しているのでお通夜と葬式はすぐに執り行えず。
なんと、仮通夜を3晩もすることに…
ただでさえ寒い実家はドライアイスの冷気で極寒の冷蔵庫のよう。
仕事は月末が超絶忙しいので、仮通夜の間は出勤しました。
働いている間は悲しみから目をそむけられるんですが、仕事帰りに電車に乗っているときなんかに猛烈な悲しみに涙が堪えきれなくなり、花粉症のフリをしてやり過ごしました。
子供の頃から母が死ぬということは最大の恐怖でした。
とうとう、とうとう、その日が現実に来てしまった。
絶望的なほど辛い現実にどう立ち向かったらいいのでしょうね。
中原中也は愛するものが死んだ時には、自殺するほかないと書いてましたが、
この感情から逃れるには本当にそれしか思い当たらない。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
庭いじりが好きだった母の祭壇は沢山の花と緑。
60年、母と連れ添った父の奉仕の気持ちなのだと思います。
私は母に殆ど褒められたことはなくて、まあ褒められるところのないグータラな性分だったからなんですが、唯一記憶にあるのは自分が高校に合格したときに母が嬉しそうな笑顔で褒めたくれたこと。
もう一つ、母のことで鮮明に覚えているのが当時2才の次男を預けたとき。
3月の終わりから4月のはじめ、保育園が年度替わりで忙しいからと4日間も休園になるんですよ。
こういうとき、母は黙って子供を預かってくれたんですよね。
仕事が終わって次男を迎えに実家へ行ったとき、母が物凄く嬉しそうな顔で報告するんですよ。
近くの公園で桜祭りをしていて、天気もすごく良くて、お弁当を作って次男と一緒に花見をしたって。
ちょうど桜が満開で物凄く綺麗で、近所の人が「お孫さん?可愛いねー」って沢山話しかけてくれたって。
あんなに嬉しそうに生き生きと話す母を、初めて見ました。
母の院号は櫻生院。
「櫻」は母の吟号から父が法名に入れてくれと住職に頼んだんですが、あのときの母の嬉しそうな顔を思い出すので、私の中でこれ以上ない最高の法名なのです。
母は死んでしまったけれど、春には桜となって生き返るという住職の話も良かった。
母が死んで悲しみにくれるばかりで何も手がつかない、でも、
「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。」
白骨の御文にあるように、自分の身にいつ何時何が起こるかわからないんですよね。
ショボくれつつも、母の冥福を祈り、母に会えるときまで精一杯生きていこうと思います。