越境としての古代

越境としての古代

 日本古代史は東アジア民族移動史の一齣であり、それは長江文明を背景とする南船系倭王権と韓半島経由の北馬系王権の南船北馬の興亡史で、それは記紀の指示表出ではなく、その密やかな幻想表出を紡ぎ、想起される必要がある。

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『織姫たちの学校』(橿日康之著)への招待状


越境としての古代
70年代の大衆消費社会を前にした1966年に、大阪は泉州における二交替制の紡績・織布企業は、その低賃金もあって中卒女子労働者の求人が困難になった。企業はその打開を二交替制に合わせた定時制高校の開校を大阪府に要望し、府は伝統産業の存続を計るために隔週定時制4校を急遽、開校した。

「働きながら高校資格を」というキャッチフレーズに引かれ、それから40年、沖縄から北海道に至る全国から一万有余の中卒女子生徒が泉州の4校を志願し、泉州の繊維企業は生き残ることとなった。

それから40年した2006年3月に貝塚高校が最後の卒業生7人を送り出し、隔週定時制高校は終焉する。本書はその4校である大阪府立の泉南高校、貝塚高校、和泉高校、鳳横山分校(後に横山高校)の2校で教職を全うした1教師による昭和・平成の「女工哀史」である。

中卒女子生徒はは3月末(後半は4月初旬)に出征兵士のごとく故郷を見送られ泉州に到着する。そして二交替勤務に合わせ、先番と後番に機械的に分けられ、次いで寮の各部屋が割り振られ、先輩の部屋長の指導下に入る。

そして、翌日には先番の生徒は朝4時半にけたたましいサイレンに叩き起こされ、5時から45分の休憩を挟む8時間の立ち労働に刈り出される。そこは湿気と綿ほこり舞う職場で慣れない仕事を先輩の指導を受けつつ汗びっしょりになって働く。ようやく13時45分に仕事を上がり、風呂で汗を流し遅い昼食を取ると、休む間もなく「高校卒業資格」を取るため、14時30分に会社を出て15時過ぎに始まる隔週定時制に通うのだ。そこから5限の授業を19時30分近くまで受け、8時近くに会社に戻り遅い夕食を取り、22時の消灯までに細々した片付け仕事を済まし、ようやく就寝する。

                            写真ー大阪府立貝塚高校越境としての古代
後番の生徒は朝8時半までに朝食を済ますと。9時過ぎに始まる通信制3限の授業を11時30分近くまで週3日受けると,急いで会社に戻り、昼食を取ると先番と交替し、持ち場につき、それから45分の休憩を挟み8時間の立ち仕事に就く。そして22時30分に上がり、風呂で汗を流し24時の消灯までの残された時間に片付けを済まし、就寝につく。

これが泉州の繊維企業に就職し、隔週定時制に入学した中卒女子生徒の15歳の春に等しく襲う春の嵐だが、、それは4年間止むことのなく吹き荒れる嵐なのだ。さらに恐ろしいのは先番と後番が一週間ごとに入れ替わることにある。それに順応しないと疲れているのに眠れず、睡眠不足で危ない現場に立つため、時に指を挟まれ、髪の毛が巻き込まれ死に至ることもある職場である。

働き学ぶと言えば、いかにも健康的だが15歳から18歳の年頃の乙女が遊ぶ時間をもたず4年間過ごすというのは、おそろしく異常なことである。そのため、隔定入学者の半数近くが卒業までに脱落する。それはこの異常にして過酷な日常に心身がついて行けないことにある。しかし、それにも関わらず、毎年、4年間皆勤の生徒があったのだ。

写真ー大阪府立泉南高校
越境としての古代 しかし、これら勤労生徒を苦しめるのは、厳しい労働と休む間もない日常だけばかりではない。同輩、先輩との間で、また上司との間で、また登校した学校の級友との間で、悩ましい人間関係のもつれに悩まされる。それを厭い町での気晴らしは、また思わぬ異性関係を生じ、彼女らをさらに追いつめる。

こうして万余の生徒それぞれの4年間に生じた事件は数知れず、本書はそれらとりどりのハードルのエピソードを交え、生徒一人一人の卒業への難しい道程を照らし出す。

彼女らの傍らを昭和・平成の「昭和元禄」や「バブル経済」が通り過ぎる中で、地方出身の中卒女子生徒が全身汗まみれになって働き、卒業して行った。これはその泉州の繊維企業の語られることのなかった織姫たちの学校物語である。

『織姫たちの学校』 の目次

はじめに

Ⅰ 隔週定時制高校の四〇年

Ⅱ 昭和・平成の織姫物語

 序 /高塀の向こう側 /織姫の一日 /織姫の父/織姫の母/ 織姫の支え/無償の善意/織姫殺人事件/官星多発の織姫/失業する織姫/家庭訪問/出産する織姫/出産する織姫/末期癌の織姫/組合教員の傲り/心を病む織姫/駆け落ちする織姫/技能員と織姫/校長と日の丸/「あかんたれ」の経営感覚/リストカットする織姫/汚れた教師

解説――十五の春にのしかかるものーーー藤野光太郎

あとがき

読みたい人の申込先――――不知火書房

電話 092-781-6962

FAX  092-791-7161

住所 810-0024 福岡市中央区桜坂3-12-78

 

 若いときに考えた問題に今、自分なりの答えを見つけ出しているといった生活にあります。私はは六〇年安保から三年して大学に入り、大学闘争の前年の六七年に卒業しています。そのため学生運動にほとんど関わりなく過ごしました。その四年の間、僕は何を考えていたかというと、戦後最大の闘争と云われた安保闘争の思想的意味を天皇制に結びつけて考えることでした。

 そこで印象的であったのは、六〇年安保で国会構内集会に参加した人の罪を問う、いわゆる6.15裁判で、あれほど政治活動で元気であった彼らが、ことごとく法の前でなすべくもなく戸惑っている被告の「最終意見とはなにか」と文章を見たことにあります。彼らが問われたのは、住居不法侵入、公務執行妨害、傷害であり、そこではその政治的・思想的意義などまったくおよびでなかったのです。そこで国会構内集会の意義を主張すれば、検察官に「共同謀議」の言質を与え、与えまいとするとき、統一公判弁護論の「六月十五日のたたかいは《烏合の衆》の行為である」という論拠に引き下がるほかないジレンマに追い込まれたことにあります。そこでは、個人の想いに対し国家意志は逆立して出現していたのです。ここから私は言語の指示表出に引きずれれないようにし、そこにある自己の想いからする幻想表出を読み込む必要を覚え、指示表出からする実証史学に対し、幻想表出から読み説く幻想史学を、それから四半世紀して提唱することになります。

 八世紀初頭に成立したにすぎない日本国の天皇制国家が、なぜ万世一系のごとく見えるのかという謎をどう解き明かすかと云う問題は、国家の指示表出の裏に展開した幻想表出を見る目を失ったところに出て来た問題なのです。当時、国家論と云えば、軍隊・警察・官僚機構からなるとする実体的な国家機構論しかない中で、七〇年代を前後して提唱されたグラフト(接ぎ木)国家論が、唯一、国家本質論に繋がるのではないかと私は注目してきました。それは親木に接ぎ木され、さらにそれに接ぎ木されるように国家は変容しているに関わらず、その接目(継ぎ目)を隠しているため、最後に接ぎ木された天皇制国家が、遠い昔からあったごとく見えるので、その接目を押さえるなら、天皇制国家はさして古いものではないことがわかるというのです。

 この言語の逆立とグラフト国家論は、共にこの三月に亡くなられた吉本隆明さんが説いたものですが、今日は、それを踏まえて、この列島国家の接目に焦点を当て、天皇制国家が隠した倭国から日本国への転換が、九州の原大和における神武に始まる皇統国家の成立を踏まえて構想されたことを明らかにしたいと思い参りました。

一、 倭国から日本国へ

 「古田史学の会」が二年ほど前に「禅譲・放伐」論争というのをやっていました。それは日本国の成立は七〇一年で、それ以前は列島の国名は倭国ですが、その転換は「禅譲か放伐か」という論争で、大勢は禅譲論に傾いたのは、神武皇統を戴く日本国は天孫降臨に始まった九州王朝・倭国の傍流だから禅譲がふさわしいというものでした。そこに私は古田武彦さんを中心とする九州王朝説にある限界を見てきました。というのは、その倭国から日本国への転換を禅譲とするのは、その接目を隠した天皇制国家にとっては思う壺だからです。このまちがいは古田さんが神武東征を記紀に従い畿内大和への東征としたために、古田史学会のみなさんは、皇統の流れの中でしか天智も天武を見れなくなっていることにあります。これこそが天皇制史観で、事実は天武が倭国の流れなら天智は新たな日本国の流れで、壬申の乱は、倭国と日本国の決戦で、それに勝利した天武の大和入りに畿内での大和朝廷は始まったのです。それは六六三年の白村江の敗戦後、唐の占領体制で解体をみた倭国を六七二年に畿内で復興するものでした。それから七〇一年に大宝を建元し、日本国がそそり立つ三〇年の流れ中に、天皇制国家がそそり立つ秘密があったのですが、彼らはそれをまったく見落としたのは、神武東征に隠された造作を見逃したことに重なります。

日本国という表記は、『先代旧事本紀』で饒速日命が大倭國(やまとのくに)に天神降臨して日本國と表記を改めたとするところに古く出現します。この大倭(やまと)は八世紀の地名の二字表記で、本来は倭一字でヤマトと訓んだので、倭国の起源がその九州域内の倭(やまと)にあることを、古田さんの九州王朝説はすっかり抜かったのです。

六七〇年を前後して日本国が国名表記として再出現したことは、六六八年の近江での天智即位に関係したのです。それが列島の国名となるのは、七〇一年に三種の神器が大和朝廷に入り、天皇が列島の盟主となり大宝を建元したことに関係しましょう。この六七二年の畿内大和での天武による倭国復興から、七〇一年の日本国立ち上げまでに、天皇がかつての九州での大倭での古代三王権の栄光を背負い興亡したのを見通すことができなかったところに、天皇制国家がそそり立ったのです。

 
越境としての古代 ところで、古田さんは九州王朝・倭国を瓊瓊杵尊の天孫降臨に始めたのに対し、私は九州王朝を「呉の太伯の後」による金印国家・委奴国に始まるとしてきました。問題はその九州の大倭に発祥した委奴国への天神族の侵攻が饒速日命の天神降臨で、記紀はそれを曖昧にし、糸島で再興された金印国家・委奴国への瓊瓊杵尊の天孫降臨を特筆大書し、その傍流による大倭への神武東征に皇統国家は始まるとしてきました。つまり、大倭で委奴国→天神国家→皇統国家とめまぐるしく三王権が興亡したのです。私はこの委奴国系に関わる南船系の神を祀る宮を古川清久が探究する天子宮とし、高神系の降臨に関わる神を祀るものを高良玉垂宮(写真1)と見ています。
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 倭国から日本国への転換の前提に六六三年の白村江における倭国敗戦が
あります。この唐・新羅に対する倭国敗北の背景に、後の日本国を形成する斉明・天智の倭国皇統が、倭国王統を唐に売ったことが隠されています。皇統はこのとき九州の朝倉宮(写真2)にありました。敗戦後の九州では倭国(王統)権力が解体され、唐制の筑紫都督府が太宰府にそそり立ち、倭国皇統の斉明政権は唐の覚え目出度く朝倉宮は隆盛します。ここに斉明皇統の裏切りがあったのを知った倭国王統の復讐が、六六七年の朝倉宮の変で、斉明は死に、天智は畿内の近江大津に逃亡します。この朝倉宮の変を日本書紀は六六一年に造作し、歴史の真実を隠したのです。翌六六八年の天智即位に国名・日本国が連動したのは、それは九州の倭国に対する畿内の日本国をアピールするもので、それは九州からの遷都であったのです。しかし、六六九年に中臣鎌足は三島の自宅を襲われ、六七一年に天智は『扶桑略機』によれば沓一つを残し拉致され、六七二年に倭国王統の天武が蜂起し、大友皇子の首級を挙げる、いわゆる壬申の乱によって近江朝である日本国の命運は尽きたかに見えます。この日本国敗北の背景に唐の列島及び半島からの撤退がありました。この意味は、天武は九州王朝・倭国王統の核を成す委奴国系の流れで、
壬申の乱の決着は「倭国が日本国を併合」するものでした。

 勝利した天武は、唐の列島侵攻を恐れ、壬申の乱で勝利に貢献した物部連雄君の大和飛鳥に招かれ大和朝廷である飛鳥浄御原宮を開朝し、倭国は畿内大和で再興されたのです。しかし、その畿内大和での倭国復興は天武に協力した九州勢力を失望させます。これが天武崩御直後、持統称制の下での六八六年の大津皇子の変を生みます。大津の母・大田は天智ではなく雄君の娘であったので、この変は天武・物部の畿内体制を打破する九州勢力のクーデターであったのです。しかし、持統の願いも空しく子・草壁皇子の死に連動した持統即位は、実は高市天皇の即位を隠すものです。高市は宗像君徳善の娘・尼子姫を母とし、高市が天武同様、軍事に長けたのは宗像海人族がバックにあったことによります。そしてその「高」が象徴するのは天神族の中心・高神(高皇産霊命)の流れを語るのです。この意味は天武・物部体制によって成立した大和朝廷は、この変後に委奴国王系から高神王系へ転換したことを意味します。その高市は六九六年に急死しますが、これは持統・不比等による陰謀で、現在、刺殺説と毒殺説があります。その結果、持統の孫・文武が即位し、列島の盟主の証たる三種の神器の入り、大宝を建元し日本国が成立するのは、持統・不比等が皇統を神武にはじめつつ、天智を新皇祖に戴く国家幻想にもってしたからです。この大津皇子の変と高市天皇暗殺を通し、「日本国が倭国を併合」しますが、それは九州の原大和での三王朝の興亡に重なります。

  九州の原大和 委奴国―→饒速日命の高神国―→神武を戴く皇統国

          ↓      ↓         ↓               

  畿内大和  委奴国系天武―→高神系高市―→天智を戴く文武皇統

 天武・物部体制が壬申の乱の勝利に酔う中で,天武後を見定めた持統と不比等は高市皇子を抱き込み大津皇子を除き、草壁皇子の即位を模索するも、その死にともない高神系の高市天皇が誕生します。この流れの中でかつての九州の原大和での王権興亡に〈現在〉が重なることに気づいた持統・不比等は、明日の勝利は目前の高市天皇の排除にあると確信し、実行したのです。その高市の即位が隠されたのは、皇統を拓いた饒速日命の記紀における抹殺に重なります。この九州と畿内の二つのヤマトで興亡の重なりから拓けた新たなパラダイムを踏まえてのこれは歴史の継ぎ目の物語です。

    二.原大和・大倭での三王権の興亡

 九州の大倭での倭国皇統の誕生に倣い、畿内大和での日本国皇統の誕生があったのです。この二つの誕生の秘密における接目を記紀が隠したところに天皇制の勝利の秘密はあったのです。これはその二つの皇統誕生の秘密の開示の物語です。それぞれにどんなカラクリがあったのでしょう。

 神武皇統の誕生の秘密は神武東征に隠されています。神武東征と聞けば、誰でも神武が大倭を征服したと思いがちですが、神武の武勲は宇陀の兄滑(エウカシ)、磯城の兄磯城(エシキ)退治までで、主敵・長髄彦の成敗について、『日本書紀』は饒速日命が決着つけ神武に帰順したのは、物部氏の祖である饒速日命を天皇の臣下として描き出す必要にあったのです。これに対し、『古事記』は子の宇摩志麻遅命(ウマシマジ)を挟み、含みを持たせました。史料の読み込みは指示表出を追いながら、こうした含みの読み込みなしに歴史の真実に肉薄することは不可能です。なぜなら饒速日命は神武に先立ち大倭國に天神降臨し、大倭國を日本國と表記を改めたと『先代旧事本紀』は一章を割いているからで、それが意味するところは、果たして皇統は神武に始まったのか、すでに饒速日命に始まっていたかという、恐ろしい疑問に直結するからです。なぜなら『古事記』を取るなら、長髄彦は饒速日命に仕えていたが、それは何代目かの饒速日命で、長髄彦を倒しての宇摩志麻遅命の神武への帰順は、饒速日命皇統へのクーデターを通しての神武への帰順を意味し、旧皇統に代わり神武新皇統の誕生があったのです。つまり神武東征は饒速日命皇統から神武新皇統への転換を隠した記述なのです。この切り替えを記紀が首肯したことは、神武東征は饒速日命の天神降臨の偉業を取り込み荘厳化したことを語るのです。これは大倭への道案内人として八咫烏が登場させながら、さらに道臣の大伴氏である日臣命が登場するのは、大伴氏が饒速日命の天神降臨の道案内をしたことに関わります。この饒速日命の事跡の神武東征への取り込みは、その皇妃及び皇子にまで及んだのです。その神武に取り込まれた饒速日命の皇妃の出自を頭に摘記すると下記のごとくなります。

①対馬―天道日女命――→天香具山命(高倉下命)

②日向(ひなた)―吾平津姫―――→手研耳命

③葛城―姫蹈鞴五十鈴媛→《彦八井命》、神八井耳命、神渟名河耳命

④大倭―三炊屋媛―――→可美真手命(宇摩志麻遅命)

これははからずも饒速日命の辿った足跡を記すもので、出自部分のみに神武の素性がはめ込まれ、饒速日命の出自は隠されたのです。問題は饒速日命が降臨したところが大倭國と呼ばれ、饒速日命がそこに天神降臨するのは、そこが垂涎の黄金の稲穂垂れる稲作地であったと考えられるのは、先に見たごとく大倭は八世紀以後の二字表記で、本来は倭一字でヤマトと訓み、倭及び委を漢字学者は稲穂の垂れた様子に基づくとしているからで、倭国とは稲作国、倭人とは稲作民を指すのです。


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天神降臨は物部二十五部族を率いての饒速日命の大倭侵攻で、その地は物部氏の地名蝟集地から推測すると、通説は畿内河内にその蝟集地を見て、神武東征を畿内大和としてきました。しかし、九州の遠賀川流域に同じく物部氏の蝟集地(写真3)があり、天神降臨が対馬海流上の天国(海士国)からの侵攻で、それに先立つ須佐之男命の出雲侵攻及び、遅れての天孫降臨が博多湾岸の金印国家・委奴国への侵攻であるなら、天神降臨が目前の九州を差し置いて、瀬戸内海のどんつきの奥にある大和への侵攻とするのは腑に落ちません。それは宇摩志麻遅命によって追われた饒速日命族の新天地とするほかないのです。大倭を遠賀川流域とすると、その中心地を私が飯塚とするのは、そこは稲穂切りの石包丁の産地で、そこに立岩遺跡があり、多くの管玉と剣と鏡の神器を所有する王と覚しき大型甕棺墓が出土し、その甕棺墓制が箱式石棺に変わって行くのは、北馬系の侵攻に重なるからです。加えて飯塚→井塚→倭塚と遡行するなら、飯塚の立岩遺跡は南船系の初期倭王墓で、それは漢籍が記す「呉の太伯の後」の王墓とするのは、その系譜を伝える「松野連〈倭王〉系図」に「火国山門」から「委奴」へとする注記があり、私はその九州の大倭の稲作国を委奴国とし、博多湾岸での金印国家・委奴国の前身は、大倭で発祥したとするほかないのです。

その委奴国を饒速日命は征服し、高神系天神国を創始しますが、大倭支配は委奴国王の娘を貰い受けることなしに、認知されないのです。とするなら先の皇妃及び皇子に委奴国系が隠されているはずです。饒速日命である神武を引き継ぐのは、姫蹈鞴五十鈴媛系の三男・神渟名河耳命が第二代綏靖として即位しますが、その表記は著しく二兄の八井をもつ彦八井命や神八井耳耳命と異なるのに気づきます。この意味は二兄は委奴国の八井姫の皇子で、その彦八井命の墓が大倭になく、委奴国の故郷・肥後の草部吉見神社の脇に営まれていることに明らかです。このことは、この神武系譜が饒速日命系譜からのパクリであることが判明したのです。

  三、国津罪と天津罪

ところで、皇統は国津罪と天津罪からなる二つの法体系をもったことはよく知られています。これについて通説は国津罪を祭祀及び諸部族を規定する法とし、その起源を出雲国に置いたのに対し、天津罪を天皇制的な農耕法としてきました。しかし、神武皇統の前に饒速日命皇統があったことが判明した以上、それはその天神国家から貰い受けたなら、海人族の天神国家は征服した大倭國の稲作国・委奴国からそれを簒奪したことは疑いえないのです。こうして天津罪も皇統国家の創造ではなく委奴国からの簒奪品であったことも明らかになったのです。天皇制国家はそれに先在した出雲国と委奴国を隠したように、それら先在した二国家から国津罪と天津罪の二つの法体系を簒奪し、わがものとしてそそり立っていたので、天皇制国家のオリジナルではなかったのです。

この意味は重要です。なぜなら、大倭では神武皇統は饒速日命皇統から天津罪を受け継ぐと共に、国津罪も引き継いだことは、神武以前に出雲国の征服があったことを意味するからです。それが須佐之男命の入り婿・大国主命からの国譲りで、記紀はその立役者を布都主命と建御雷命とし、その命令主体を天照大神としますが、それは天照国照奇御玉饒速日命の略称で、それがヤマト国家への国譲りであることは、真の命令主体が饒速日命であったことを語るものです。事実、私が原大和とする鞍手郡の天照神社は饒速日命を祀り、天神降臨を前一四年とする伝承を今に伝えます。このとき出雲国が大倭朝廷との間に結ばれた和睦が、記紀の「天照大神と須佐之男命の誓約」と思われます。このとき須佐之男命の生んだ男神と天照大神が生んだ三女神が交換されたことは、国譲りによって出雲国と大倭国の上下関係が逆転したことを語るものです。その饒速日命皇統を追放した神武皇統を戴く記紀は、伊勢神宮への天皇参拝が明治までなかったことは、天照大神が神武皇統の皇祖神でなく、それが饒速日命であったからで、伊勢行幸によるその建立は、持統ではなく高神系の高市天皇の手になるものであったことを明らかにするのです。

記紀はその饒速日命を猿田彦とし、天孫の道先案内役に落としました。その妻が猿女君の天宇受女命(アメノウズメ)で、彼女は天照大神が天岩戸に隠れたとき、陰(ほと)を露わにして踊ったのは、彼女は日妻で、太陽が死ぬ冬至の日に裸身を晒し、太陽光で陰を焼くことに因むもので、これはペルーのマチュピチュ遺跡の太陽神殿の巫女も行っていたことに重なります。猿田彦が鼻が長い天狗なら、それは海人族の委奴系を意味し、顔が赤いのは太陽神を暗示するものです。『明治神社資料』によれば、全国の猿田彦神社の宮司がそれをどう訓んでいたかは、それにルビを振った八割以上がサダヒコorサタヒコとしたことは、出雲二の宮の佐太彦神社を呼び出します。その祭神・佐太彦をキサガイ姫が加賀の潜戸(くけど―写真⑤)で太陽の黄金の矢に射貫かれて授かったとあることは、太陽神との関係を暗示し、また饒速日命は饒羽矢日命と書けることは、佐太彦生誕伝承に重なります。加えて猿田彦のサルは韓国語で米を意味するのは、銀シャリと呼ぶことに明らかで、稲作神としての饒速日命の一面を語ります。これは神武に見られなかった太陽神と稲作神としての性格は、饒速日命にあったことは、皇統の発祥はやはり饒速日命に始まったとするほかないのです。


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今も神無月に出雲に全国の神々が集合し、その神々が最後に全国に散って行く神等去出(からさで)神事の場が佐太彦神社(写真A)であることは、饒速日命=佐太彦が須佐之男命系の大国主命に代わり出雲を支配したことを証し、国譲りの主体が饒速日命であったことを語るのです。また系図には佐太彦は須佐之男命と神大市姫の子とあり、その大を出雲一の宮の熊野大社のある意宇(おう)郡に因むなら、彼女は須佐之男命の退治した蛇をトーテムとする八族(八蜘蛛族=八雲族)の王の娘を意味し、須佐之男命に婿入りした大国主命から饒速日命への国譲りは、八雲国の再興の一面を持ち、それは饒速日命の出雲出自を明らかにすると共に、饒速日命系譜から出雲系の妃及び皇子を記紀がカットしたことを語り、そこに記紀にあるタブーを見ることができます。

     三.神武皇統の成立と八幡信仰の秘密

この意味は皇統に先在した出雲王統を否定し、皇統を神武に始める記紀の魂胆を明らかにするものです。饒速日命死後に即位した第二代綏靖の神渟名河耳命(カミヌナカワ)は手研耳命(タギシミミ)を誅殺し、神八井耳命を押さえ皇位につきます。この排除された二人が皇位継承順位として上位にあったことをこれは語るものです。ましてや手研耳命は饒速日命の皇后・姫蹈鞴五十鈴媛を妃にしたことは、手研耳命が皇位を継承したので、饒速日命の皇后は本来は手研耳命の母・吾平津姫であったことも、もはや明らかです。その第二代饒速日命・手研耳命を誅殺しての綏靖の即位は〈大逆〉を通し果たされたことを知るのです。

この吾平津姫は山津見命(山祗命)の娘とされ、私はそれを山幸彦系と見ており、海に上がった海人族とし、その地は博多湾岸の糸島の天孫降臨地の日向(ひなた)に重なります。饒速日命がこここで高神系の吾平津姫と結ばれたことで、大倭への天神降臨計画は具体化し、饒速日命は大倭へ侵攻したので、それは神武東征の出発地に重なります。そこから六ヶ岳の麓に進出し、遠賀川対岸の葛城にあった事代主命の娘・姫蹈鞴五十鈴媛と結ばれたことは、その蹈鞴(たたら)に注意するなら鉄器の融通を受けたことを意味します。そのを武器により饒速日命は大倭の中心地・飯塚の委奴国の本拠を陥れることに成功したのです。その上で、磯城にあった長髄彦の妹・三炊屋姫を妃に迎えたのは、大倭の祭祀権をわがものとすることなしに大倭支配の確立はなかったからです。この大倭への天神降臨に関係した三妃から生まれた皇子は、その父系と母系の血に注目するなら、手研耳命は〈出雲+高神〉系で、綏靖は〈出雲+出雲〉系、宇摩志麻遅命〈出雲+大倭〉系となり、手研耳命を排除しての綏靖の即位は、結果として高神系の排除で、そこに天神族が不満を覚えたことに神武東征があったことを知るのです。


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長髄彦が饒速日命に仕えたとあるのは、初代ではなく、第二代綏靖に始まる葛城の饒速日命皇統に仕えたので、出雲系皇統に大倭祭祀勢力がついていたことを意味します。長髄彦の妹・三炊屋姫の子・宇摩志麻遅命は、神武の反攻が激しくなる中で大倭祭祀勢力を糾合し、叔父の長髄彦を排除することで、それを頼りとした出雲系饒速日命皇統を追放し、神武を娘の入り婿に取り込み高神系(天神系)皇統に戻すことで、大倭でのキャスチング・ボートを握ったのが、神武への帰順の意味です。東征の翌年に行われた土賊や土蜘蛛退治の記事は、出雲系残存勢力の葛城(写真B)を含めた掃討で、土蜘蛛はおそらく出雲を土雲=土蜘蛛に貶めた表記です。天皇を天神御子(あまつかみのみこ)と呼ぶのは、天神族の高神系皇統を正統とするもので、この裏の意味は出雲系皇統の追放なのです。これが可能としたのは宇摩志麻遅命が饒速日命の血を引いていたからで、神武を入り婿に迎えたことで皇統は〈高神+大倭〉系となり、天神族の不満を解消したのです。

それでは神武とは一体、誰なのか。神武のエピソードの大半は饒速日命の天神降臨の偉業の取り込みで、それに附加された部分に東征した神武の実体があり、それは結果として綏靖に始まる出雲系皇統の追放であるなら、その切れ目に神武はあるはずです。しかし、万世一系を誇る天皇制は擬制的に血の継承を語るため、切れ目は容易に見つかりません。第二代綏靖の子世代に、皇位は次々とたらい回しされ、第三代安寧、第四代懿徳、第五代孝昭、第六代孝安と続きます。しかし、第五代孝昭の皇后に磯城県主の娘が入ったのに始まり、次々と皇后として磯城県主の娘が宮中に上がります。これは孝昭は綏靖の子ではなく、磯城県主の入り婿に入って皇位についたことを意味し、宇摩志麻遅命に迎えられ皇位についた神武に重なり、私は第五代孝昭=神武とし、かつての神武=崇神説を取り下げました。


越境としての古代
ところで、明治になるまで伊勢皇大神宮以上に皇室に尊ばれた宇佐神宮に、今は行われなくなった特殊神事・放生会があります。それは香春岳の三の岳の古宮・八幡宮で鋳た神鏡をもって、宇佐神宮近くの和間浜まで十五日間かけて巡行する大がかりな行事(写真C)です。通常、放生会は殺生を戒める仏教儀式で、捕獲した鳥や魚を野や自然に帰すものですが、それが八幡神を祀る宇佐神宮で行われていた意味です。というのは、饒速日命である猿田彦の死について、伝承は伊勢の阿邪訶で比良夫貝に挟まれ溺死したとするのです。この宇佐の放生会の始点が香春岳の八幡宮で鏡を鋳ることに始まり、終点が和間浜の浮殿であることは、それが太陽神・饒速日命の再生祈願とその鎮魂を意味し、和間浜の浮殿は饒速日命の死場所以外でないのです。また八幡神は出雲系を含む饒速日命の八皇子
or物部八族の幟を意味するなら、八幡信仰は饒速日命という中心を失った物部一族の再結集の意味合いをもち、その前段における物部氏の紛糾を暗示します。それを象徴するように、神武である饒速日命後の綏靖即位に至る混乱を記紀は記述し、出雲系に傾いた皇統への不満が神武東征を結果したと私はしました。とするなら、この八幡信仰の本山でのこの大がかりな放生会における饒速日命の鎮魂に、物部氏の悔恨が仮託されているのです。猿田彦に死をもたらした比良夫貝は子安貝とされ、それは貝貨としてあり、貝を分け合うことは〈貧〉に通じるなら、彼らは饒速日命に集中した財を分け合うために行った共同謀議は、たちまち大倭を立ち行かなくさせる混乱を招いたのです。それはフロイドがモーゼについて、ユダヤ人はその絶対的な指導者・モーゼを殺したため、たちまち混乱に陥り、それを悔い改めるところにユダヤ教の成立があったとしたのに恐ろしく重なります。つまり宇佐の放生会は饒速日命の八皇子、または物部八族の暗黙の合意の下で成された和間浜での〈饒速日命殺し〉を悔い改め、その再生を願う儀式であったのです。それを隠しての子孫の結束、物部氏の再編に八幡信仰の起源であったのです。このおぞましい皇統の起源にある父親殺しである〈饒速日命殺し〉を隠し、神武皇統の下に物部氏の再結集を宇摩志麻遅命は呼びかけたのが八幡信仰で、皇統史の始まりにおけるこのおぞましい事件を隠し神武をもって皇統の始まりとしたのです。ここに畿内大和における〈高市天皇殺し〉が隠された理由もあるのです。

     四、倭国の動態のラフ・スケッチ

 神武皇統の成立の陰に物部氏による〈饒速日命殺し〉がありました。その饒速日命によって海人族は海上から陸上の豊かな稲作暮らしへ転換できたのに関わらず、皇子や物部氏は絶対者・饒速日命を犠牲とせずにはおかないほど、その欲望は何時の世でも限界を持たないのです。この〈英雄殺し〉を隠した鎮魂の誓いが八幡信仰で、稲作神・饒速日命への信仰は、名を別にした猿田彦信仰として九州各地で尊ばれたのです。信仰は常に悪事隠しとその鎮魂というきわどいバランス感覚の上に現秩序を創り上げるのです。その転換のキャスチング・ボートを握った宇摩志麻遅命がたかだか磯城県主という倭国の身分にすぎなかったところに、倭国皇統の倭国内の地位は明らかです。この意味は倭国皇統は倭国王統の日陰の花で、この貧弱な出自隠しのため記紀は畿内大和に舞台を造作したのです。

 大倭にあった委奴国を饒速日命が征服し、成立した倭国皇統を内部変質させ神武皇統が成立しました。しかし、それは筑紫の九州王朝・倭国の流れに関係なかったので、九州王朝の流れは委奴国→邪馬壹国→倭の五王→俀国の流れにあったので、この中心国名の変化に倭国の変質もあったのですが、その王統の血は委奴国王の「呉の太伯の後」流れ以外でないので、天孫王朝でないのです。

委奴国から邪馬壹国への転換は、金印国家・委奴国が天孫降臨に遭い、王がその支配下に置かれ、南船系の委奴国勢力と北馬系の高神勢力の対立は倭国大乱として漢籍に記述されます。これによる倭国の疲弊化の中で、南船北馬の両勢力の妥協が計られ、委奴国系巫女・卑弥呼を北馬系の高神勢力の一大率が戴き邪馬壹国が成ったのです。倭国はここに外交・祭祀権を倭国王統が、行政権を北馬系高神勢力が握る〈二重権力時代〉に入ります。これに南船系原理主義の委奴国の流れの狗奴国が対立し、強勢となり、卑弥呼は責任を取らされ死を迎えます。しかし、卑弥呼を排除した魏の張政の倭国再編策は失敗し、卑弥呼の宗女・壹与が再び迎えられます。そうした曲折の中、第八代孝元天皇傍流の倭建命〈日本武尊〉が倭国王統に出仕し、熊襲を破り、蝦夷を平らげ、棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)、つまり時の宰相へと出世姿が、武・内宿禰(タケノ・ウチスクネ)で、藤氏を名乗り、「藤は錦に次ぐ」と云われる倭国の名門を形成します。この藤氏の流れから豊前に応神天皇が出現するのです。一方、倭国王統は百済王統と結び、九州は倭の五王時代に入り、半島に羽ばたく中、武内宿禰は畿内に新天地を求め九州を去ります。

この倭の五王の掉尾を飾る武の倭名が磐井で、伽耶問題で新羅と通じたことを倭国皇統の継体が咎め、物部麁鹿火をして久留米の御井を急襲させたのが、筑紫の倭国王統に対する豊の倭国皇統のクーデターである磐井の乱で、この勝利によって倭国皇統は倭国王統の陰から舞台の前面に出てきたのです。この磐井の乱を〈なかった〉と古田さんはし、それに尻尾を振る論が現在、展開されていますが、完全に彼らは卑弥呼後の倭国の胎動を見失っているので、神武東征を畿内大和への東征とした誤りに次ぐ上塗りで、ますます九州域内の王統と皇統の抗争を見ない無葛藤論にあるのです。これ以後、倭国皇統は倭国王統とは別に半島外交を展開し、隋、唐とも外交を開き、記紀にある外交の多くはこの倭国皇統の外交記録に倭国王統のそれを取り込んであります。ところで勝利した継体は、長門より東の本州の倭国の領地を、物部麁鹿火は筑紫より西の倭国王統の地をものにします。この長門より西と筑紫より東の間にあるのが、倭国皇統の地の豊国です。この麁鹿火に始まる新物部氏を兼川晋は蘇我氏とし、継体年代を通説から十三年遡行させ、磐井の乱を五一五年とし、九州年号の最初にある継体年号の五一七年の建元の意味を解いたことは、大芝英雄の豊前王朝の発見と共に、古田九州王朝説の行き詰まりを打開する大発見で、現在、これを踏まえずしては、倭国から日本国への展開を通説と同じ皇統内でするほかないのです。この磐井の乱後の蘇我・物部戦争で敗れた旧物部氏である物部守屋残党が畿内に逃亡し、一世紀近くしてその子・雄君が壬申の乱での天武の勝利をもたらし、畿内大和に迎え入れ、倭国王統を再興したのに大和朝廷は始まります。

話を九州に戻すなら継体後、九州の筑紫と豊に蘇我氏はにらみをきかせ、太宰府で倭国の舵取りをし、委奴国王系と蘇我氏が結び成立したのが、肥後を中心に天子宮を営む多利思北孤の流れです。一方、蘇我氏は豊で継体皇統と結び、ついに自家から推古天皇を立て、豊の実権をも掌握します。天智・鎌足の蘇我氏征伐である乙巳の変は、この筑紫・豊に跨った蘇我王国を、皇室の入り婿に入ることで即位した百済系舒明の子・天智による蘇我氏掃討で、それが蘇我王国の多利思北孤系の抹殺に及んだ一つが山背大兄皇子一族の虐殺で、この陰に筑後や吉備での上宮太子一族の虐殺が隠されています。この天智の凄惨を極めた血の粛清が、その即位が思うにまかせなかった理由で、天智はその野望を、倭国を唐に売る白村江の戦いを通して、列島王権の首座に納まろうとしたのです。その裏切りが敗戦後、明らかになる中で朝倉宮を襲われ、斉明は崩御し、天智は近江に逃げるも鎌足と共に非業の死を遂げ、壬申の乱で倭国王統の天武に名を成さしめたのです。この天智・鎌足の非業の死の無念を鎌足の子・不比等が律令を整える中で晴らし、鎮魂の書として天武が企画した歴史書を天智の側にねじることで成立させたのが『日本書紀』で、乙巳の変に大宝律令を貼り付け大化の改新として荘厳化したのです。しかし、それはこの列島本来の出雲王朝から九州王朝の裏面史を正史としたものなのです。

記紀は欠史八代の葛城王朝の内に東征した神武である孝昭を隠しましたが、その神武と葛城王朝を戦後史学は虚構としたのに対し、古田説は逆に畿内大和への神武東征を首肯したものの、それに次ぐ葛城王朝を語ることができない矛盾は、神武東征の陰に隠された九州の大倭での三王権の興亡を見失ったからです。大和での天武後の政変は、かつての九州の大倭での三王権の興亡に倣い実行をみたことが全く見えないのです。加えて、九州での筑紫と豊の戦争である磐井の乱を〈なかった〉としたため、その後の九州王朝の二重権力の動態までも見失ったのです。それは文献実証史学が記紀の指示表出からするために、国家がその必要から疎外した幻想表出を、その接目において、いかなる深淵を伴うかを見ようとしないために生まれた、救いがたい錯誤なのです。(2012.5.12


※これは2012年6月2日の久留米地名研究会の講演原稿である。

 四.隋の中国統一と倭国の朝貢外交

というのは、『隋書』俀国伝には倭国の名はないが、古田武彦はその帝紀に倭国が二つ出現するのを拾っているのは、さすがである。それを孫引きさせてもらうと、

《(大業四年三月)壬戌。百済・倭・赤土・伽羅舎国、並びに遣わして方物を貢す。

(煬帝紀上)

〔大業六年春正月)己丑。倭国、使を遣わし方物を貢す。(煬帝紀上)》

 大業四(六〇八)年は、裴世清の俀国遣使の年にあたる。その二年後の大業六(六一〇)年にさらに遣使を送っている。この倭国を古田武彦や中小路駿逸は近畿王朝・大和朝廷に比定してきた。しかし、私は、これを俀国の弟王国・秦王国の朝貢と解したい。

このことを私は、「南船北馬説による倭国通史」の中で、倭国のねじれとしてこう図示した。

             後漢 魏 晋、梁、宋、陳  隋   唐

倭国王統(九州王朝)  倭国  ――――→俀国→倭国→消滅

倭国皇統                      倭国→日本国→

裴世清は隋が通交するにふさわしい九州王朝・倭国とは、天兄国・俀国ではなく、弟王国・秦王国であると帰国後、上奏し、俀国の二重権力の実態をつぶさに報告したのである。この上奏に応えるように大業四年(六〇八年)に返礼が、続いて六年(六一〇年)に秦王国の隋への朝貢を『隋書』は倭国からのものとして記録したのである。それは俀国からの遣使が、大業四年を最後に「此の後遂に絶つ」のに相反して進行した。

この背景に北魏の華北統一(439)に始まり、隋の中国統一(589)に至る北朝による南北朝(439589)の統一があった。これ以後、江南に都を置いた南朝(宋・斉・梁・陳)を偽朝とする国是が確立する。その偽朝とされた南朝と通交し、南朝を正統王朝と見て、その亡き後、その衣鉢を継ぐ意思を見せたのが、多利思北孤の隋の煬帝への国書であったと云えようか。

それは南北朝統一を成し遂げ、絶頂にある北朝・隋への配慮を欠く最悪の外交文書として記憶されよう。自分が何者かであることを誇り墓穴を掘った見本がここにある。これまでの中国南朝との通交を続けてきた俀国は、「これからはよろしく」と南北朝を統一した隋の意向を窺うべきところで、多利思北孤は自らを天子と自負したばかりに、煬帝の機嫌を損ね、隋から敬遠されるに至った。これに対し、委奴国以来の倭国王統の正統王朝の陰にあった天神降臨に始まり、神武東征でその皇位を饒速日命(ニギハヤヒ)王朝から簒奪した神武による倭国皇統は、裴世清の訪問を受け、中国における北朝の成立に伴う王朝観の転換を踏まえ、朝貢外交を行うことで、倭国新正統として対外的に自己主張をはじめたのが、この二つの倭国の朝貢記述であったといえようか。

  五.九州王朝の南船北馬の興亡

俀国と倭国と『隋書』は書き分けた。その書き分けについて古田武彦は『邪馬一国の証明』(角川文庫)で、こう述べる

《焦点は、次の各欠如部分だ。――――。『北史』は『宋書』(五世紀)の記事を欠き、『南史』は『隋書』(七世紀前半)相当の記事を欠いている〃のである。考えてみれば、これは当然だ。なぜなら、『宋書』の記事(倭の五王)は。〃南朝にのみ関する〃ものであり、『隋書』の記事は、北朝系の〃隋にのみ閲する〃ものだからである。この視点から「国号の差異」問題を見つめよう。

 「俀国」という国号は、『隋書』にはじめて出現する。そこで、『隋書』は『後漢書』―『三国志』相当の記事〃をも、「俀国の歴史」の一齣として叙述したのである。「俀奴国」の表記は、その好例だ。これをうけついだのがすなわち、この「北史」なのである。

 ところが、〃『宋書』-『南斉書』-『梁書』相当記事〃で終わっている南朝側では、「俀国」などという国号には〃およそお目にかかったことはない〃のだ。すべて「倭国」たった。だから『南史』では、一貫して「倭国の歴史」一齣として処理したのである。すなわち、李延寿が『北史』と『南史』で、それぞれ「俀」と「倭」とに書き分けたのは、決して、〃漫然たる混用〃の類ではない。逆に〃厳密なる峻別〃の表記なのだ。この点、『隋書』における「俀国」と「倭国」の峻別という表記側と、ここでも軌を一にしていたのである。(「九州王朝の史料批判」より240)》 

 これは見事な分析である。しかし、先に述べたように、古田武彦はこの俀国を九州王朝とし、倭国を近畿王朝・大和朝廷としたため、それが九州王朝内の内部矛盾としてある、筑紫王朝(倭国王統)と豊前王朝(倭国皇統・秦王国)の対立・妥協の矛盾としてあった倭国楕円王朝の動態を見なかった。その俀国と倭国の実勢が逆転するのは、俀国の倭の五王の最後を飾る武、つまり磐井への倭国の継体側のクーデターによる。古田武彦はそれを九州王朝に対する継体の反乱と逆転させたが、それを大和朝廷の反乱としたため、通説の九州の豪族・磐井と大和朝廷の戦いを反転させたに留まり、その枠組みの改変にまでいかなかった。そのため、相変わらず糟屋の屯倉の割譲が説明つかないものとして残った。それは秦王国の秘密に迫りながら、それを九州王朝の兄弟統治に関係させることなく素通りしたことに重なる。

九州王朝は、天神降臨、天孫降臨以来、先在の南船系王統(呉の太伯の後)と後発の北馬系皇統がその覇権を争ってきたが、後漢が委奴国に金印紫綬を与えて以来、南船系王統を中国王権はそれを倭国正統とし扱った。その流れを『隋書』は俀国と記し、これからの新正統に北馬系皇統の豊前王朝に倭国の名を与えたのだ。

その倭国新正統の起源は、原大和である筑豊の倭(やまと)に天神降臨し委奴国を追放した北馬系の饒速日命皇統に由来する。その皇統を倭(やまと)で簒奪し成立した神武皇統を、記紀は皇統の始まりとし、それを畿内大和とするトリック史観をそそり立たせ、原大和の争奪に始まった倭国王統と倭国皇統の歴史を隠し、記紀皇統に先在する列島王権隠しに成功する。

この九州の倭(やまと)の飯塚を追われた委奴国王統が博多湾岸で再興し、後漢から金印紫綬を受け、金印国家として大化けする。ここに筑紫を本拠に置く倭国王統と豊国の南船北馬の両王朝が並立するが、委奴国を中国が認知したことで倭国正統をその後、ほしいままにする。

この博多湾岸の金印国家・委奴国への北馬系の再侵攻が天孫降臨で、博多湾岸は一大率の支配下には入り、また豊国では饒速日命皇統に対する天孫傍流の神武東征が行われ、倭国の秩序が崩壊する。この混乱がいわゆる倭国大乱で、この北馬系勢力の新攻勢を、委奴国勢力と饒速日命系勢力の南船北馬の両勢力が合体し、成立したのが卑弥呼の共立による邪馬壹国の成立で、それは古田武彦が筑紫王朝の離れ座敷とした吉野ヶ里遺跡辺りで成立を見た。しかし、魏・呉・蜀の三国の対立の余波の中で邪馬壹国の表記は邪馬臺国と変動し、委奴王系に百済王系を入り婿に迎えることで、強盛となったのが倭の五王の時代であった。しかし、武王が新羅に陰で肩入れしたため、倭国皇統の継体側の物部麁鹿火のクーデターにあって、倭国権力は王統から皇統側に移った。これを踏まえ、筑紫と豊国の境界線にあった糟屋の屯倉が継体側に割譲されたのである。

この結果、百済が王統から皇統へ乗り換えたことも手伝い、倭国王統は祭祀王と外交権を行使するに留まらざるをえなくなった。その俀国の多利思北孤の基盤が、かつての狗奴国の玉名市に基盤をもったのは百済に見放された以上、委奴系勢力の故地・狗奴国に頼るほかなかったことをそれは物語る。

倭国皇統は九州王朝の実権を握ったものの、倭国王統は九州王朝の権威として祭祀権と外交権をもち君臨したため、九州王朝は兄弟統治という、独自な祭政分離統治を生み出すことになった。

 その俀国の多利思北孤が、これまでの南朝に変わる北朝の隋への国書で味噌をつけたのに反し、豊前王朝の倭国皇統は裴世清の俀国遣使の秦王国訪問を千載一遇の機会とし、筑紫王朝の俀国を出し抜き、「もう一つの九州王朝」としてあることを主張し、倭国皇統は隋の臣下として、対等外交ではなく朝貢外交をうたい、俀国に代わる九州王朝のお墨付きを与えられたのが、『隋書』の倭国にほかならない。

   六.隋・唐王朝の列島の盟主乗り換え

 ところで、古田武彦は小野妹子の大業三(六〇七)年の遣隋使及び、その答使・裴世清の、倭国である秦王国への遣使を、大業四(六〇八)年とする『日本書紀』の記述を、それから一二年した遣唐使の記述とし、それは『隋書』俀国伝の年次に合わせ配置されたと、そこに頻出する大唐、唐客の記述から鮮やかに論証している。

 その裴世清の倭国訪問の様子を『日本書紀』はこう伝える。

大唐の使人・裴世清のために新しい舘を作り、難波津に飾船三十艘で迎え、都に入る客人のため、飾馬七十五匹を遣わして、海石榴市の路上で迎えたとある。この難波津は行橋市の御津(三津)で、海石榴市が椿市廃寺のある、今、やちまたの万葉歌碑の立つ辺りであったと思われる。そこが原大和である倭(やまと)の飛鳥の故地があったのだ。その宮廷で「皇帝から倭皇」への挨拶の伝達が行われ、ここに倭国皇統は倭国王統を出し抜く準備が、ほぼ整ったのだ。それは俀国から倭国へ、つまり南船系・倭国王統から北馬系・倭国皇統への完全な中国の乗り換えであった。

この小野妹子の遣隋使ならぬ遣唐使に対する答使・裴世清の訪問によって、唐と倭国皇統との太いパイプは通ったのだ。これに始まる信頼関係が四十年近くして起こった六六三年の白村江の戦いの九年前(六五四年)に、唐の高宗が倭国に、こう述べたところに明らかである。

《 高宗、書を下して之を慰撫し、仍りて云ふ、王の国は新羅と接近せり、新羅、素より、高麗、百済の侵す所と為る。若し危急有らば、王、宜しく兵を遣わして之を救へ。(唐会要より)》

 あれは『日本書紀』を読む会であったか、私は山崎仁礼男を誘い始めて出席したのだが、そこで中小路駿逸は、倭国は、二つあって、その一つは九州王朝で、もう一つは大和朝廷で、これはその大和朝廷に唐の高宗が因果を含めているのだと、白村江前後の倭国の記事を網羅した文書を配り説明してくれた記憶が、遠い世界から今、甦って来るのを覚える。

 それは後の大和朝廷であって、それはこのときは、「もう一つの倭国」として豊前にあった、かつて『隋書』に出現した秦王国である倭国皇統の使者に、高宗は取るべき臣下の道を指し示したのだ。

 唐は俀国とは書かなかったが、これまで歴代中国王朝と通交のあった倭国と、『隋書』で出現した倭国を、裴世清の知識を買い、つき合うべきはどちらの倭国かをよく心得ていた。そして、隋に見放され、唐から距離を取らざるを得なくなっていた委奴国以来の倭国である『隋書』の俀国は、その衰亡がかつて新羅と通じ百済を裏切った事に鑑み、唐に抗してでも、百済復興のためにと乗り出す時代錯誤に陥っていた。しかし、「もう一つの倭国」は、南朝の大義名分にこだわり、袖にされつつある俀国の代わり、朝貢して倭国として認知されることを第一にしたように、いざというときには世界の大勢につくことを胸に秘め、白村江の戦いに臨んだのである。そして決戦の決定的場面で、倭国王統を裏切り、炎々と倭船が燃えさかり、倭人の血で白村江を赤く染めていくのを搦めて傍観し、唐軍により倭国王統軍が殲滅されていくのを見届け、倭国に帰還したのである。

 六六四年の唐制の筑紫都督府の設立によって、九州王朝・倭国は解体を余儀なくされ、その中で次第に倭国敗戦における倭国皇統の裏切りもまた明らかになった、六六一年とも六六七年ともする斉明の死の記述は六六七年が正しく、それは倭国王統残党による白村江の戦いで倭国を裏切った朝倉宮へのクーデターを結果したので、六六七年に近江の大津に天智の智がたたえおりり、______________________________________________________________________________________________________________________遷都とは、九州からの逃亡にほかならない。というのは、朝倉宮に付随する神社の表記は朝闇で、それチョウアンと読め、また長安寺址もあることは、唐の都・長安がどれほど倭国皇統にとって羨望の対象であったかを語るもので、このとき、倭国皇統が唐の占領軍との癒着が目に余るものであったことを示す。その斉明の崩御を山から鬼が眺め、天智の懐刀・鎌足の死がそれから二年した六六九年で、それが霹靂、つまり雷が鎌足宅に落ちたと書くが、雷神は鬼であることはいうまでもない。また、それから二年して天智の崩御を『日本書紀』は伝えるが、『扶桑略記』は沓一つを残し天智は山林に消えたと書いていることは、それが鬼に誘拐されたことを語る。それは白村江の裏切りに対する倭国王統の残党による復讐であったろう。

そして、倭国王統の流れの天武が逃亡した倭国皇統の近江朝を、畿内大和の物部氏と組み、六七二年に壬申の乱で潰し、畿内大和で即位したことに、たかだか大和朝廷は始まったにすぎないが、それは九州王朝・倭国の畿内での再興にほかならない。

そのため、畿内大和には天智と鎌足の痕跡は何一つとしてなく、天武と物部系大氏の痕跡ばかりであった。それを、大化改新を造作することで、天智と鎌足の事跡に書き換えたのが今の大和飛鳥の事跡にほかならない。この逆転は天武崩御の六八六年の大津皇子の変に始まるクーデターによる。その最後が犬と蛇がつるんだが、しばらくして共に死んだとあるが、犬が九州王朝・委奴国に始まる倭国王統で、蛇が出雲王朝に始まる物部氏のトーテムであることを知るなら、この変の陰で、それら記紀皇統に先在した倭国王統と出雲王統の流れにある神武皇統に先立つ饒速日命皇統が粛清を見たことを語るもので、それは鬼の粛清と別でない。

鬼が出雲系の大氏と饒速日命の頭音を取り、福が藤原氏と天智の百済王統の頭音をからなっていることは、平安時代の「鬼は外、福は内」とする国風文化の完成とは、先在する列島王権を完全駆除した者の勝ち鬨の標語で、その鬼の中に南船系委奴国を象徴する天狗が隠されていることもまた自明である。

 僕らにとっては懐かしい名前だが、木佐敬久が「古代の風」194号で、俀国は吉備王朝だと書いている。

 ところで、明石家さんまが司会する深夜番組(現在、ゴールデンタイムに移行)に、様々な新説・珍説を紹介する先生にブラック・マヨネーズが絡んで盛り上げる「ほんまでっか」があるが、とてつもない新説が披露されると小杉が間を置かず、「ヒーハー」と絡んで軽く笑わす術は、大いに学びたいものである。

自説に凝り固まった者同士の世界では、論議は悲劇的な結末に行きかねないから、私はこれからブラック・マヨネーズにならい、できるだけ喜劇的に振る舞って行きたく思っている。なぜなら、喜劇の登場人物は自己批評なしにありえないからで、そこでは自説がなにかであるかのように語る者ほど喜劇的でしかないからである。そのことを客観視し、自らの掘削を深くすることを心がけたいと思う。

 木佐敬久の論を引き合いに出しながら、こんな話をするのは、木佐説を珍説とするからではない。九州王朝説にそれぞれに関心を持ちながら、俀国を吉備王朝にもっていった木佐敬久とは逆に、倭国を吉備王朝だと比定した兼川晋を思い出したからで、二つを合わせると九州に王朝が無くなる事態に、思わず「ヒーハー」と叫んでみたくなったからだが、一体、どうなっているのか、私なりに問題の所在を確かめてみたい。

   一.秦王国見解の深化

『隋書』俀国伝の俀国を、それまでの委奴国や邪馬壹国に代表される九州王朝・倭国に連続するものとし、それを阿蘇山周辺に見て、同書の帝記に載る倭国を畿内の大和朝廷に比定したのは古田武彦であった。その古田武彦は問題の俀国伝に登場する秦王国をその東隣に置くが、焦点を絞りきれなかったかに見える。

 これをベースに『隋書』にある俀国と倭国について、我々は思索を深めてきた。その一帰結として木佐敬久は俀国を吉備王朝だとし、兼川晋は倭国を吉備王朝とするに至ったわけで、考えもなく両者が吉備王朝に俀国や倭国を当てたわけではあるまい。

 その上で、『隋書』俀国伝が触れた秦王国について、グーグルで検索すると72万5千件がヒットし、それを渡来人・秦氏の王国とする見解に始まり、中国王朝の秦王朝後裔による列島国家とする記事から、ユダヤ・シメオン族の苗族が列島に建国したといった記事を目にすることができるが、その所在地についても豊前や出雲や四国西部を冒頭に見ることが出来る。

これに対し、古田武彦は「古代は輝いていたⅢ」の『法隆寺の中の九州王朝』の中で、秦王国を隋の高祖の第三子・秦孝王俊を古来の秦王の故地を与え秦王とし、俊の死後、煬帝はその子・浩にその地を嗣がせたという記事に注目している。これはなかなかの指摘で、秦王国を煬帝の弟王国のとする見解で注目に値する。

しかし、古田武彦はそれを掘り出しながら、その意味を俀国に関係させることなく逸れて行ったのを惜しみ、大芝英雄は、この弟王国の意味を『隋書』俀国伝の高名な次の文章に繋いだ。

《倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏跌して坐し、日出れば即ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。》

 この俀国の「天兄日弟」統治を聞き、隋の高祖(文帝)は「大いに義理なし」とし、いわゆる九州王朝の「天兄日弟」による兄弟統治を「道理に合わない」として改善をはかるよう指示した記事にあたる。

 それがどのように改まったかは不明だが、大芝英雄が秦王国を九州王朝の兄弟統治に結びつけたことで、俀国の王が姓は阿毎である以上、それは天兄で、日弟は弟王国である秦王国にあったとする、思わざる発見に及んだ。

しかも、『隋書』は俀国を、『後漢書』の委奴国を俀奴国として表記し、それ以来の邪馬臺国→倭の五王と続いた連続王朝とし、その連続王朝を古田武彦は九州王朝とした以上、俀国は阿蘇山傘下の九州にあり、その弟王国である秦王国もまた九州域内にあるほかないのは、昼夜の統治を分かった兄弟統治にあった以上、当然であろう。

 大芝英雄のこの洞察は、俀国を吉備王朝とした木佐敬久の論を無効とするばかりか、俀国とは別に『隋書』に記述された倭国を、吉備王朝とした兼川晋ばかりか、それを神武以来の近畿王朝・大和朝廷とした古田武彦の見解をも否定することとなった。

この秦王国の大芝英雄のコペルニクス的転回によって、俀国の兄弟統治を見直すなら、それは天兄・多利思北孤を祭祀指導者とし、秦王国の日弟をその実質的な政治的指導者とするものにほかない。

それは中国に対し対等外交を主張したとする通説の聖徳太子になぞらえられた多利思北孤の実像が、東アジアの政治情勢にまったく疎い一祭祀者を浮かび上がらせることとなった。というのは、通説が聖徳太子のこととして通説が特筆大書した

 《日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや》

と隋に送った多利思北孤の大業三(六〇七)年の国書こそ、それまでの九州王朝を中国に見限らせる契機となり、ついには六六三年に白村江で唐に向き合い敗れ、九州王朝から近畿王朝へと道をつけることとなったことを知るのだ。『隋書』俀国伝の最後が「此の後遂に絶つ」とあるのは、多利思北孤の国書がもたらした当然のつけではなかったか。

     二.隋王の不快と俀国表記

 多利思北孤の煬帝への国書は大業三(六〇七)年で、煬帝を不快にさせ「蛮夷の書、無礼なり、二度と取り次ぐなかれ」とあり、その翌大業四(六〇八)年、裴世清を俀国に派遣するが、その狙いはどこにあったのだろう。

 『隋書』俀国伝は俀国の位置を「百済・新羅の東南、海路・陸路三千里」にあり、大海の中の山島で、その境域を「東西五月行、南北三月行」とし、その都を邪靡堆、魏志にある邪馬臺と記す。そして、後漢の光武帝の時の入朝と、その後の倭国大乱と卑弥呼の共立に触れる。そこから魏から斉、梁に至る通交を語り、開皇二〇(六〇〇)年の隋の高祖への「大いに義理なし」とされた多利思北孤の遣使に及ぶ。このことは、後漢以来、隋までの遣使を俀王によるとする記述は、委奴国を俀奴国とした表記から明らかである。この俀国及び俀奴国の表記は、都を邪馬臺としたことを踏まえ、同音の臺を俀にずらした卑字表記に思えてきた。このことは三世紀の『三国志』の表記は邪馬壹国にまちがいないが、倭国内の呼称が邪馬臺国であった可能性を示唆する。それは倭の五王の武の和名が磐井であるのと同じである。

隋は、俀国の天弟統治に対し、高祖(文帝)が「大いに義理なし」とし、また煬帝が多利思北孤が自らを天子と名乗った国書を、「蛮夷の無礼な書とし、二度と取り次ぐなかれ」と、不快感を露わにしたことは先に述べた。このことを踏まえ、『隋書』における俀国の表示は、この俀王のたび重なる無礼を踏まえ、それまでの倭国表示に代わるものとして出現したことは明らかである。

煬帝は夷蛮の書を不快としながら、翌年、天子と大口を叩く多利思北孤の国に裴世清を送ったのは、それがどの程度の国であるかを確かめ、先帝の高祖が「義理なし」とした兄弟統治が、果たして改められているかを偵察するためには送ったと見られ、実際政治家としての一面をよく示している。

    三.裴世清の俀国視察

その裴世清の行路を『隋書』は、百済に渡り、竹島→都斯馬→一支国を経て竹斯国に至る、と記し、続けて「また東に行き秦王国に至る(又東至秦王国)」と記す。この構文をどう読むかが問題である。

裴世清がその竹斯国内の俀国に至ったことは、俀王の妻に触れ、後宮の次女六、七〇〇人を見、太子に触れ、城郭がないとする見聞により明らかだが、多利思北孤と裴世清の対話部分を古田武彦の書から孫引きしておこう。

《其の王(多利思北孤)清と相見え、大いに悦んで曰く「我れ聞く、海西に大隋礼儀の国有りと。故に遣わして朝貢せしむ。……」

清、答えて曰く、「皇帝は、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て、行人を遣わして来らしめ、此に宣諭す」と。》

さらに『隋書』は俀国の位階制に触れ、外官としての軍尼に触れ、服飾、武器、楽伎に触れ、俀国の戸数を十万戸と報告する。そこから刑罰、結縄文字に及び、仏法に触れ文字を知ったとし、占い、節気、囲碁、すごろく等の遊びに及ぶ。さらに温暖な気候、緑なす草木、肥沃な土地、鵜飼、食生活、性質、結婚、棺と槨を用いる埋葬に触れる。これらは俀国における観察を裴世清は中国に持ち帰ったのである。

そして、最後に噴火する阿蘇山に触れ、その祈祷祭祀と如意宝珠に触れ、また、俀国を大国とし、新羅・百済の使者の往来のあることを告げている。

つまり、裴世清が「竹斯国に至り」とあるのは、その筑紫の俀国を訪れたことを含意しての記述なのだ。その竹斯国内のルートを記さなかったのは、それが中国側にとって「魏志倭人伝」以来、既知であったことによろう。

「また東に行き秦王国に至る(又東至秦王国)」は、その俀国から東行して弟王国の秦王国に至ったことを語るもので、竹斯国をそれまでの経過地のごとく素通りして秦王国に直行したのではないのだ。東行して秦王国に至ったことは、阿蘇山周辺の俀国から東行すれば、そこは豊前と考えられ、それは大芝英雄の大和朝廷の前身・豊前王朝に重なる。そこから十余国を経て海岸に至ったことは九州東岸に出たことを語るものであろう。

古田武彦は、委奴国、邪馬壹国、倭の五王と続く九州王朝の都は変わらないとするが、むしろ私は、それより古田武彦が九州王朝を、博多湾岸を表座敷、筑後を奥座敷、八女の辺りを離れ座敷とした考えをおもしろく思っている。それは、九州王朝は連続したが、委奴国から俀国までの間に都は、情況に応じて、この筑紫の三座敷を転々と動いたと考えており、博多湾岸にずっとあったとはしないからである。

委奴国は博多湾岸に都を置いたが、北馬系の天孫族の侵攻にあい、委奴国王が伊都国で一大率の支配下に置かれた情況を「魏志倭人伝」は記述する。それに見切りをつけ新たに共立された卑弥呼は、八女近くの吉野ヶ里遺跡の辺りにあったのではないのか。さらに倭の五王の時代は強盛となり筑後の久留米を中心に都を営み、次代の俀王・多利思北孤の時は、政務は筑後で取ったが、彼の祭祀場はさらに南に下った玉名市としたいのは、そこに天子宮が蝟集することによる。

その俀国の倭国王統の都から東行し、裴世清は、秦王国の豊前に行き、俀国の日弟に始めて見え、俀王の陰にあった倭国皇統に接したのである。この行路は未知に属すから『隋書』はそれを記載したのだ。

九州王朝論の難しさは邪馬壹国以来、南船北馬の二重権力時代に入ったので、北馬系置台国こく__________________________________________________________________________________________________________________________Bが実質的に権力を握っても、倭国住民は遠い昔より権威は南船系Aの血筋にあるとするところにああるため、諸国は従来通りAに従属するとされるところにある。それは多くの権力者が天下を取ったものの、この国の権威は天皇にあるとする天皇制を温存してきたことに明らかである。裴世清は、諸国が俀国に服属を誓うが、実質上、その支配の実権は弟王国の秦王国の手の内にあり、九州王朝の兄弟統治の実態を見極め、俀国の中にある秦王国の王こそ、今後、中国王朝がつき合うに足る倭国であるとする報告を以て帰隋したのである。

「論証」と「実証」の識別(1)           大芝英雄

     

      一、はじめに

 大家・専門家をさし措いて素人の私が「文献学古代史の意義」を述べようというのであるから笑ってしまう。正に、「盲者、蛇に怖じず。」であろう。しかし、これはどうしても述べねばならない理由が生じ、その必要性に迫られたからである。

 それは、一連の私の独自思考の論文に寄せられる読者諸氏の感想・批評・反論の中のいくつかは、私の予想外の納得がいかないご批評であったと見たからである。私の心の中での不満に対応する自らの処置としては、

  (a)自分の独自奔放思考を改め、大家の論考形式に倣うこと。(自戒)

  (b)読者諸賢に[拙論の批評方法の視点」を改めてもらうこと。他改)

の二つがある。当然、(a)を採り反省自戒の方法によるのが普通であろう,けれども私は、検討の結果として敢えて(b)の「他改」の方法を採るのが正当であるという決意に達したため、本稿を草して読者諸氏に訴える必要が生じたのである。

 つまり、拙論に対するご批評は、「このような意図に拠っているのであるから、このようにお願いしたい。」と、いうにある。これは、きっと本稿で納得いただけると思う。

      二、論理的帰結(仮説)

 近年、文献学古代史の論説に対する認識と評価は、明らかに変貌していると私見する。

 従来は、「史観」という信念の下に思考基盤を確立して古典など文献を注釈し、その論説(仮説)の論理性を尊重・評価して帰結としたが、近年の合理主義的焦燥感は、それでは満足せず論理性を超越して、実証を以て個体を現認しなければ収まらない傾向になっていると見られる。これは、同系隣接学である考古学の「科学的検証」の急速な発達の影響であるのは言を待たない,勿論、論証は論理的証明であり、実証は事実による証明である。

 従来、論理的帰結(仮説)とは、「関連現象を包含した有機的結論」であったが、近年はこれを軽視して、実証的帰結の個体のみ単独的に立証する限定的結論を重視する時勢となったと見ることもできよう。

 こうして、文献学古代史の論説の評価と論争は、従来、[史観と論理」を主としたのに対し、近年は論証(論理)と実証(科学)が混錯する噛み合わぬ論争となることが多くなったと見られる。私見であるが、概観して古田武彦説の論理重視に対し、安本美典説の実証重視が目立ったものであろう。これは、「論証と実証」を混同するところに焦点がある

 「多元説・九州王朝説」とは、論証による論理的仮説の立証である。それを「実証」と解するところに不信が生じ「実証拠の提出を強要せずば措かない」ということになる。正に「説」という宇を忘れた思考であろう。このような混同を助長する風潮を大勢が容認するのは何故であろうか。現在、合理主義的焦燥感のせいであろうか。

 私見として、文献史学の分野は、「論理的仮説立証」が本来の在り方であり、「論理的論証」が第一義であると思う。これに対し「実証史学」は、考古学・物理学・医学など科学の検証領域を持つ歴史学であって、文献学の領域とは弁別すべきであろう。しかし、論考・研究の現実では、両者織り混ぜた研究が普通であるが、原則的には、認識として明確に規定すべきものと考える。

 では、私見としていう文献史学の「論理的仮説」とはどのような範囲と見るか、

 a、徹底して論理的に論証した構想は、即ち「仮説」である。仮説とは、「まだよくわからぬ事実を合   理的に説明するために、仮に立てた説である。」又、仮説は論拠を必要とする、これがなければ主   観的な私的想像に過ぎないからである,

 b、「ある現象などを文献解釈により論証し仮説を立てる。」文献学はここまでを以て論理的帰結とす  る。そして、その批評は、「その史観-その論証‐その帰結」に於て一貫性・整合性・合理性がどの程度あるかが、その評価となろう。

 こうして、論証した「先見的な仮説の現象」を実証するのは原則として、別分野の考古学など科学  的方法であると考える。

 拙論、[九州の難波津」・[九州の近淡海」は、『記・紀』注解を論拠とする四・五世紀の論証である。これについて寄せられた感想の中には、「文献注解による論理的仮説(結論)」だけでは満足せず、論理よりも、「四・五世紀の事象」を実証しなければ、その「仮説」は納得できないとして、第一級資料など科学的な証拠の提出を求める批評もある。これは正に、「仮説の提起」を「事実の発見」と混同した思考であると思われる。無意識のうちに突き詰めねば止まない完全合理主義的風潮の現象であろうか。

 こうして、およそ「論証」の意義は失われたとさえ見える。私見では、

○「論証」を以て導かれる仮説(軸論)は、先づその論理(推理)が正当であるか、どうか、を批   評することであっ、て、それより自ずから仮説(結論)成立の正否が決定されると思う。この方式が文献学の方法であると解している,

従って、文献史学は、「論理学の万法」による文献注解を以てする「仮説史学」が正当性あるものと言えるのではなかろうか。

 千歳竜彦氏は「論文の論証性と論考」について次のように示唆されている。

「最近、私は古代史研究の諸論錯綜の中で、[主観的歴史学の方法」ということを述べています。このとき客観よりもよりよい主観を目指すべきだと思うのです。よく「客観主義の方法」というが、何を客観と考えるか、これが人によって違うのです。一人一人が主張する別々の客観となるからです。私の経験からすると、「客観」を標榜する人ほど、その内実は一般に比して、より主観的であることが多いように思うのです。

 だから、誰しも「私ひとりの古代史」を語っているのだと、いうことをお互いに認めた上で、その主観をよりよいものに昂めていく配慮が肝要だと思います。自分では、古典を味読し、少しでも釈然としないところでは「論理的に、冥想的に、」考え続けることで、誰が何と言おうと、今の私はこれで含味し読み切ったのだと言う、充実感一ぱいまで押し詰めるべきだと思います。」(私書簡より)

 これは、本稿の趣旨に関して傾聴に値する示唆であると感受するのでここに引用させていただいた。


        三、論証の構造

「論理」とは、議論のすじみちである。[論証」とは、判断の真偽を論理的に証明することである。もし、設計工学の機械製図技術者に「論理の設計」を依頼したとすれば、彼は、その設計図を製図法の三角法に従って淡淡と描くであろう。そして、でき上ったものは、正面図・側面図・平面図・立体図などであろう。これは、各視角による[論理」のそれぞれの一面であり、又、「論証」の一面と見ることもできる。

○「論理の正面図・側面図」とは、目前に展開される現象が論旨であり、低い視点であるからその壁の向う側に何かあるか、全くわからない状態である。しかし、舞台のように目前に展開する現象のみを鮮明に推き、印象付けることには適した方法であろう。

○ 「論理の平面図」とは、推移変遷の時の流れを、ある時点で輪切り切断したその断面であり、視点は第三者となる。その断面に見る「その年代、その次元」にある人々の相克や喜怒哀楽が一望の下に見え聞こえる一枚のレコード盤に喩えられる。しかし、そのよってきたる原因結果(時間軸)の判然としないその一場面の平面的な現実のみである。

○ [論理の立体図」というのは、先の平面図レコード盤を上下に幾枚も積み重ねた立体状態を想定し、「経時的事象と多次元」を通して歴史的通史を説明するのに適している。しかし、論理論証の繁雑は避けられないであろう。

 おおむね、「紀伝体は側面図」であり、「編年体は立体図」であるとも言える。論理と同じく論証も又、この製図の方式で「論証製図法」として新視角の知見が得られよう。

 拙論、「九州の難波津」稿は、『日本書紀』垂仁紀・神功紀・応神紀・推古紀・舒明紀・斉明紀・天武紀に亘る各次元の注解論証の蓄積であり、これは立体図論証と見ることができる。そして、次稿の「九州の近淡海」は、『古事記』の神功・応神・仁徳・履中各条の連続した一つのまとまった次元(一時代)を主たる論証としたので、これは、レコード盤一枚であり、平面図論証ということになろう。(続く)

      「論証」と「実証」の識別(2)       大芝英雄


    四、思考、論証方法論


「論理学」を述べようなど、部外浅学者としてできることではない。しかし、「論証」をするには論理学の方法は避けて通れないのである。

 一般に文献史学と考古学は、腹背をなす重要な隣接学であるというのは常識であろう。しかし、熟考すれば「文献史学は、論証」により立証を行こない。「考古学は、実証」により立証するという、画然たる原則が存在すると認識すべきであろう。それよりも、文献史学研究の観点からは、論理学の方法こそ密接不可欠なるものといえるであろう。

 前掲に文献史学の成果は、「論理的仮説」であると述べたが、「仮説」を立てるためには「推理」が必要である。論理学の推理分野にあるこ演繹と帰納」の二方法は、学問各分野に援用されることは周知である。

 古代史など歴史学の隣接学である「民俗学」では、明治の創始より柳田民俗学と折口民俗学といわれる二大潮流があり、その研究方法として演繹(折□)と帰納(柳田)が同学の象徴的構成となっているのも周知である。しかし、これは相容れないものではなく、これらの融合により民俗学の一層の発展を促したと見ることができる。

 折□信夫は、古代に対する豊富か識見から古代の変遷を描き、もともとこの形だったから現在でもこれを継承している筈だと、習俗を的確に想定する。つまり演繹法である。これに対して柳田國男は、今、現にあるものの中からそれを手掛りとして関連する傍証をできるだけ集め、その傍証と推論を帰納して結論を出そうとする。いわゆる帰納法を実践した業績は著名である。以上は、民俗学の例を以て推理法を概観した。

 O「演鐸」* 仮説を立てるには推理が必要である。演繹的な古い形式論理の推理の中で著名なものに三段論法というのがある。例えば、

 a、倭国王とは、三世紀九州王朝である。 (大前提)(九州説)(魏書)

 b、五世紀倭の五王は、倭国王である。   (小前提) (宋書)

 c、故に、倭の五王は、五世紀九州王朝である。 (帰結)

この形式としては、次式の関係でも表現できよう。

小前提/大前提=帰結  bac

又、数理的にも、いずれかの二点の確信を以って他の一点を推量することができる。

 O「帰納」* 又、一般に、構想した仮説を立証するための推理では、帰納法的思考が主流であるということができる。そのためには、できるだけの関連傍証類を集めるが、そのそれぞれに資料価値としての薄厚・軽重があり、しかもその判断は主観である場合が多い。この観念的な価値は、均量化できないから科学的な「量」としてみなせない。けれども、一つの目安として次の思考を述べたいと思う。

 帰納法成功の要素は、仮説立証のため収集した資料群の「貢献度(資料価値・証拠力)と資料数(個数)」の総合効果と相乗効果である。

 今、仮に「貢献度の判定」は、前記のように観念的であるから自分の主観で均量化を考えて、「証拠力同等のもの」が「数個」収集できたと仮定すると、「資料数」は科学的なものであるから、統計学の統計的仮説検定法の概念を適用することができるであろう。




【統計的仮説検証の概念】
帰納論証        仮説立証のための
(個数)  (危険度) (信頼度) (判定)

%    %


1 12 0.5 50.0 50.0 半々


2(12)=0.25 25.0 75.0 薄信 


3(12)=0.125 12.5 87.5   厚信


12)=0.063 6.3 93.7 重信 


5(12)=0.031 3.1 96.9 (確信)



この説明は、その[帰納論証資料個数」1個では、仮説立証の危険度と信頼度(否定と肯定)が「半々」と見る。更に、論証が蓄積してその資料個数5個に至れば、その仮説は、 【危険度3%、信頼度97%】を以って、[確信できる」と解するのである。

「実証」ではなく「論証」である限り、統計的判定では同格の有効論証4~5個が必要ということになろう、(危険度3%を含む) この思考は、観念的な証拠力(論証資料)を皆、同等価値と仮定しているから実用的ではないが、ある「個数」による人間の判断の効率域を示しているものとして参考にできると思われる。


     五、おわりに

 ギリシャ神話の「トロイ戦争」は、単なる西欧の伝説であった。しかし、シユリーマンが合理的思考を以てその史実性を実証したことは有名である。言い替えれば、古代の説話を論拠として「トロイ戦争」を論証し、論理的仮説を確立した。そして、次に合理的(科的・経済的)方法を駆使して実証した。ということができる。

 文献史学に於て「論証」を以て、[論理的仮説」を提起するのは意義ある研究であると考える。その仮説が正当であるか、否か、は、その仮説を立証する「論理」が正当であるか、どうか、に係っているのである,従って、論理の批判には、更に鋭い論理を以て論結するのが正当であろう。「実証」は、別の領域である。

 論証した仮説を「実証」するためには、多くは科学的方法に頼らねばならない。しかしそのまえに論証が正しいか、どうか、調査するのが普通であろう。この段階までが「文献学の領域」ということになろう。

「実証」とは、思想的には実存主義に属するものと認識している。文献史学の分野の中で論理的仮説をさて措き、直ちに「実証」に照らそうとするのは、領域逸脱ではなかろうか。今日、専門家の論争でも自説の確信のために、自からの論証では弱いとして、何とか「無理した実証」に頼ろうとする傾向がある。例えば、

 ○ 「環加多支幽大王」(フカタケル) と読める似た文字と文体の似た銘文が、筑後江田船山古墳と埼玉稲荷山古墳に出土した事実は、即ち、「実証」だとして、記紀に持ち込み「雄略天皇(大治瀬幼武天皇オオハツセワカタケ)の統治は九州から東国に及んでいた」と短絡し、大家の権威で断定するが如き所論もあった。

 こうして、公然と文献史学の分野に「無理した実証」の導入を容認しているのは、どうしたわけであろうか。或は、近代文献学の発展に遅れた私の認識不足であろうか。

 本稿について、識者諸賢のご批正を賜りたいと願う次第である。(平成2年2月)

                    





姓氏と地名の派生移動について             室伏志畔



 飛鳥寺である法興寺が元興寺の別名を持つことについて、私はそれが九州の
元興寺の移坐に関わるとし、私はそれを豊前の椿市廃寺跡に比定しました。そこに現在、願光寺がひっそりとありますが、それはガンコウジで音を同じくするばかりか、その山号は叡野山で、その地番は福丸とあります。それを知った私はそこに聖徳太子のモデルの一人がいたと確信したのは、死後五〇〇年して成立した聖徳太子の墓がある二上山の麓の寺が、豊前の元興寺のかつての山号と地番の一字を合成した叡福寺であったからで、そこに何とか歴史の手がかりを残そうとした先人の知恵を感じたことにあります。
越境としての古代
(豊前の椿市廃寺跡に立つ願光寺、元興寺と音を同じくし、その山号は叡野山で、地番は福丸、その頭音を会わせると叡福寺となり、聖徳太子の菩提寺となる)

ところで私は大阪に住んでいますが、この大阪の意味は不明で、明治になるまでは大坂と表記されたことから、私は大和への二上山越えの竹内街道が大きな坂を成すことに因むと考え、それが行橋市から大坂山越えしての筑豊の原大和への道の附会にあることに気づきました。
 原大和は筑豊の香春岳の三諸山がその象徴をなし、磐井の乱後に物部麁鹿火が筑後に本拠を構えたに伴い住民と共に地名もそこに移り、その三輪町には三輪山を神奈備山とする三輪神社があり、さらに八世紀に日本国の成立に伴い、その筑後周辺から畿内大和への住民移動に伴い現在の大和地名は誕生したのです。つまり、八世紀初頭に大和朝廷は好字二字の地名奨励をした裏で畿内地名の確立があったので、大和地名は筑豊の原大和幻想を引きずりつつ、筑後の地名配置に重なるのは、権力移動に伴う住民の移動がそこにあったからです。
(写真は筑豊の香春岳、一の岳が削られた三諸山→原・三輪山)
越境としての古代
 私は、新宿ゴールデン街のバーに案内され、マダムが京都で鱧(はも)料理を出され、料理長から鱧のさばきについての蘊蓄を聞かされたが、「それは九州の荒削りなさばきをお上品化しただけのものよ」と、八幡西区生まれのマダムが喝破するのを聞き、思わず快哉を叫んだことがあります。



『奥の細道』で芭蕉が最初に宿りを取った地名が草加(そうか)とありますが、私はそれは『古事記』で太安万侶がわざわざ訓じた日下(くさか)が草加となり、音訓みされたのがソウカだと思えてなりません。それはまた、井真成をイノマナリやセイシンセイと訓み、学者先生は井氏を中国姓としましたが、井氏は熊本県の産山村に今も二五〇人以上が盤踞し、和姓としての井(イイ)氏を誇っています、彼らはその故郷の乙宮神社の祭神として草(くさか・日下)姫を祀り、井氏はそれを本源としてあったのです。その草姫は肥後―の宮・阿蘇神社の主祭神・建磐龍命の妃の母堂で、その元宮である草部吉見神社の祭神・彦八井命の妃であることは、熊襲の淵源はこの草姫系譜に由来したことを知るのです。それが朝敵として粛清にあったため、その起源の紛失に伴う日下について太安万侶は注意を喚起したように思えます。というのはその日下と対に帯の訓みをタラシと紹介したのは、歴史における勝者を説明であったのです。景行、神功はタラシを誇り,中臣鎌子が鎌足を称したのは、天皇に倣ってカマタラシを僭称するところにあったのです。

 地名や姓氏はことばの化石としての一面を持つ一方、歴史と共に屈折を免れないので、様々に派生し、移動し、成立する一面をもつのは、井氏の流れに井伊、井居、伊井、飯の各氏があり、大国主命の大氏は太、多,意宇、意富と様々に派生させ、音を残しつつずらし延命をはかってきたので、井氏や大氏は皇統に先立つ九州王朝や出雲王朝の王家に関係したからで、この歴史的理解を欠いては歴史は解けないのです。(2010.4.9


大和ことばの歴史隠し        室伏志畔



(大津皇子の墓とされる鳥谷口古墳)
越境としての古代
 『万葉集』に「玉藻刈り」や「藤波」といった美しい大和ことばがあります。それによると「玉藻刈る」は乙女に掛かる枕詞とあり、藤の花が揺れる様子を「藤波」と説明があります。しかし、七世紀後半から八世紀初頭の万葉歌に限って、これらのことばは必ずといっていいほど、乙女の水死を伴って出現します。この意味を解かずして大和ことばの秘密に参内することはできません。

 それについて、私は六八六年の天武崩御直後に起こった大津皇子の変とは近江朝を中心とする九州勢力のクーデターで、これによって壬申の乱後に成立した天武・物部王権は粛清されたとし、「玉藻刈り」とは物部狩り意で、その物部勢力とは出雲王朝の神裔で、彼等は出雲国の国譲り後、畿内に入り、唐古・鍵遺跡に始まる大和王権を営んだ勢力で、その粛清の最後的光景がその乙女の水死であるとしてきました。
越境としての古代
(写真:石光寺の白壁横がトウヤシキでバックが二上山)

 「藤波」は「藤氏を無みする」意味で、天武の設計になる藤原京の「原」が「源泉」の意を持つなら、天武が藤氏の中心に立ったことを記念してのそれは大都であるとしてきました。その藤氏粛清の最後的光景として、乙女が水死して揺れる様が「藤波」で、藤原氏の成立は、この本来の藤氏の粛清とパラレルに成立したのです。当麻寺や石光寺に伝わる中将姫伝承は,現在、時代をずらし語られていますが、石光寺の白壁の外側の地名がトウヤシキであることは、学者はここでも塔屋敷と無知をさらけていますが、藤屋敷があったのです。それは先年見つかった当初の本尊・弥勒石像が無惨に砕かれて出土したことに明らかです。しかし、この天武に関係する藤屋敷を、天智勅願寺として受け入れることを条件に石光寺がそこに建立をみたのです。このゆえに、大和の寺の縁起ほど怪しものはないのです。

越境としての古代 (写真:石光寺の本尊とされる破壊された弥勒像)

 ところで、私たちは記紀で大和歌のはじめとして、次の歌に愛唱したものです。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣創り その八重垣を


これは記紀ともに、スサノオが八岐大蛇を奸計を用いて退治した後、奇稲多姫と盛んに湧き立つ雲を垣根に、むつまじく籠もった歌と通釈されてきました。しかし、八雲立つの原文は「八蜘蛛断」で、それは確かに八岐大蛇退治に重なりますが、八重垣は掟の意味で、妻ごみは女込み、婦女暴行の意味だとサンカは伝えるのです。とするとき、一首の意味は、八岐大蛇族退治の折、出雲の掟に強姦厳禁とあったが、空しかったとする凄まじい光景を,この歌は伝えるものであったのです。それを出雲に雲が湧き立つ風景にずらし、やえがきである掟を何重もの垣根に変換することで、意味内容を変容させたのを、記紀は大和歌のはじめと誇ったのです。つまり白文を漢字仮名交じり文に変容させるなかで、むくつけき歴史の真実は現在のたおやかな大和歌に変換を見たのです。その意味で大和歌は歴史の嘘の始まりでもあったわけです。

九州王朝説の明日のために①         室伏志畔

       

 922日付けの西日本新聞に福岡市西区の元岡G6号墳から、銘文入り鉄製太刀が出土したとの報道記事を友人が届けてくれた。そんな記事が載っていたかと産経新聞を広げて見るが、畿内版の新聞には何の痕跡もない。それを確認し送って貰った記事を読むと、その鉄製太刀を「大和朝廷の下賜品」としている。しかし、奥野正男はその元岡の古代製鉄遺跡について200メートルほどの狭い谷に二十八基の製鉄溶鉱炉が並ぶ特筆すべきものとしている。その現地の鉄との成分分析の比較無しに、相変わらず、学者は大和朝廷に関連づけるのに忙しい。

 その一方、九州王朝説関係の冊子を見ると、倭国から日本国への転換について、一昨年来の「禅譲・放伐論争」の延長戦にあり、大化の改新や壬申の乱について、通説と変わらぬ天智と天武の皇統争奪戦をあれこれしている。そこには九州王朝・倭国の影はすでに無い。しかし、白村江の倭国敗戦後の壬申の乱とは、唐によって一度は解体を見た倭国権力が、唐に通じ覚え目出度い明日の日本国権力と、明日をめぐる決死の戦いにあったというのに。それは九州を溢れ畿内へ場所を移し戦われたが、九州王朝説論者がことごとく倭国権力を見失い、皇統メガネを愛用し論じているのだから笑わせる。この状況は、九州王朝説のここ二十年の凋落と無関係でなかろう。そうした中、九州王朝説の提唱者・古田武彦が、その四十年に及ぶ古代史研究の「畢生の一冊」とし、『俾弥呼』を提示する。多くを教えられ報いること少なかった私は、今後、氏に話しかける機会がそうあるとは思えないので、少しく述べてみたいと思う。

     1.九州王朝説と市民の歴史研究運動

 氏の古代史研究の前提に親鸞研究がある。その史料批判から浮き彫りにされた親鸞思想は、本願寺教学からの親鸞の解放と別でなかった。この方法をもって氏は古代史に相渉り「魏志倭人伝」記載の邪馬壹国について、これまでの邪馬台国論は、それを大和と繋ぐために邪馬臺(台)国とした曲学でしかないと断じ、『三国志』全体の「壹」86個と「臺」56個に当たり、そこに一切の誤用がないことを確かめ、邪馬壹国の表記に誤りなしとした。それは大和一元史観からの邪馬壹国の解放と別でなかった。氏はそれを『「邪馬台国」はなかった』(1971年)にまとめ、華々しく70年代初頭に古代史界にデビューした。それに続く『失われた九州王朝』(1973年)は、漢籍に載る倭国は近畿王朝・大和朝廷ではなく、それに先在する九州王朝であったとし、倭国を日本国のかつての亦の名としてきた通説を排し、大和中心の皇統史観の外に九州王朝を屹立させた。これに続く『盗まれた神話』(1975年)は、記紀神話の多くを九州王朝からの盗用とし、天孫降臨神話を対馬海流上の島々からの九州侵攻とし、その天孫降臨地を北九州の高祖山の日向(ひなた)周辺に比定し、そこに倭国の起原を置き、神話を歴史に奪回した。この初期三部作における瞠目すべき発見の連鎖は、大和中心の歴史しか知らない日本人にとって事件であった。

この大和朝廷に先在する九州王朝の提唱は、皇統の枠組みを越えた王権論の提起にほかならない。それは皇統枠内に歴史学を閉じ込めてきた学界との軋轢を生む一方、戦後史学に飽き足らなかった市民の関心を集め、各地で「古田武彦と共に」学ぶ市民の歴史運動が組織されたことは、やはり特筆に値する。それらを全国的な「市民の古代の会」へ組織したのは藤田友治であった。かくして九州王朝説は、氏を頭脳に藤田を組織者にもつことで70年代後半から80年代を席巻し、一時、会員は八百名、非会員シンパはその10倍に及ぶ侮れぬ勢力をもった。この背景に70年代後半に始まった大学闘争が、72年の浅間山荘事件を引き起こすまでに退化し、行き場を失った学生や市民の受け皿として九州王朝説があったことは否めない。その組織者・藤田が学生運動家上がりであったのは偶然ではない。

     2.九州王朝説潰しの謀略

本書は、この初期三部作の嚆矢を成す邪馬壹国の女王・俾弥呼(ヒミカ)についての評伝で、氏の四〇年に渉るさらなる論理の到達点を示すものである。そこで言い残すまいとする氏の踏み込みは時に薄氷を踏み危うさと表裏してあるかに見えるが、私は急ぐまい。

 その九州王朝説は90年代に入ると一転し冬の時代をえる。2004年に藤田と私が「九州王朝説の現在」を「季刊・唯物論研究」87号で特集したとき、「まだ九州王朝説を云う人がいますか」と左翼知識人から云われたことを想い出す。そのため、近時、久しく出版されること少なかった氏の、それから七年した本書が、発売後、一ヶ月余にしてすでに5千部を売り、すでに第2刷に入ったと聞くのは嬉しい。その本書を刊行したミネルヴァー書房が一昨年から復刊した氏の第一期著作集もよいらしく、第二期著作集の復刊も間近いと聞く。この古田武彦リバイバルの兆しは、90年代に九州王朝説離れを来したが、大和中心の歴史学では何事も始まらないため、それに対し最もトータルな批判をもった九州王朝説の見直しにあるのかも知れない。現在の歴史学の閉塞状況の打開のために古田武彦の著作は、その基礎文献としてもっと読まれる必要があろう。

 ところで、私は古田武彦リバイバルの兆しと書いた。7、80年代、向かうところ敵なしの感があった九州王朝説が、なぜ急に90年代に入り冬の時代を迎えたかの反省は、もっとなされる必要がある。それをあらぬ「偽書疑惑」をかけられために起こった不幸な出来事ですますなら、それは大きなまちがいで、そこに思想としての九州王朝説の脆さがあったことの自覚なしに明日の九州王朝説もまたないのだ。

 江戸寛政期の再写本『東日流外三郡誌』を持ち上げた氏に、「歴史を贋造する人たち」と悪罵を投げたのは、「季刊・邪馬台国」の編集長で、数理歴史学を説く安本美典であった。その告発にも似た提起は学問的に争われることなく裁判沙汰になる背景に右翼の影も見られた。それは皇国に九州王朝を先在させたことへの反発にあるが、マスコミによる情報操作は、「市民の古代」の会幹部を浮き足立たせ、反対派の機関誌で論を張る体たらくを生んだ。そのことは、それが仕組まれた政治的な九州王朝説潰しであったことを語る。それは今も、この再写文書の中身を検討するのではなく、和田家文書の保管者であった故和田喜八郎の怪しげな手つきをあげつらい、その手の本がジャーナリズム大賞を受けるところに、この問題の根深さある。その賞のバックに戦後史学の屋台骨を築いた津田左右吉を擁する早稲田大学があり、多くの名だたる文化人がこの書を推し、歴史物を売り物にする出版社が、その後押しをしているのもまた事実なのだ。九州王朝説はこれらを向こうに回す歴史思想として足腰を鍛えることなしに、情報操作による袋叩きは、今後も繰り返されないという保障はどこにもない。

 この騒動の発端を成す氏の『真実の東北王朝』(駿々堂)が発刊されたのは1990年であった。これと前後するように昭和は終焉し、ベルリンの壁の崩壊を序曲としてドミノ倒しのごとく東欧社会主義国家が倒れ、ついに199112月にソ連邦も崩壊する。これらの終焉と九州王朝説は何ら関係ないとはいえ、その組織論が古田本による外部意識の注入論であることは、マルクス・レーニン本による左翼組織論と同じで、それにマスコミが疑惑のキャンペーンを張ると会がひとたまりもなく吹っ飛んだことは、90年代を前後する終焉に重なる一面を持つ。そのことは九州王朝説の再編は、それぞれが九州王朝説を内在化させる道を通してしか保持できないことを教えるが、現状は今も氏の本のオウム返しで、その組織的再編もまたその域をでなかったところに、かつてと違う九州王朝説の苦渋のこの20年が刻まれたのだ。

     3.神武東征論と記紀史観

 「偽書疑惑」の中でその払拭に敢然と一人、氏は抗する中で、その再編を安易に古田枠で処理しようとしたことは、「君が代」論の新展開の契機を創った「多元的古代・九州支部」(現・九州古代史の会)等の排除を結果し、氏は自ら九州王朝説の情報源の梯子を外す逆説を結果した。そうした中、氏は九州王朝から近畿王朝への架橋を、神武の畿内大和東征論をする中で、かつて多くの者がはまった記紀史観の迷路に分け入った。それはかつての『三国志』を中心とした漢籍から記紀文献への史料分析の移行を意味する。しかし、そこに内外文献の越えがたい位相差があることを氏は見ることなくたやすく二つを繋いだ。

 神武東征の出発地を記紀の説く南九州から北九州へ、氏は自ら発見した天孫降臨地に改めたものの、東征地を疑うことなく畿内大和に踏み行った。それは戦後史学の神武架空説に対し、記紀の神武東征説にお墨付きを与えることになった。この逆説は大和を疑わずに、そこを大和と信じ踏み込むものでしかない。ここにある欠落は、神武に先立ち大倭(やまと)に降った饒速日命の天神降臨の無視にあった。対馬海流上の島々である天国(あまくに)からの天孫降臨が北九州への侵攻であるなら、それに先立つ天神降臨が北九州を差し置き、瀬戸内海の奥にある畿内大和へ侵攻したと誰が信じえよう。実際、饒速日命の足跡は、今も畿内河内にあるとはいえ、それに先在し、九州の遠賀川流域周辺に今も見ることができる。それは神武東征の前後に刻まれた饒速日命族の大倭(やまと)侵攻と追放の二つの足跡にほかならない。この意味を押さえることなく、氏は記紀の畿内大和への神武東征を首肯したため、これを境に、氏は九州王朝と近畿王朝との二朝並立論へ移行し、九州王朝説は焦点ボケする。それは結果として九州王朝の陰にあった倭国皇統を見失わせ、九州王朝の影の半分を記紀が造作した畿内大和に丸投げした。そのため、氏はその後、倭をある時はチクシと訓み、ヤマトと訓む二元論を強いられる。のみならず、この神武皇統以前の饒速日命皇統の見落としは、『東日流外三郡誌』出現の幻想的背景がそこにあることさえ見ないのだ。ここにある氏の致命的な欠落は九州王朝・倭国の故郷が、倭(やまと)を淵源とすることの見落としにある。換言すれば、原大和としての倭(やまと)が倭国の共同幻想の淵源にあることに気づかないことにある。それなくして、畿内での大和の復活もまたありえない。 (続く)



※室伏志畔講演ー「高市天皇問題と人麻呂の歌」 12月11日(日)午後2時

      堺市立すえむら資料館(旧泉北考古資料館)


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