大和ことばの歴史隠し        室伏志畔 | 越境としての古代

越境としての古代

 日本古代史は東アジア民族移動史の一齣であり、それは長江文明を背景とする南船系倭王権と韓半島経由の北馬系王権の南船北馬の興亡史で、それは記紀の指示表出ではなく、その密やかな幻想表出を紡ぎ、想起される必要がある。

大和ことばの歴史隠し        室伏志畔



(大津皇子の墓とされる鳥谷口古墳)
越境としての古代
 『万葉集』に「玉藻刈り」や「藤波」といった美しい大和ことばがあります。それによると「玉藻刈る」は乙女に掛かる枕詞とあり、藤の花が揺れる様子を「藤波」と説明があります。しかし、七世紀後半から八世紀初頭の万葉歌に限って、これらのことばは必ずといっていいほど、乙女の水死を伴って出現します。この意味を解かずして大和ことばの秘密に参内することはできません。

 それについて、私は六八六年の天武崩御直後に起こった大津皇子の変とは近江朝を中心とする九州勢力のクーデターで、これによって壬申の乱後に成立した天武・物部王権は粛清されたとし、「玉藻刈り」とは物部狩り意で、その物部勢力とは出雲王朝の神裔で、彼等は出雲国の国譲り後、畿内に入り、唐古・鍵遺跡に始まる大和王権を営んだ勢力で、その粛清の最後的光景がその乙女の水死であるとしてきました。
越境としての古代
(写真:石光寺の白壁横がトウヤシキでバックが二上山)

 「藤波」は「藤氏を無みする」意味で、天武の設計になる藤原京の「原」が「源泉」の意を持つなら、天武が藤氏の中心に立ったことを記念してのそれは大都であるとしてきました。その藤氏粛清の最後的光景として、乙女が水死して揺れる様が「藤波」で、藤原氏の成立は、この本来の藤氏の粛清とパラレルに成立したのです。当麻寺や石光寺に伝わる中将姫伝承は,現在、時代をずらし語られていますが、石光寺の白壁の外側の地名がトウヤシキであることは、学者はここでも塔屋敷と無知をさらけていますが、藤屋敷があったのです。それは先年見つかった当初の本尊・弥勒石像が無惨に砕かれて出土したことに明らかです。しかし、この天武に関係する藤屋敷を、天智勅願寺として受け入れることを条件に石光寺がそこに建立をみたのです。このゆえに、大和の寺の縁起ほど怪しものはないのです。

越境としての古代 (写真:石光寺の本尊とされる破壊された弥勒像)

 ところで、私たちは記紀で大和歌のはじめとして、次の歌に愛唱したものです。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣創り その八重垣を


これは記紀ともに、スサノオが八岐大蛇を奸計を用いて退治した後、奇稲多姫と盛んに湧き立つ雲を垣根に、むつまじく籠もった歌と通釈されてきました。しかし、八雲立つの原文は「八蜘蛛断」で、それは確かに八岐大蛇退治に重なりますが、八重垣は掟の意味で、妻ごみは女込み、婦女暴行の意味だとサンカは伝えるのです。とするとき、一首の意味は、八岐大蛇族退治の折、出雲の掟に強姦厳禁とあったが、空しかったとする凄まじい光景を,この歌は伝えるものであったのです。それを出雲に雲が湧き立つ風景にずらし、やえがきである掟を何重もの垣根に変換することで、意味内容を変容させたのを、記紀は大和歌のはじめと誇ったのです。つまり白文を漢字仮名交じり文に変容させるなかで、むくつけき歴史の真実は現在のたおやかな大和歌に変換を見たのです。その意味で大和歌は歴史の嘘の始まりでもあったわけです。