実は前職の同僚であり、友人でもある れーこさんがアメブロに参加して、交換ブログなるものを提案してきました。(^^)
(私のブログの更新が間遠なのを心配したのかもしれない(笑))
自分の記事に対して、感じたことを書け、というのです。(^^)
うれしい申し出だったので、すぐ引き受けました。
ということで今回の記事は友人のブログにこれから載る予定のものです。
今晩(3時間後くらい?)、この記事に対する私の文をアップする予定です。
皆様、よろしくお願いいたします。m(__)m
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
帰宅ルートに人2人並んで歩くのも窮屈なくらい細い道がある。
そこに差し掛かろうとした時、後ろから来た自転車にチリンチリンと鳴らされた。
振り向きざまに抜かしてったのは、小学校4、5年生くらいの女の子。
小道の先には、歩行者が一人歩いている。 彼女は躊躇なく再びチリンチリン♪
さらに見ていると、前方から大人が運転する自転車が向かってきた。
その大人はさっと自転車から降り、端によける。
その横を巧みにすり抜けて走る女の子。
ナンテナマイキナガキ
と思ってしまった。
アメリカの大人なら、しっかりと自己主張できる子供だと、頼もしく思うだろうか?
Yes かもしれない。
でも、日本人の私は不快であった。
自分の息子(小4)が今こんな感じで、常々どうにかしたいと思っている。
「謙虚さ」が足りないのだ。
だいたい、欧米で謙虚に当たる英語 humble は、必ずしもいい意味で使われない。
「卑しい」、「貧しい」 、「高貴でない」 って感じの意味合いを含むのだ。
なんか、ちょっと上から目線で、見下して言ってるニュアンス。
私は日本語の「謙虚」という言葉が好きだ。
厳かで高尚な趣を備えたこの謙虚という言葉は、
「他者が自分以上に価値のある存在だと敬う気持ち」
を言うのだろうと思っている。
私は自分でもその気持ちを大事にしたいと思うし、
子供達にも、身につけて欲しいと願っている。
一度脱線するが、日本語は、相手の顔色を見ながら結論を変えることができる言語だ。
ケース①
「私はあなたと一緒に…」
(あっ、嬉しそうな顔した!)
「暮らしたいの!」
ケース②
「私はあなたと一緒に…」
(あっ、迷惑そう、かな!)
「暮らしてみたいって思わないでもないんだけどね」
ねっ、こんな具合に。
それに対して英語は、最初から意思が固まってないと話し出せない。
“I'd like to...”
相手が嫌な顔しても、もう「~したい」って結論を断言しちゃってるわけ。
変えられない。
自分の意見をはっきり述べる、自己主張に適した言語なのだ。
日本語は、相手と協調することを可能にする言語であり、
相手を尊重する謙虚な精神を運ぶことができる。
日本が島国で、ほぼ単一民族で構成されてる安心感の中で、
そんな言語になっていったのだろう。
西洋ではそうはいかない。
陸地続きでありながら、国境のこっちとあっちでは違う法律、違う価値観の元に暮らしている。
アメリカにいたっては、隣人と風貌からして異なる。
そんな中、自分はこう思う! を言えることは、自分を守ることだったのだろう。
現在、地球は広範囲にわたってネットワークが張られ、
もはや、大袈裟に言えば、ひとつの島国のようなものだ。
隣人を食うか食われるかの存在ではなく、
尊重し合う存在として認識していくことが、
これから平和で文化的で真に豊かな世界をつくるのに必要だろう。
能が好きな友人がいる。
彼女は、能は日本の文化であり、協調性を形にしたようなものだという。
そして、これからは、能の価値観こそ、世界に広められるべきであると。
そんな彼女の言葉が、
少女の自転車のチリンチリンに重なって響いた。
というわけで、明日、その彼女の意見をここで聞かせてもらおうと思う。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
れーこ さんのブログより http://ameblo.jp/0ko-on-the-way/
れーこさんはこの記事を明日公開予定です。(^^ゞ