このブログをご覧の皆様



皆様、おひさしぶりです。 かん です。

長らく更新しないまま、放置した状態で申し訳ありませんでした。

仕事が忙しくなってきたのと同時に、マインドマップの方も

本気で取り組まねばならない状態になって参りました。



このブログは続けるつもりですが、今後も不定期にしか

更新できないでいると思います。

申し訳ありません。



なんとか更新したいと思っておりましたが、

筆のすすみがままならず、今日に至っております。



ペタをいただいている皆様



長らく更新しないこのブログにペタをずっといただいて、

皆様には勇気をいただいておりました。

なんとお礼を申し上げればよいかわかりません。

本当に心より感謝申し上げます。



        康 宝心拝


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前回、目の輝きの話だったが、私の生徒の話だ。



私は塾で英語や国語を中学生を教えたことはあっても、学校で、しかも社会科を教えたのは

4年前が初めてだった。

私は普通に教科書に載っている、これから解決すべき社会の問題点を授業で話した。

ところが、私が社会の問題点について熱を込めて話せば話すほど、生徒はどんどんどんよりしていく。



生徒の目に覇気がなくなってくるのに気がついた。ここで私はハッとさせられたのだった。



もしかしたら、この子たちは疲れているのではないか。

さんざん大人からこれから解決していかねばならない問題点を山積みにされて、

疲れて果てているのではないか、と気がついたのだった。



それから私は社会の問題点を話すとき、

逆に社会活性化の工夫に成功した例を話すように努めた。

そして、国際協力には、単なる資金援助ではだめで、

その国の人々が自律できるようなシステムを考えなければいけないことを伝えた。



そして、校長の提案だったが、シャプラニールというNPO団体が考え出した

貿易ゲームをやって、先進国と開発途上国との貿易格差を体験してもらった。

このゲームは先進国と開発途上国との不均衡な関係を体験するもので、

本来はこのゲームを続ければ続けるほどその格差は広がることを理解するものだ。



でも私は生徒にそのことを伝え、普通はそういう結果を生むが、

頭を使って工夫すればそういう結果にはならないかもしれない、とヒントを与えた。



そうすると、生徒は私の思いもかけない様々な工夫をして、

開発途上国のチームと先進国のチームとの格差がそんなに広がらない結果を生み出した!



そこで開発途上国に本来するべき援助は?と生徒に聞くと、

(健康を維持できる食料が行き渡るという前提で)教育!協力!という返事が返ってきた。

これはうれしかった。



それ以来やっと生徒の目が翳らなくなった。



また、そのとき私は、その学校の中学の社会科で課せられていた社会科論文の指導も担当していたが、

そのことに気がついてから、指導の方針を改めた。

つまり、社会活性化をそれぞれの論点で最終的に論じてあることを評価する、という方針だ。



この方針は、もしかしたら中学生には重い課題かもしれなかった。

下手をすると親が論文を手伝う率が高くなるかもしれない。

しかし、それは逆に考えれば、親子で社会的なことを語り合うチャンスになるかもしれない。

社会科論文は、どのみち大人の協力なしではなしえない。官公庁にインタビューに行ったり、

様々な大人の力を借りなければならない。

そういうことを考えれば、忙しい親御さんには申し訳なかったが、

親子のまた新たなコミュニケーションの時間ともなると考え、

でも、それも無理な生徒もいるかもしれないので、

とにかく行き詰まったら私に気の済むまで相談するように、

と伝えて、その方針を続けた。



最後まで食い下がってくる生徒も結構いて、下手をすると6回は書き直ししてきた生徒もいる。

そうやって勝ち得た最高得点Aは生徒たちの財産になっていると確信している。



そうした論文指導の中で、忘れられないエピソードがある。



社会活性化の話を必ず、授業の中に組み込むことを自分に課していた私だが、

ムハマド・ユヌス氏がノーベル賞を受賞したとき、興奮した。

素晴らしい社会活性化の例だからだ。

ムハマド・ユヌス氏はバングラデシュの経済学博士だが、

銀行が相手にしない貧しい人にお金を貸し出し、

お金を借りた人たちが協力し合って返済していくシステムの銀行(グラミン銀行)を考えだし、

マイクロクレジットというシステムを世界に広めた人だ。



だから、中学社会科論文のタイトルにグラミン銀行も選択肢の中に入れておいた。

しかし、グラミン銀行を論文にするのは難しいことも注意しておいた。

なぜなら、長所を紹介するのは論文ではなく、パンフレットに過ぎないからだ。

グラミン銀行は素晴らしいが、それでもやっぱり乗り越えるべき問題点があるはずで、

そこに触れて、さらにどうすればいいのか考えていかなければ、最高点はあげられないと生徒には告げておいた。



それでも無謀にも挑戦してくる生徒は必ずいて、そのうちの大半は最高点をあきらめているのだが、

あきらめるだろうと予想していた生徒が、最後まで食い下がってきて、

最終的には論文らしい体裁に仕上げてきた。

その生徒には失礼ながら、もしかしたら親御さんの力かな?とちらっと思っていた。



そこに別の生徒で、「世界の子供たち」というタイトルで、

世界の子供たちの状況を論文にしてきた生徒がいた。



中身はそんなに悪くはないが、論の章立ての配列が悪くて、散漫な印象なのが残念だった。

どういうのかというと、子供たちの食について、子供たちの職業について、子供たちの教育について、

こんな風な順序で、言いたいことが十分伝わっていないのが残念だった。

それをそのままその生徒に伝えた。



「どうすればいいですか?」と聞いてきたときは、もうすでに何度か書き直してもらって、それまでにもずいぶん話し合った後だったから、ちょっと冷たいようだが突き放してみて考えてもらおうとした。

「ちょっと自分で考えてみなさい。今まで私と話し合ったことを思い出してみて。」

と言って、その生徒との相談を打ち切った。



そのときのことだ。私との相談が終わった生徒たちがその生徒を取り囲み、

その論文のことで話し合い始めたのだ。

グラミン銀行を論文にしたあの生徒が先頭に立って!

「だからさ、先生の言っていることを考えたらね、・・・・」

みんなで真剣に語り合っている。

もちろん、私は知らん顔しながら、ほくそ笑んでいた。

思っても見なかったことだが、でも実は心の底から望んでいたことだ。



生徒に機会があるごとに言った。

学ぶはまねぶ、だから大人の意見はどんどん聞きなさい。

あなた方は様々な大人から育てられるべきで、様々なものの見方を学びなさい。

だから大人から上手に知恵を引き出して、自分のものにしなさい。

そういう意味で、大人の力を上手に借りられる子供になりなさい。

立派な大人になるために、大人の力をたくさん借りることができる立派な(笑)子供になりなさい。

みんなで協力し合ってそうして自律していきなさい。



その翌日、提出してきた「世界の子供たち」の論文は中学生らしい、

初々しいが、きちんと考えた構成になっていた。

食事がきちんと食べられて、その上での教育。

教育あっての職業。

しかし教育を十分受けても、労働者を受け入れる産業が育っていない厳しい現実もある。



そうしたことがきちんとわかるように配列ができていた。



「そうよ!これでいいのよ!」って言って最高点のAをつけた。



そして顔を上げたら、黒板に、私を先頭にして生徒たちが笑顔で手をつないでいる絵が書かれてあった。

タイトルは「世界平和の図」。

泣きそうになった。



ほんとうは子供たちはいつでも、目の輝きを取り戻せる!って確信した瞬間だった。
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初めてご覧になる方へ



この「近未来的価値観と日本文化の心髄」シリーズは

れーこ先生との交換ブログなるものになっています。

訳が分からないようでしたら、


「近未来的価値観と日本文化の心髄(1)」


から読んでみて下さいね♪

れーこ先生は、私が前職(教師)の同僚で

学校に違和感を感じる子どもたちの支援をしている

熱血教師です。



「学校が合わない?それがどうした\(^O^)/」

   熱血 れーこ先生のブログはこちら↑) 

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先月、三鷹市で地域コミュニティを造っていこうと活発に活動しておられるおやじの部屋・みたか組 の方にお誘いを受け、

四宮監督の

「忘れられた子供たちスカベンジャー」

「神の子たち」の2本立ての上映会に行った。

 

どういう映画かというとフィリピンのスモーキーマウンテンで暮らす子どもたち、その家族たちの生活を淡々と追っていくドキュメンタリーである。

 

スモーキーマウンテンのことは本で読んだこともあるし、

人から聞いたこともある。

大量のゴミで出来た大きな山。その山が自然発火して静かに煙を出している。

そこに再生して使えるゴミを拾って暮らしを立てている人々が住んでいる。
圧倒的な現実に個人の無力感を感じざるを得ない、
そんな感覚をずっとどこかで持っていた。

 

この映画では、胸に迫るような生活苦は重苦しく根底に流れているのだが、

不思議なことにどこか明るく、

あっけらかんとしたところもある。

その日暮らしの日常に突然どうしようもない絶望の淵が現れることもある。

そうした日々をスモーキーマウンテンの人々は淡々として暮らす。

というかそうせざるを得ない。

 

だけど、驚いたことに彼らは冠婚葬祭をきちんとやり、

ダンスパーティだってあって、

学校に行ける余裕があれば、学校にも通うのである。

 

そして、ここが重要なのだが、彼らは人に媚びた目をしていない。

 

 

この映画を見ながら私は思い出していた。

私は8年前にスリランカに行ったことがある。

そのとき驚いたのが子どもたちの目の輝きである。

まっすぐな目をしている。

日本の子どもたちとはまた違うのだ。

 

またそれとは逆に、

トイレで粘りつくような目つきでニヤッと笑って蛇口をひねる女の人がいた。

私が何も知らずに「Thank You!」と言ってにこっと笑いかけただけでいたら、

苦い表情で顔をそらし、

まるで闇に沈む様にたたずんでいる。

 

あとで聞いたら、トイレの洗面台の蛇口をひねってチップをもらって生計を立てている人なのだそうだ。

この目の輝きの落差が私のなかに印象的に残っていた。。。。

 

 

さて、先ほどの上映会に四宮監督ご自身がおいでになり、

観客同士のディスカッションのあと、

監督との質疑応答の時間が設けられていた。

監督によると、

スモーキーマウンテンの人々は目が澄んでいて、

人の好意を最初からあてにせず、

むしろ自分たちが出来ることを自分から差し出そうとする。

そうやって互いに助け合いながら、

自分たちの生活は自分たちで出来るだけなんとかしようとする。

しかし、フィリピンの都市部に住む最貧困層はその逆だと、監督は言っていた。

 

フィリピンの都市部での最貧困層の生活は売春や物乞い、

へたをすると窃盗などでようやく成り立つ。

ほかの手段を見つけることはかなり難しい。

こうした生活は、

絶対的存在である証拠でもある肉体を、

お金で換算するという相対化をしてしまう、

あるいは自分の生活を自分の考えで組み立てるという人間の自律性すなわち人間の尊厳を大いに損なうものなのだ。

 

このとき謎が解けた。

目が澄んでいること、目の輝き、それは自律している人間の尊厳から来るものなのだと。

 

スモーキーマウンテンの人々の生活のすべてが悲惨で絶望に絡みとられるわけではないのは、そこにある。

スモーキーマウンテンで彼らは自律して暮らしている。

 

この上映会には高校生や中学生が参加していて、四宮監督への彼らの質問は‘目の輝き’に集中した。

 

高校生が言った。

「自分は将来こうした人々の支援をする仕事をしたいと考えています。監督が目の輝きが違う、と仰ったが、その目の輝きはどこから来るんですか?それがわからないと、支援の仕事は出来ないんじゃないかと思うんです。」

中学生は「目の輝きを持つためには私たちはどうすればいいのですか?」と問いかけた。

 

監督はそれらの質問にははっきりとは答えなかった。



『BASURAバスーラ』 という最新作で自らその答えを引き出して欲しいという想いがあったのかもしれない。

 

この高校生や中学生の質問に、

私は日本の将来に大いに期待が持てた。

子どもたちはちゃんとホントのことを見抜く力を持っている。

問いを立てることが出来るのは、答えに半分近づいているも同然だからだ。

 

人間の本性は自発性に基づく。

自発性が発動するのは自分の頭で考え、自分の体で行動するときである。

それを自律という。(カントのいう自律はもっと厳しいけど(笑))

そこに人間の自由があり、尊厳がある。

人間は自分自身に尊厳を感じ、

自分自身を尊敬できなければ、最大限の力を発揮できない。

 

ただし、人間が自分自身に尊厳を感じられるように自律するためには、その足下に、お母さんのふところのような、自律を助ける共同体の互いを助け合うシステムは絶対的に必要である。

 

個人の自律は共同体という支えがあってはじめて可能になる。母なる大地があってはじめて人は立つことができるのである。

 

私たちは本来許し合って、励まし合って、互いの自律を可能にする。許し合い、励まし合うのは共感性の基盤があってこそである。

 

もちろん余裕のない生活故、そこで犯罪がないわけではないが、

スモーキーマウンテンの人々の瞳がまっすぐなのは、

自律していることと、痛みを分かち合う共同体の存在は大きいだろう。

 

日本文化が持つ、想像力を引き出す共感性の形式はそうした共同体を造る基盤に必要だと私は思う。

 

人間の尊厳、さらに言えば存在することそのものの尊重、それは存在することそのものが学びであり、

その学びを尊重することに他ならない。

人間の尊厳、それが自律であり、人間の自由を認めることに他ならない。

 

ところで、

いまある世界は互いにいがみ合って暮らしていけるほど、のんきなものではなさそうだ。

 

私たちひとりひとりの価値観が私たちの行動に直接影響があって、

私たちひとりひとりの行動が世界の未来につながっているものならば、

人間、もっといえば存在の尊重、

さらには自律的学びの尊重という価値観が当たり前のようになって、

共感を持って行動がなされるとき、

世界の未来は明るいものになると私は思う。

 

そうした近未来的価値観に日本文化は、許しと尊重、共感性の形式において貢献するところが大きいと思うのである。







↓この絵は、この記事に私としてはぴったりの絵だと思っています。

  イラストレーターの知希さん から頂きました!

 知希さん、ありがとうございます!!!



生き抜く!哲学だ!| 康宝心の哲学講座 ーランタンの炎ー
















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地球の乳

テーマ:
うちの近所に白い猫が居た。

その猫はいつも駅に向かう路地に居た。

 

いつも誰かを待っているみたいに、たたずんでいるんだが、

じつはみんなを待っている。みんなが帰ってくるのを待っていて、

朝になったら、みんなを送り出すようにひとりひとりの後ろ姿を見ている。

  

その路地を通る度、その白い猫は話しかけるように

私のそばを歩き、私がしゃがんでなでてやるところころ転がって

楽しむのだ。

   

そうするのは私だけではなく、いろんな人にそうしていて、

いろんな人にかわいがられていた。  

  

ある日、その猫の目やにが酷くなり、

最初は飼い主は何しているんだろうと思っていただけだったが、

あんまり酷くなったので、 

いつもその猫が門のところにいる家の人にとうとう話をしに行った。 

そうしたら、その猫は野良猫だった。そこの家の前によくいるので、

主に世話をしてあげているだけだという。
 
 
 
目やにのことはそこの路地の並びの家々の人たちが気にして、

代わる代わる獣医に連れて行っているが治らないということだった。 

 

驚いたことに、その猫のえさは誰かが入れ替わり立ち替わり、 
 
その家に置いてゆき、
 
その猫の首輪も、汚れが酷くなったら、誰かが替わりのものを替えていくのだそうだ。
 
名前は?と聞くと、みんな思い思いの名をつけて呼んでいるらしい。
 
 
 
ある日、その猫が若い女の人にかわいがられているので、その人に

「ご近所にお住まいなんですか?」と聞いたら、

その人はこの近くの学校に通っていたのだが、
 
通学路にいるこの猫をいつもかわいがっていて、
 
卒業してもかわいがるためにわざわざこの土地にまで
 
電車を乗り継いでやってくるのだという。
 
その人曰く、そういう人は他にもいるのだそうだ。
 
  

また別のある日、泣きながらその猫をなでている女の人がいて、
 
 
また別の日にはサラリーマンのおじさんがずっと語りかけていたりしていた。

 

私はその猫が野良猫なのに幸せそうに暮らしているから、

地球の乳を吸って生きているような猫だと思っていたけど。。。。。

 

最近その猫を見なくなって久しくなり、あの家の人を見かけて聞いてみた。 

そしたら、猫は事故で亡くなったそうだ。

 


曲がり角の日だまりで、近所の人をひとりひとり見送って、


帰りを待っていたあの姿が見えなくなって

 

私はすごく大事なものを失った気持ちが日を追うごとに増してきて、
 
ふと気がついた。 あの猫は地球の乳を吸っていたかもしれないが、
 
 
あの猫がまさしく

 
私たちにとっての‘地球の乳’だったのではないか と。。。。。
 
 

  

白い猫ちゃん、天国で安らかに暮らして下さいね。
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